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安心について/武田一真司教

2023年8月2日に開催されたオンライン講座「安心について」の講義から、ご講師の許可を頂き掲載します。


名号のおいわれを聞く

武田一真司教

皆さま、ようこそのご参加です。それでは話を始めさせていただきます。
領解文に学ぶ、今日は「安心(あんじん)について」ということで、お話をしたいと思います。

ご承知のように御正忌の報恩講におきまして「新しい領解文」が発布されて以降、大変な混乱が続いています。今日はその一番核心部分「安心」について焦点を当ててお話をしたいと思います。まず本来の領解文の安心の段を読みます。

もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候えとたのみまうして候ふ

『領解文』(註p.1227)

これが本来の領解文の安心の段です。内容は、「自力の心を振りすてて」と自力を捨てるということと、「御たすけ候とたのみまふして候ふ」どうぞ仰せのままに救いましませと、如来様の救いに身を任せていく。つまり他力に帰するということ。この「自力を捨てて他力に帰する」、これが本来の領解文の安心の段の中身です。なぜそうなっておるのかというと、当然のことではありますが、お聞かせいただいた内容がそうだからということですね。浄土真宗で一番要となるお経本、『無量寿経』の「本願成就文」におきましては、お名号のおいわれを聞くというところの最初の引文に

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん

『無量寿経』巻下(註p.41)

とあります。浄土真宗の信心とは、その名号を聞く、南無阿弥陀仏そのままの障りなき救いを告げてくださってある、その御名を聞かせていだたいたら、他に浄土真宗の信心はございませんということです。この経文はそういうことをあらわしてくださっています。ただし、名号を聞くというのは、ナモアミダブツという六字の音声を聞いておれば良いという話ではありません。あらゆる物事がそうですが、そのものが担っている文脈・物語・いわれがあります。

蝉は夏を知らない

8月に入りまして、それこそ災害級と言われますが、大変な猛暑です。浄土真宗で大変馴染みのある曇鸞大師の言葉に

蟪蛄(けいこ)は春秋を識(し)らずと言ふがごとし。この虫あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや。

『往生論註』(七註p.98)

「言ふがごとし」というのは、荘子に「蟪蛄は春秋を識らず」とあることを言うのですね。蝉は春と秋を知ることがない。ここまでは荘子に書かれておりますが、曇鸞大師は「虫にどうして夏がわかろうか」とおっしゃる。いやいや蝉といえば夏で、夏といえば蝉。代名詞のようなものですから、我々からすると、さすがに夏ぐらいわかってるんじゃないかという気になりますが、そうじゃない。夏が夏であるとわかるというのは、春夏秋冬、春や秋の心地よい気候、その風、そして身が縮こまって切られるような冬の寒さ。四季の変化を知って初めて、夏は夏だとわかるわけです。夏の間に生まれて、夏の間に亡くなっていくものは、これだけ暑くても、暑いということが分かりようがない。それしか知らないということは、それすら知らないということになります。我々は目の前のそのものだけを見ていたら、そのものも見えないわけです。

受験勉強する時に大変苦手な英語を勉強していましたら、先生に言われました。「単語をたくさん覚えるのは結構だけど、単語の意味というのはその単語だけ見ておってもわかりませんよ。前後の文脈をよく読んで、その単語がどのような意味を担っておるのかよく考えてください」と先生にお聞きしました。本当にその通りで、たった一言の単語でも辞書を開くといっぱい意味が出てきます。その単語だけ見ておってもどういう意味なのかさっぱりわからない。一言の単語もその前後の文脈の中で、その言葉が担う意味は全く変わってくるわけですね。

南無阿弥陀仏一つに救われていくわけです。それは間違いのないことです。しかし、南無阿弥陀仏とは一体何なのか。南無阿弥陀仏と今お念仏申しておる。今、私は何に遇えておるのか。一体どのようなお慈悲がここに届いているのか。それは南無阿弥陀仏という音声だけ聞いておってはわからない。そのものだけ見ておったら、我々はそのものも見えない。届いておるものの意味がわからないわけです。だから宗祖は信文類において

『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『教行信証』「信文類」(註p.251)

