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改悔批判/2008年1月9-15日

浄土真宗の信心をあらわす「改悔批判(がいけひはん)」に関して、2008年の改悔批判をテキスト公開します。与奪者(ご門主の代理)は梯實圓勧学です。二日以降は重複する内容を含みますが全文公開します。


改悔批判

2008年1月9-15日/与奪者:梯實圓勧学

第一日

本日逮夜から十六日の日中まで、例年の旧儀として一七箇日の御正忌報恩講が厳修されます。まことにありがたいことであります。この勝縁にあたって不肖實圓、改悔批判、お手代わりの尊命を蒙りましたことは、身に余る光栄であります。

親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』のはじめに浄土真宗の大綱を示して、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

『教行信証』(註p.135)

といわれています。これによって、浄土真宗とは本願力回向(ほんがんりきえこう)を基軸としたみ教えであって、開けば往相還相の二相となり、教・行・信・証という往相の四法として展開する法義であることが分かります。『教行証文類』にはその一々を「教文類」「行文類」「信文類」「証文類」として詳細に示されています。その他に「真仏土文類」と「化身土文類」が説かれています。「真仏土文類」には往相還相の二種の回向がそこから出て、衆生を救い、そこへかえらしめる真仏と真土の徳相があらわされています。また「化身土文類」には、邪偽の宗教に迷っているものを真実の教えに導き入れるために、しばらく仮に設けられた方便の教えが聖道門(しょうどうもん)であり、また浄土門(じょうどもん)内の要門(ようもん)と真門(しんもん)であるとあらわされた巻であります。

本願力回向の本願とは、阿弥陀如来さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と名のる修行者であった時に誓われた衆生救済(しゅじょうきゅうさい)の願いのことであります。『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』にはその願いをひろく四十八願として説かれていますが、それは根本願である第十八願に集約するといわれております。法蔵菩薩はその誓願を実現するために兆載永劫(ちょうさいようごう)にわたって修行を続け、願いの通りに生きとし生けるすべてのものを救済することのできる功徳力を完成されたとき、阿弥陀仏となられたと説かれています。こうして完成された衆生救済の功徳力を本願力といいますが、それは南無阿弥陀仏という名号として具体化されております。

第十八願には、十方の衆生に本願力の結晶であるような名号を聞かせ、本願を信じさせ、名号を称えさせて、浄土に迎えとると誓われていました。したがって本願力は、本願の通りに名号となって衆生に与えられ、信心の行者を育てあげ、往生させ成仏させていきます。それを本願力回向の救いというのであります。このような本願力回向の救済活動が、具体的に十方の衆生の上にあらわれていくありさまに往相と還相という二種があるといわれたのであります。

往相とは、往くありさまということで、私共凡夫が如来さまに救われて浄土に生まれて往くことです。すなわち、あたえられた『大無量寿経』のみ教えを聞いて、南無阿弥陀仏という本願力回向の行を、私の救われる唯一の道であると疑いなく信じ、如来さまに護られながら念仏の人生を送るものは、臨終には必ず浄土に生まれ、仏陀としての完全なさとりを得しめられます。それを本願力によって回向された往相の教・行・信・証というのであります。 

還相とは還ってくるありさま、ということで浄土に往生し真実の智慧を完成して仏陀となったものは、その智慧の必然として大悲を起して、煩悩のうずまく迷いの世界に還ってきて、相手に応じてさまざまなすがたをあらわして自在に人々を救う、生死に迷うものを導いて浄土に往生する往相のひとに転換していきます。それを還相というのでありますが、そのように還相のはたらきをなすこともまた、如来さまの本願力のたまものであるということで、聖人は還相を回向してくださると言われたのであります。

こうして今までは、自分の存在を「生まれて死ぬ」という枠組みの中でしか考えられなかった私共の死生観の枠組みを破って、生と死に新しい意味と方向をあたえてくださるのが本願力回向のはたらきだったのであります。その躍動的な往相還相のはたらきに身をゆだねることによって、私共は人生を念仏の道場とみなし、死を浄土のさとりの開けるご縁と受けとることができるようになります。それを浄土真宗に遇うといい、お救いにあずかるというのであります。

さて、このお座は、改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

もろもろの雑行雑修自力(ぞうぎょうざっしゅじりき)のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生(ごしょう)、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定(おうじょういちじょう)御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞(ちょうもん)申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承(しだいそうじょう)の善知識(ぜんじしき)のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟(おんおきて)、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

