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四洲教区学習会、質疑応答

2023年10月11日に開催された四洲教区の学習会より、質疑応答の一部を要約して記します。質問と回答に絞っているため、さまざまなご意見は割愛していますことをご了承ください。


領解ではなく生活実践なのか?

Q 領解文ではなく生活実践なのか?

A それぞれの時代において、念仏者のありよう、具体的な信仰の実践あたりを注意喚起して下さる思いの流れの中で、この度のご消息でも、生活実践のありようの部分を特に注意した方が良いということ。(満井所長)

Q そのままの救いなのか。

A 私たちが救われていく歩みの中に、その都度その都度、そのままの救いが届けられているという事。だんだん何らかの目標にたどりつこうとしているのではない。お慈悲をいただいた歩みが少しづつ変わっている部分があるのではないか。その持続的な面に目を向ける事で、社会貢献に熱心な若い世代の方に、そこが入り口になって、真宗に親和性を持ってくれる面があるのではないか。 (満井所長)

Q 公式な学習会で、ご門主の文章を説明するのであれば、「私はそう思います」と言って個人的な考えを述べる事はおかしいではないか。

A「思います」はさける。(満井所長)

Q ご門主を盾にする事は許されない。

A この宗門はご門主を中心にしてお念仏をいただいている同士の集団だと認識をしている。なのでご門主の言葉は重い。その中で学習会もある。ご門主を盾にするわけではない。(公文名総務)

Q 二種深信の部分がないのではないか。

A 二種深心に相当する部分は文面上みえにくいが、例えば愚身がある。(満井所長)

説明と文章の乖離

Q 満井所長の説明と新しい領解文に、乖離があるのではないか。特に「本来一つゆえそのまま救う」の部分。根拠は『論註』をあげておられるが。

A 文面上あらわれていないことについて私が説明する場合は、私の思いを言うしかない。法蔵菩薩の目の前には苦悩の有情があった。そこから仏願の生起本末があると理解している。(満井所長)

従来の領解文の精神はどこにあるのか

A 痛いところを突いてくると感じる。従来の領解文にみえるような自力心との決別は弱いように感じる。安心、報謝、師徳、法度という段落で受け継いでいる。第三段をどう考えるか。従来であればここは法度になる。法律や道徳や掟でしばるのではなくて内発的に変革された自己表明というありようを、ここでは法度の精神をこのように表現された。ともに考えていただきたいのは、どうしてこのような表現を用いられたのか、ご門主の御心をそれぞれに考えていただきたい。 (満井所長)

Q 準聖教だから正しいのだというのか?それは仏教ではなくなる。

A そうではなくて、ご門主がご消息で表現なさろうとした心を我々門末は少しなりとも自分の課題として考えていくべきではないか。(満井所長)

信後のありようを規定しているのでは

Q 信後の相続について。育てられたありようとして人それぞれあるものを、「日々に精一杯つとめます」、などと決めると危ないのではないか。

A 信後の相読行を決めるものではない。戦時教学ではない。おのおのの持ち分。できる事をさせてもらう、できることをしないのは怠慢。(満井所長)

Q 命おわる人へのお見舞いに行く事もある。そこで新領解文を「精一杯つとめます」とすすめる事ができるのか。褒められて育ってきた人へ向けてであれば、この領解文は命終わる人むけではない。

A 私がそうではありませんと言える立場にないが、適切かどうか尋ねられたら、私はちょっと違うなという気はする。(満井所長)

総局は現実を見ているのか

Q 各研修会にて唱和の時の様子を観察したが、担当者のみが唱和をしていただけ。総局は唱和100%という目標をたてているが、現実を見ているのか?