とおっしゃっています。名号を聞くということは、南無阿弥陀仏、障りなく救う、そのまま救う、このたった六字を私に命をかけて届けてくださった。この一声を凡夫に届けることができなかったら、私は仏となりはしない。仏様の命である正覚をかけて、このたった一言一声を、今ここに届けてくださってある。その如来様の願いの一部始終を聞かせていただく。それが名号を聞くということです。そのように親鸞聖人はお伝えくださってあります。

仏願の生起本末

うちはお寺で幼稚園もやっておりまして、毎年七夕に子どもたちに願い事を考えてもらいます。それを聞かせてもらうのが大変楽しみでほっこりします。サッカー選手になりたいとか、広島ですからカープの選手になりたいとか、歯医者さんになりたいというのもありましたね。これはちょっと変わってるなと思いましたが、もしかしたらお父さんやお母さんが歯医者さんなのかもしれませんし、歯医者さんに行ってものすごい楽しい思いをしたのかもしれません。ママになりたい、これも多いですね。そんな中で、数年前にひと際忘れられない印象に残るものがありました。

「お母さんになりたい ゆうすけ」

と書いてあるんです。お母さんになりたいというのはよくあるのですが、「ゆうすけ」と書いてあるので、男の子です。さすがに現代医学の水準からすると、お母さんになるのはちょっと難しいかなと思います。でも、そのようにゆうすけ君が書いた気持ちはいっぱい伝わってきますね。「七夕を迎えますから願い事考えてみましょう」と先生に言われる。何がいいかなと周りのお友達を見回しながらゆうすけ君は考えるわけですよ。そんな中で、大きくなったら何々になりたいという願いが多いと、ゆうすけ君もその中で考えて、自分はどうかなという時に、ハッと、お母さんのあったかさが思い当たる。お母さんてすごいなあ。なんて優しいんだろう。なんであんなに柔らかいんだろう。なんであんなにあったかいんだろう。いつも体いっぱいで僕を受け止めてくれる。元気に帰った時も、先生に叱られてしょぼんと幼稚園から帰る時も、お友達と喧嘩をして泣きべそをかきながら帰る時も。いやむしろ辛い時、寂しい時、涙こぼして帰る時こそ、もっと大きく、もっと深く、もっと優しく、もっと暖かく、お母さんはどこまでも受け止めてくれる。お母さんてすごいな、お母さんみたいな人になりたいなって、「お母さんになりたい ゆうすけ」と書いたんじゃないかと思うんですね。「ゆうすけ」のたった4文字が後に加わるだけで、伝わってくるものが全然変わってくるわけですよ。

南無阿弥陀仏一つで救われていくんです。でも我々は南無阿弥陀仏という御名だけ聞いておるならば、それは比叡山の上にも興福寺にもあるわけです。でも、親鸞聖人が、法然聖人が、蓮如上人が仰ぎ伝えてくださった南無阿弥陀仏。それこそ全然文脈が違うということです。担っておる物語が違う。その南無阿弥陀仏を届けてくださった如来様の願いを聞き開いていく。その一部始終を聞く。それが実は「名号を聞く」ということなんですね。ですから浄土真宗のお聴聞は、お名号のおいわれを聞くと昔から伝わってきたのは、そういうことです。では如来様の願いはなぜ起こったんですか。そもそもなぜ如来様は、おさとりをかけてまでこの一声を私に届けようと願いを起こされたんですか、と。そうすると親鸞聖人は、歎異抄の有名なお言葉で、

彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業を持ちける身にてありけるを

『歎異抄』後序(註p.853)

この私一人がそれほどの業を、恐ろしいものを抱えて生きておる。これが仏願の生起ということになるわけです。じゃあどれほどなのかと言いますと、その後のところに、そのお言葉をよくよく案ずると善導大師の

「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、少しもたがわせおはしまさず

『歎異抄』後序(註p.853)

とあります。どれほどの業かというと、無始よりこのかた、今に至るまで、そして未来永劫にかかって出離の縁あることなき。賢そうな顔をしておっても、一番大切なことは何もわかってない。手の打ちようもない。自力無功、何のために生まれてきてどこに向かっておるのか命の意味を全くわからんで、生まれ死に生まれ死にを繰り返しておるこの私。その自力無功の私のためにこそ、仏様はたった一つの条件もつけない。信じたら救う、称えたら救うという教えは真宗にはないですね。救われようのない凡夫だからこそ、如来様は仏様の方から願いを起こし、仏様の方から兆載永劫のご苦労をかけて障り無く救うという御名を成就して、今ここに呼び続け、名乗り続け、待ち続けてくださっておりました。これが仏願の生起本末ということです。