『領解文』(註p.1225)

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心(安心)、報謝(ほうしゃ)、師徳(しとく)、法度(はっと)の四段として、お心をうかがってまいりました。

第一の安心とは、信心のことですが、浄土真宗の信心は、自力を捨てて他力に帰することが肝要であります。そこでその捨てるべき自力のものがらをあかして、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

と示されているのであります。雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)とは、ここでは自分の修行能力をたのみにして、本願他力をたのむこころが欠けているものを総称された言葉であります。もともと雑行とは正行に対する言葉であります。善導大師は経論に説かれている往生の行を正行と雑行とに区別されました。正行とは、阿弥陀如来さまとその浄土を所対としておこなう行ですから、正しく浄土に向かっている行という意味であります。それに、読誦(どくじゅ)、観察(かんざつ)、礼拝、称名、讃嘆供養(さんだんくよう)の五種の正行があります。それに対して雑行とは、本来はこの土で悟りを完成するための修行だったのであります。往生行でないものを往生行にしていこうというのですから、邪雑の行、すなわち雑行といわれるのであります。またその行の種類や目的が雑多に分かれていますから雑行というともいわれています。
『高僧和讃』「善導讃」に

こころはひとつにあらねども
雑行雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとへに雑行となづけたり

『高僧和讃』(註p.590)

と仰せられたものがそれであります。

次に雑修とは専修に対する言葉で、善導大師は正行を修することを専修といい、雑行を修することを雑修と仰せられていました。しかし、親鸞聖人は和讃に

助正ならべて修するをば
すなはち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこころなし

『高僧和讃』(註p.590)

といわれたように、たとえ正行を実践していても、正定業(しょうじょうごう)と助業(じょごう)との区別がついていないようなものは雑修であると仰せられました。五正行の中で、第四の称名だけは阿弥陀如来さまが第十八願において往生の行として選び定めて下さった、選択本願(せんじゃくほんがん)の行ですから、正しく往生の決定する正定業であります。それ以外の四種は念仏するところに自然と付き従ってくる助伴の行で独立した往生行ではありませんから、助業といわれたのであります。しかし、もし、正定業と助業という区別を知らず、同じように往生の業であるとみなしている者は、本願のお慈悲を見失った自力の行者である、雑修の部類に入ると誡められたのであります。
さらに、親鸞聖人は和讃に、

仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる

『高僧和讃』(註p.590)

といわれています。たとえ称名のみを専修していても、称名を現世利益(
(げんぜりやく)をもとめる手段として称えているものは、加持祈祷を行うのと同じ自力雑修である、浄土に往生することはできないと、厳しく誡められたのであります。さらに称名を専修していても自分が称えた念仏の功徳を回向して往生をさせていただこうと願っているものがいます。そのような人は、如来からあたえられた名号を、おのれが積んだ善根と誤解している自力の行者ですから、真実報土には往生できないと、親鸞聖人は厳しく批判されています。

領解文は、次に正しく安心をのべて、

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

と示されています。これは、「必ずたすける」と仰せられる勅命(ちょくめい)に信順(しんじゅん)し、たのみまかせる信心をあきらかに示されたものであります。こうして如来さまにまかせたてまつる一念即時に摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益にあづかり、往生すべき身に定めていただくのであります。

そこで次の第二段に報謝のこころを述べて、

このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

といわれるのであります。すでに往生一定の身にしていただいているのですから、その上で称えている称名は、「おたすけくださってありがとうございます」と、如来大悲のご恩を感謝する御恩報謝の営みであるというのであります。

第三の師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。私共が阿弥陀如来さまの本願を聞き、南無阿弥陀仏という生死出づべき道を信知することができたのは、ひとえに親鸞聖人のご教化のたまものであります。また、親鸞聖人のみあとを継いで、浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れてはなりません。その深重なるご恩を感佩する一段であります。

このようにして、師徳を仰ぎ、み教えに遇えた身のしあわせを思うにつけても、身を慎み、一宗の掟を守って、美しい念仏者として生涯を全うするように示されたのが、第四の法度の段で、

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

といわれたものがそれであります。

なお、引き続き日没の勤行にあわせていただいて、わが家わが宿にお帰りになったら、法味愛楽、称名相続のうちに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。