A 返答無

「ありがとうといただいて」は私の意業では

Q「ありがとうといただいて」は「ありがとう」と思って「いただく」のであれば、それは意業になるのでは?信心とぐちゃぐちゃになっている印象がある。従来の領解文のように「たのむ一念のとき」「その上の称名は」とわけていない。

A 救いが先手、我々が後手である。先手の救いに対する後手の感謝。ありがとうの心ぶりは、仏恩報謝のお念仏に関わってくる。(満井所長)

自己肯定感が低ければ機の深信が通じるのか

Q 自己肯定感の高い教育を受けた方は機の深信を受けにくいとあったが、でしたら機ぜめが肯定されるのではないか。

A 機ぜめは機の深信をつきつめすぎる。罪悪感が独り歩きする。信罪心という自力。褒められて育ってきた人たちが、一旦拒否反応を起こされたら伝わるものも伝わらず、遮断される可能性がある恐れがある。自己肯定感の高い人たちにも受け入れやすいような考慮がされているようにうかがっている。(満井所長)

Q 約仏の仏徳讃嘆がある中で、師徳の段は違和感がある。約仏に立たれるのであれば、歴代宗主はご門主はおさとりを開かれた仏様ですか。従来の領解文のように善知識という表記であれば文脈は通る。阿弥陀様の一人働きではないか。私と阿弥陀様の一対一。

A 約仏の仏徳讃嘆を思わせていただくようになった身は、何によってのお育てか。それは本願力のお育て、宗祖のご誕生があって、そして800年の間の先人方の尊いご縁によって、それによって私が念仏者にならせていただいた。(満井所長)

解説がないと読めない

Q 機の深信が薄いのであれば法の深信も薄いという事になるのでしょうか。今まで聞いてきた領解文とは言葉遣いは違う。考えてほしいとも仰る。ではこの文章をこのまま領解としていただく事はおかしいという事なのか。

A 信仰表明と考えられる。約仏の仏徳讃嘆。おかしいことはない。(満井所長)

往生後の証果の内容を現生で領解できるのか

Q 正信偈の生死即涅槃は往生後の証果として説かれるけれど、それを現生で領解するのですか?回向法の根源、往相回向の到達点、還相回向の出発点、これを現生において領解できるのか?

A 曇鸞大師は生死即涅槃として讃えておられる。我々も言葉を用いながらさとりへ思いを馳せる事は可能。それは信知の段階であって、同じ体験を追体験できるわけではない。仏徳讃嘆の表現としてはあり得ると思う。(満井所長)

Q 機の深信は「愚身」ぐらいしか見えないと仰った。この愚身を辞書で調べると、へりくだった言い方として一般的にとらえられている。機の深信にしても疑問点が多い文章。ここを入口として奥深い真宗の教えについて考えていただきたいと仰るが。ご門主のお心は、皆さんにわかっていただきたい、正しく伝わっていくようにというもの。この領解文の内容と変わってくるように思いますがいかがお考えですか?

A ご門主のお心に関してはお答えしにくい。愚身という言葉は、国語辞典でも謙譲語的な言い回しにすぎない。法の深信的な内容でないとそうなる。(満井所長)

Q やはりそこには「三界の虚妄の相を知る」という部分が抜けると法も機もたってこないのではないか。

A 説明を加えるごとにどんどんと長くなる。短い言葉にどれだけご法義を。私たちも自分が納得できないところは、つきつめるべき。(満井所長)

Q 聖教の扱いではないものが、得度式で用いられている事は、どう考えておられるのか。

A 総局の担当ではなく本願寺の内局が担当なので、私たちは詳細を承知していない。(公文名総務)

説明できないものを領解とすることはできない

Q 聞いても納得できない。観経の不浄説法を思わせる。総局が対応できないというのであれば、ご門主に直接抗議をしなければいけないという事になるがどう考えているのか。

A 総局としては混乱を承知している。厳しく受け止めて、今後しっかりと検討していく。(公文名総務)

意見

・文章にない言葉を用いなければ読めない文章だから、混乱が起きている。
・ご門主と総局と勧学寮にもう一度認めていただく。
・100%唱和を目指すと言った段階で差別。それを忘れておられる。
・この問題をみんなで考えていきたい。



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