まとめますと、仏願の生起というのは自力無功の凡夫、出離の縁あること無き私。その身のために如来様の願いが起こされ、そして障り無く救う、そのまま救う御名が成就して、今ここに届いておりました。それが名号のおいわれです。他力の救いとして南無阿弥陀仏が、今ここに届いておりましたということです。これをお聞かせいただくということですから、内容はお領解では捨自帰他(しゃじきた)。自力を捨てて他力に帰するというお領解にならざるを得ないわけです。なっていないとお名号を聞いたことになりません。

「捨自=帰他」が浄土真宗の安心

ここでのポイントは「捨自=帰他」。自力を捨てるということと、他力に帰するということは決してどちらか一つでは成立しえないということです。どちらかでは成立しないし、片っぽだけでは全く意味をなさないということです。捨自ということと帰他ということは一つの救いという事実の両面であるということですね。  
 
このことをお話しする時に、いつもこんな喩えを出します。今朝のニュースにもありましたが、水難事故。溺れるという時に、どうやって身を守るか。皆様方も自分が今まさに溺れかけてるという状況を想定しながらお聞きください。溺れるというのは、泳ぐから溺れるそうです。色んなケースはあるかもしれませんが、基本的には泳ぐから溺れる。泳げないから溺れるんじゃなくて泳ぐから溺れるんです。どういうことかと言いますと、人間というのは比重がありまして、水を1とすると人間の比重は0.98。2%、水より軽いんです。ということは、脱力しておったら浮くように人体の構造ができているということです。それで、水難事故の基本は溺れかけた時には脱力して星形で仰向けになる。うつ伏せはダメですよ。そうすると2%、顔の部分が浮くので息はできるんだと。
 
ところが、溺れかけるとどうしてももがきます。もがくとガブガブガブと溺れてしまう。泳ぐという行為は、実は私が助かるという結果に対して何も役に立っていないのです。むしろ溺れる原因になってるわけですね。けれども、例えば自分が今プールで溺れかけておると、その時に監視員の方が「武田さん、泳ぐから溺れるんですよ。泳ぐのやめたら溺れないですから星型で浮きましょう」と言われても、それでもがくのやめれるかというと、絶対にやめられません。頭でしっかりその知識を得ておったとしても、絶対にもがいてボコボコボコと沈んでしまうと思います。助かるという結果に対してもがくことが何にも役に立ってないわけですが、やめられない。どうやったらやむのか。監視員の方が一目散に飛び込んで、特殊な救命の技術を持って救い上げて下さる。プールサイドまで引き上げてくれて、もう溺れようがないという状況になって、やっともがきはやむと思います。
 
自力のはからいというのは、決して自分で取ることはできないのですね。自力を捨てるというのは、漏れようがないお慈悲に抱かれ、始めてそこで、私の計らいは何にも役には立ちませんでした、とはからいの手を離すことができるということです。また、この私が助かるという結果に対して、何にもプラスになるものは持ち合わせてない。要求もできない。ああしたらいいですよこうしたらいいですよって教えてわかるんだったら溺れてないわけです。それが全く通用しないからこそ、監視員の方が飛び込んで下さってるわけですね。
 
自力無効の凡夫だからこそ、他力の救いそのままで救うと如来様が呼んでくださってある。届いてくださってある。今ここに如来様がそのまま救うと名のりを上げてくださってある。そのお慈悲に抱かれて初めて我々はお慈悲の中で、自力無効、出離の縁なきこの身でありましたと、何もわかっておりませんでしたと、はからいの手を離させていただくわけです。ですから自力を捨てるということと他力に帰するということは、決してどちらかでは成立しえない。捨自即帰他(しゃじそくきた)。捨自帰他の安心です。だからこそ本来の領解文では、「自力の心をふりすてて」という捨自と、「御たすけ候へとたのみまうして候ふ」という帰他の安心ですね。この捨自と帰他が一つのものとして、冒頭に掲げられてあるということです。

 「新しい領解文」の危険性

ところが、「新しい領解文」ではどうなっているかというと、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ そのまま救うが弥陀の呼び声」と書いてあって、全く文脈が変わってしまいます。私の側に当て頼りになるものが何一つない。清浄真実なるものが何一つない凡夫ゆえにそのまま救う、という話と、私は本来仏様だからそのまま救うとは、全然話が変わってしまいますよね。そのまま救う、といいさえすれば浄土真宗になるわけではないんです。「そのまま」にも文脈があるわけですよ。