第二日

親鸞聖人のご恩徳を偲ばせていただく御正忌報恩講の第二日を迎えました。昨日は浄土真宗の法義綱格についてお話しいたしましたから、本日は浄土真宗の法義のよりどころである『大無量寿経』のおこころを味わわせていただきたいと思います。

親鸞聖人のみ教えの特徴として、源空聖人が浄土宗のよりどころとしてあげられた『浄土三部経』のなかで、特に『大無量寿経』を真実の教と定め、この経に説かれている教法を浄土真宗と名付けられたことであります。
『教行証文類』の第一「教文類」のはじめに 

それ真実の教を顕わさば、すなわち『大無量寿経』これなり。

『教行信証』(註p.135)

といわれたものがそれであります。教とは正しい道理を説いて人々をさとし、導くことであります。仏教で教という場合では、経典を意味するときと、そこに説きあらわされている教法を意味する場合とがありますが、今は『大無量寿経』という経典のことを教といわれたのであります。「教文類」にはその『大無量寿経』に説かれている教法について、

如来の本願を説きて経の宗致とす、すなわち仏の名号をもつて経の体とするなり。

『教行信証』(註p.135)

と言われています。経の宗致とは、この経典に説かれている法の中軸をいい、経の体とは経典の本体のことであります。『大無量寿経』の本体は名号であり、この経に説かれている法義の中心は、阿弥陀如来さまの本願であるといわれているのであります。一般には四十八願を指して本願といわれていますが、『教行証文類』では本願という言葉は第十八願に限って用いられていますから、今は第十八願を本願といわれたというべきであります。それは四十八願は、第十八願に帰一するとみられた、善導・源空両師の教えを承けられているのであります。要するに『大無量寿経』は、阿弥陀如来さまの第十八願の因果、すなわち仏願の生起本末を詳しく説いて、名号のいわれを私どもにお知らせくださる経だったのであります。

ところで、真実の教とは、釈尊の本意を説き顕した経典という意味で、方便の教に対する言葉であります。方便の教とは未熟なものを育て導くために、相手の理解力に応じて、しばらく仮に説かれた教えをいいます。それに対して、釈尊がこの世に出現された本意を説き顕された経典を出世本懐の経といい、そこには究極の法義が顕されていますから、真実の教というのであります。『大無量寿経』が仏の出世の本懐を顕された真実の教であるということは、この経の発起序に説き明かされています。そこには説法に先立って釈尊は、深い禅定に入られますが、その時、全身が光り輝くという瑞相を示されました。そしてそのいわれを尋ねた阿難尊者に向かって、

如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

『仏説無量寿経』(註p.9)

といわれています。すべての如来は無限の大悲をもって、迷いの境界に生きる衆生を憐れんでおられる、そのような如来がこの迷いの境界に出現されるのは、この経を説いて衆生に真実の利益を恵みあたえるためである、といわれているのであります。これによって、このたび説かれる阿弥陀如来さまの本願のみ教えこそ、一切の衆生に真実の利益を恵む教法であり、それを説くことが釈尊のみならず、一切の如来がこの世に出現される根本意趣であることがわかります。

こうして親鸞聖人は、この経説によって、『大無量寿経』が一切の諸仏の本意を顕した経典であり、真実教であることを証明されたのであります。『大無量寿経』は、釈尊が一代の間に説かれた、たくさんの経典の中でも、特に出世本懐を顕された経ですから、聖人は「如来興世の正説」と讃嘆されていました。またそこに説かれている本願の教法は一切の衆生を善悪賢愚のへだてなく平等に救い、生死を超えさせてゆく唯一無二の教法であるというので、「一乗究竟の極説」と讃仰されたのであります。

ところで、この経は釈尊が説かれたものであるにも関わらず、親鸞聖人は、阿弥陀如来さまが本願力をもって私どもに回向せられた経であるといわれています。それは釈尊をして『大無量寿経』を説かせたのは、阿弥陀如来さまの第十七願力だったからであります。第十七願に十方の諸仏に名号のいわれを称揚讃嘆させることによって、十方の衆生をして本願の救いを聞かせようと願われています。その第十七願力にうながされて釈尊は、『大無量寿経』をお説きになったのですから、その本源からいえば、阿弥陀如来さまが第十七願力をもって私共にこの経を回向されたといえるのであります。さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

領解出言

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心・報謝・師徳・法度の四段として、お心をうかがってまいりました。第一の安心とは、信心のことであります。それは、自力を捨てて他力に帰する心でありますから、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