例えば大谷選手の映像が出た時に「さすがに私は大谷選手にはもう何にも注文のつけようがありません。どうぞ何にも言うことはありませんから、そのまま活躍していってください」というような、「そのまま」の使い方があります。これは、真宗の「そのまま」ではありません。

善導大師は「救急の大悲」と仰います。救急というのは速やかに救う。まさに救急車ですよ。救急車が来て「武田さん大丈夫ですよ、救急車が来ましたから安心してください」と、私が担架に乗る時に、救急隊の方も重かろうと自分で起きようとしたら、必ず救急隊員の方が「いや武田さんさん大丈夫です、起きなくていいです。そのままじっとしといてください」と仰るはずです。なぜか。普通は我々の方から病院に行くわけです。それはまだ病院に行くことができる力のある時です。本当に苦しい時、力がない時は病院に行くことができません。だから救急車が病院の方から来てくれる。そういう状況の時には、たとえ私が起き上がる力があったとしても、身を起こすということが、もしかしたら命取りになりかねないわけです。
 
そのまま、と言いさえすれば浄土真宗になるわけではなく、全然文脈が違うわけです。少なくとも「煩悩とさとりは本来一つだからそのまま救う」、これではお名号のおいわれを聞いたことには全くなりません。ここはやはり「新しい領解文」で1番危険なところだと私は考えています。
 
ただ、勧学寮の解説を読みますと、この1段2行をお名号のいわれ、いわゆる仏願の生起本末とは考えておられないようです。この2行を仏様のさとりの風光を表すと書いてありますね。煩悩とさとりが本来一つ。確かにそういう言葉は仏様のおさとりの境涯を指し示す言葉としてはありますが、我々は生と死を反対のものにしか考えられません。迷いとさとりもそうですね。出会いと別れ、煩悩と菩提、我々にとっては言葉が別れておる。その反対にしか考えられないものが即でつながっていて、全く別物でないと。それを「本来一つ」というかどうかは別にして、煩悩はそのまま菩提である。生死の苦しみはそのまま涅槃の安らぎである。そんな言葉が成立していく境涯、これを真如とか法性とか一如と申します。言葉の限定を完全に超えた領域です。それが仏様はさとりの領域なんですね。その仏様のさとりそのもの、生死一如、煩悩即菩提をさとられておるような、そういう智慧から阿弥陀様のお慈悲による救済が成立しておるんだ。こういう形で勧学寮はこの2行を解説しています。

こうなってくると、専門的な用語では、この2行はお名号のおいわれ、仏願の生起本末ではなくて、法性法身と方便法身、いわゆる二種法身の関係ということになってきます。それにしても「本来一つゆえ」ではありません。なぜならば、煩悩とさとりは本来一つ、煩悩即菩提をさとられているのは阿弥陀様だけではないんです。あらゆる仏様方が皆共有しておられるおさとりです。けれども、そのおさとりを得ておられながら、今ここに、凡夫のために私のために、そのまま救うと名のりをあげてくださってあるのは阿弥陀様だけです。だから「超発稀有の大弘誓」と親鸞聖人は仰るわけです。他のどの仏様方も起こすことができなかった誓いを阿弥陀様は起こされました。善導大師は往生礼讃の中で

諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ

『往生礼讃』(註p.659)

とあります。あらゆる仏様方のさとりの内容は、ある意味一つ、平等と言えるでしょう。それは一如と法性という一切の限定がない世界ですから、別けようがありません。けれども、どのようにそのおさとりに至る道を指し示しておられるのか。「願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず」と、その中で光明をもって十方衆生をおさめとり、ただ信心をもって疑いなき真実、信一つをもってすべてのものを救うてくださる。そのような働きを起こされたのは阿弥陀様だけでした、ということですね。だから「煩悩即菩提」というおさとりから、そのまま救うという阿弥陀様の名のりというものが、するっと必然的に出てくるような話ではありえません。「煩悩即菩提」であろうとも、そのまま救うと阿弥陀様が今ここに名のりをあげてくださっているのは、それこそが超発稀有、ありえないことがありえている不思議であるということです。だから決して「ゆえ」ではないということです。

「ゆえ」ではない

もっと言いますと、諸仏のおさとりも、「ゆえ」ではありません。お釈迦様が35歳の時に菩提樹のもとでおさとりを開かれました。ところがご承知のように、さとりを開いたから皆さん聞きなさいとすぐ立ち上がって法を説かれたかというと、そうではありませんでした。むしろ、お釈迦様はおさとりを開かれた後に、このさとりを人々に言葉をもって伝えるということは不可能である。もしまた仮に説いたところで、私が言葉にして伝えることによって、人々をより深い迷いに落とし入れ、 あるいは地獄に落としてしまうかもしれない。そこまで考えられて、法を説くことは到底できる話ではないと、そのまま涅槃に入ろうとされた。お釈迦様は一旦ご説法を躊躇して、そして拒否されてるわけですね。でも、お釈迦様は立ち上がり最終的に伝道の旅に出られた。梵天という神様が何度も何度もお願いをして、あなたの教えによって、さとりのまなこを開いていく人が必ず出てくるから、どうか教えを説いてくださいと。梵天が再三勧請して、ようやくそれでお釈迦様は立ち上がり決意をして、菩提樹のもとから一歩踏み出していかれるわけです。一歩踏み出されると、もう徹底したもので、80歳で沙羅双樹のもとでお倒れになるまで、起き上がることすら難しい状況でも、法を求める方がおられたら説き続けて、そして入滅されていきました。本当に最後の最後まで、言葉を紡ぎ続けていかれるわけです。それは決して、私はさとったから聞きなさいというような話ではありえないわけです。如来様は、私が法を解くことによって人々を最も苦しい迷いに落としてしまうかもしれない、それでも説くということですね。
 
私の信頼しております先輩が教えてくれました。論文を書いておる時に、言葉の表現がちょっと自信がなかったんですよ。それを読んでもらって、「これ誤解を生みそうな気もするんですけど、ちゃんと意図伝わりますか」と聞きますと、その先輩は「一真さん、何かを表現するということは、誤解を生じる恐れ、リスクを担うということなんですよ。その覚悟がなかったら、そもそも表現というものはすべきではないです。」こう教えていただきました。本当にそうだなと思います。誤解を生まない表現ってありえないわけです。でもその誤解を生じていくリスクを担う覚悟がなければ、そもそも表現はすべきではないと。我々凡夫のレベルでもそうですね。お釈迦様は自らが法を説くことによって、人々を地獄に落としてしまうかもしれない。それはまさに仏が仏の資格を失っていくということですが、それでも説かれて、そして説き続けてくださった。その仏様の言葉というものは、今は八万四千の法門、一切経五千巻以上あります。それはどのページを開いても一行一句一字に至るまで、仏様の慈悲としか言いようがないわけです。おさとりを開いたから説きますという話ではありません。その仏法八万四千の法門、仏様が教えを説かれたことこそが不思議なわけですよ。
 
その中でも親鸞聖人は

いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘誓になづけたり

『高僧和讃』(註p.584)

と仰るのですね。八万四千の法門すべてが仏陀の慈悲の働きであり不思議というべきであるけれども、その不思議の中の不思議こそ、南無阿弥陀仏、今ここに如来様が正覚をかけて「あなたが救われなければ私も救われない」と。そのまま救うと今ここに降りきって下さって、この一声こそ不思議の中の不思議でありました、と仰るのが親鸞聖人ですね。ですから決して「ゆえ」ではないということです。煩悩即菩提、生死即涅槃、そういう真如の領域から、「だからそのまま救われるんだ」と流出的に出てくるようなものではありえない、ということです。
 
事実、親鸞聖人は、不思議とか不可思議という言葉は真如とか一如の領域、いわゆる法性法身のところでは、一切使っていません。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり

『唯信鈔文意』(註p.709)

と仰る。心も言葉も及ばないんですから不思議と言ってもいいわけです。でもその法性法身のところでは、不思議、不可思議という言葉を一回も使っていません。宗祖が不可思議、不思議という言葉をお使いになるのは、例外なく阿弥陀様のお働き、方便方身のところです。「不可称不可説不可思議の誓願」、「不可称不可説不可思議の信楽」、そのように阿弥陀様の働きを教行信証、真仏土、方便法身の働きについてのみ不思議という言葉を使っています。南無阿弥陀仏、そのまま救うと今ここに呼んでくださっている、それこそが不思議なんだ、というのが親鸞聖人のご法義の仰ぎ方であったわけです。あなたの口から出るその一声に、驚くべきありえないお慈悲が届いてくださってありますよ。その意味を教えて下さった。それが親鸞聖人ですね。ですから「ゆえ」ではないということであります。