といい、次に

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ

と他力に帰する信心の相を示されたのであります。一心とは、「ふたごころがない」ということで、疑い心をまじえない心相を顕しています。

われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ

とは、本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けている一心の内容を詳しく表した言葉であります。本願の信心を「たのむ」という和語で表された例は、親鸞聖人の上にもしばしば見ることができます。たとえば『唯信鈔文意』の初めに、

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。

『唯信鈔文意』(註p.699)

と仰せられて、自力を捨て他力に帰する本願の信心を表す言葉として「たのむ」が用いられています。また、「行文類」の六字釈に「帰」の字訓としても「帰説(キエツ)」ヨリタノムナリ、「帰説(キサイ)」ヨリカカルナリ、という左訓をほどこされています。これによって、帰命に、ヨリタノム・ヨリカカルという意味を見出されていたことが分かります。「たのむ」という言葉は、現代の国語辞典などによれば、「たよりにする・信頼する・帰依する・頼るものとして身をゆだねる・お願いする」といった意味があげられています。しかし、親鸞聖人や蓮如上人の「たのむ」には「お願いする」という意味で用いられた例は全くありません。しかも、「信文類」に「大悲の弘誓を憑み」といわれたとき「たのむ」の漢字表現が「憑」という字が用いられているように、かならず「憑」の和訓としての「たのむ」が用いられていました。「信」には「信憑」という熟語があるように「憑」の意味があり、たのむと訓みならわしていたのであります。「憑」は「よりかかる・たよりにする・あいての力をたのみにする」といった意味を持つ言葉で、祈願という意味はありません。そこで自力をはなれて本願他力にまかせていく、本願の信心を表す和語として適切であるとして採用されたのであります。蓮如上人は親鸞聖人にしたがって、「たのむ」という言葉を南無阿弥陀仏の「南無」すなわち「帰命」の訳語として用いられました。また、親鸞聖人は、「阿弥陀仏摂取不捨のことわり」すなわち「必ずたすける」といういわれを表す言葉とされていました。そこで蓮如上人は南無阿弥陀仏とは、「われをたのめ、かならずたすける」という仰せであると領解し、信心とはその仰せを聞いて疑いなく受け入れて、「さようならば、おたすけくださいませ」と阿弥陀仏をたのみ、おまかせするこころであるといわれたのであります。その他力の信心を蓮如上人は、

たのませて たのまれたまふ 彌陀なれば
たのむこゝろも われとおこらず

『蓮如上人和歌集成』(聖典全書五p.1097)

と詠われています。こうして阿弥陀如来さまのおたすけをたのみ、如来さまにおまかせする一念即時に、摂取不捨の利益にあづかり、往生一定の身に定めていただきますから

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定

と領解するのであります。
さて、第二段の報謝の心を述べて

このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうしそうろうふ。

と言われています。すでに往生一定の身にしていただいているのですから、その後の称名は「おたすけくださって、ありがとうございます」と如来大悲のご恩を感謝すべき、御恩報謝の営みであります。
第三の師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。私共が阿弥陀如来さまの本願を聞いて、南無阿弥陀仏という生死出づべき道を信知することができたのは、ひとえに親鸞聖人のご教化のたまものであります。また親鸞聖人のみあとを継いで、今日まで浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れることはできません。その深重なるご恩を感佩する一段であります。このようにして、師徳を仰ぎ、み教えに遇えた身のしあわせを思うにつけても、身を慎み、一宗の掟を守って、美しい念仏者として生涯を全うするよう、示されたのが、第四の法度の段で、

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

といわれたものがそれであります。

なお、引き続き非時の勤行・日没の勤行にあわせていただき、わが家わが宿にお帰りになれば、法味愛楽、称名相続のなかに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。

第三日

親鸞聖人のご恩徳を偲ばせていただく御正忌報恩講も第三日を迎えました。昨日は、真実の教についてお話いたしましたから、本日は、『大無量寿経』の宗致であり、浄土真宗の本体である第十八願のおこころを味わわせていただきたいと存じます。