ことばもたえたり 

もう一つダメ押しをしますと、そもそも「煩悩即涅槃」とか「生死即涅槃」という言葉は、凡夫が責任持てるような言葉ではないし、凡夫がわかるような話ではありえない。むしろわかったらいけない、ということです。皆様方、今日は100名以上の方がご視聴なさっているということですが、統計を取ることはできないのが残念ですが、パンナコッタって思い浮かべることできますか?わかる人はあまりいないと思います。今イメージすることができた方は、スイーツが好きな方ですね。私はそんなに好きではありませんから、パンナコッタと自分で言いながらも、全く思い浮かべることができません。この間、岡山でこのお話をしますと、パンナコッタっていう仏弟子がいるのかと思いました、と仰った方もおられました。スイーツが好きなわけではない、食べ物だということも知ってなかったら、パンナコッタと聞いてもさっぱりイメージすることはできません。たとえ食べ物だと知っていても、食べたことがある人でないとイメージすることはできないですね。言葉を知っているっていうことと、その言葉が指し示しているものを知っているというのは全然違います。

生と死という言葉は我々知ってます。誕生日は何日ですかと子どもたちに聞くと何月何日と言ってくれます。じゃあ生まれてきたこと覚えてる人って聞くと、途端に手が上がらなくなりますね。生まれてきたということは知ってる。そして誕生日も答えられる。でも生まれてきたとはどういうことですかと聞かれるとさっぱりわからないわけですよ。言葉は知ってる、誰もが知ってる言葉だけども、誰もその言葉の中身を知らない。そんなこともよくあることです。

「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」というのは、仏様のさとりのまさに風光。それは勧学寮が言う通りです。ですから凡夫がわかるような話ではありえないわけです。そのわかりようのない言葉を持って、「ゆえにそのまま救う」と仏様のお慈悲の仰せを支えようとした時に何が起こってくるのか。浄土真宗のすべてが崩壊するということです。如来様が仏様のさとりをかけて、正覚をかけて五劫思惟(ごこうしゆい)、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご苦労を持って今ここに「そのまま救う」と名のりを上げてくださってある。その如来が今ここにそのまま救うと南無阿弥陀仏と届いてくださってる。それが全てなんですよ。親鸞聖人のご法義も法然聖人のご法義も蓮如上人のご法義も、如来様が今ここに呼び続けて下さってある。そのことを我々に伝えて下さる。その為にそれぞれの教学というものがあるわけですね。仏様が今ここに名のりを上げてくださって、それがすべてを支える思想基盤です。その下はなく、全てなんですよ。その仰せを「煩悩即菩提」だから救われる、「生死即涅槃」ゆえにそのまま救われる、と支えようとした時に、仏様が今ここに届いてくださったそのお慈悲が、全て無意味なものになってしまいます。

建物というのは基礎が大事です。基礎をしっかり固めているからこそ、その上に建てていくことができる。どんな立派なものを建てても、基礎がぐちゃぐちゃだったら全部倒れますよね。浄土真宗のおみのりというのは、あらゆる法義を支えてるのは何か、如来の本願です。如来様がそのまま救うと今ここに届いてくださってある。正覚をかけてこの名になりきって、降り切ってくださってる。それが全てを支えています。それを「本来一つゆえ」と、凡夫にわかりようのない話をもって、だから救われるんだと支えようとした時に、浄土真宗はご法義がすべてが崩壊してしまいます。ですから私は勧学寮の解説であっても、勧学寮はそのようにさとりの風向を表すと言ってますが、それにしてもありえないと。ゆえではない。ということで勧学寮の解説も私には受け入れることはできない、ということになります。

武田 一真(タケダ カズマ)
1973年、広島県生まれ。浄土真宗本願寺派司教。龍仙寺住職。
著作:『西方指南抄講讃〜親鸞が仰いだ法然のことば〜』(永田文昌堂)
『親鸞浄土教の特異性 空海密教との対比を通して』(永田文昌堂)


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