『大無量寿経』によれば、久遠の昔、法蔵と名のる菩薩がご出現になり、涅槃の浄土を建立し、生きとし生けるすべてのものを迎えとり、まことの目覚めと安らぎをあたえようとする誓願を起し、さらに永劫の修行によってその誓願を実現して、阿弥陀仏という万人を救う道となられたと説かれています。それは人間の思い計らいを超えた、不可思議の出来事でした。底知れぬ深い罪業をかかえた私共を完全に救う法は、人間の思議を完全に超えて、さわりなく摂取するものでなければならなかったのであります。その誓願は四十八願として説かれています。限りない願いを四十八種類に納めたのであります。その一願一願は、「たとい我仏を得たらんに」という言葉ではじまって、「もししからずは正覚を取らじ」という言葉で結ばれています。
「たとえ私が真実に目覚めた仏陀になることが出来たとしても、ここに誓ったことがらを実現できないようならば、私はまことの仏陀ではない」と仰せられているのであります。したがって、ここに誓われた事柄は、まことの仏陀とはどのようなものであるかということを具体的に示されたものといえましょう。『大無量寿経』は、あらゆる仏陀をして、仏陀たらしめている仏陀の徳を、阿弥陀如来さまの誓願として説きあらわしていく経典なのであります。

四十八願にはさまざまな事柄の実現が誓われています。しかしその核心は、十方の衆生を平等に救うことのできるよう、諸行を選び捨て、本願の名号を救いの法として選び取り、本願を信じさせ、名号を称えさせ、浄土に往生させようと誓われた第十八願に帰します。それゆえ源空聖人はこの願を、「本願中の王」と讃え「選択本願」と名付けられたのでした。
第十八願は次のように誓われています。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

『仏説無量寿経』(註p.18)

「たとい私が仏陀になり得たとしても、十方世界のすべての衆生が、私の真実なる誓願を疑いなく信じて、我が国へ生まれようと思って、わずか十遍であっても私の名を称えているものを、もし生まれさせることができないようならば、私は仏陀にならない。ただ五逆罪を造り、仏法を誹謗しているような者は除く」と仰せられているのであります。はじめから、「もし生まれざれば正覚を取らじ」までは救いを誓われていますから摂取門といい、五逆罪を犯し正法を誹謗するものは除くと言われたものは、この二種の重罪を犯して愧じないものは往生できないと、抑え止められていることから抑止門といわれております。それから五逆を犯し、正法を誹謗することは極重の罪であると思い知らせて、回心させ、本願を信受するように転換せしめようとする巧みなご教化であると親鸞聖人は仰せられています。

はじめに「十方の衆生」といわれたのは、広く十方世界の生きとし生けるすべてのものに大悲の願いがかけられていることを知らせる言葉であります。
 「至心信楽せよ」といわれたお言葉を聖人は、「わが真実なる誓願を信楽すべし」とすすめられたみ言葉であって、「私の真実なる本願を疑いなく受け入れなさい」と仰せられているというのであります。そして、「我が国に生まれんと欲へ」とは、「他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土に生まれんとおもへとなり」といわれています。生きることの意味も、いのちの行方も知らずに迷い続けている愚かな私共に、生死を超えた領域から、「私の救いに嘘偽りはないから疑いをまじえず、浄土に生まれることができるとおもいなさい」と大悲を込めて呼びかけられているお言葉だったのであります。

如来さまのこのお招きの言葉を真実と受け入れ、「あなたの仰せにしたがって、浄土へ生まれさせていただく身であるとおもい定めさせていただきます」と疑いなく聞き受けているのを信心というのであります。

本願には続いて乃至十念、「すなわち十念に至るまでせよ」と誓い、名号を称えよと願われています。乃至とは、念仏の数量を限定しないことを表しています。本願の念仏は一声一声が無上の功徳をもっており、数の多少が問題なのではなくて、仰せに従って名(みな)を称えていること自体が如来さまの願いにかなっているすがたなのです。そして称名していることこそ、南無阿弥陀仏という救いの法をあたえてくださったご恩にこたえていることになるのであります。
「もし生まれざれば正覚を取らじ」とは、本願を信じ念仏するものを、もし往生させることができないならば、私は阿弥陀仏とはならないというのですから、十方衆生の往生と仏の正覚とは一体不ニに誓われていることが分かります。これを往生正覚一体の道理といい、本願力の救いの確かさを証明するみ言葉であります。

さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

領解出言

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心・報謝・師徳・法度の四段として、お心をうかがってまいりました。

第一の安心とは、信心のことでありますが、浄土真宗の信心とは、自力を捨てて他力に帰する心でありますから、はじめに「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」といい、次に「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」というのが正しく他力に帰する信心の相を示されたものであります。

蓮如上人の息男実悟上人は「たのむ」という他力信心の内容を詳しく、

雑行を捨てて、後生たすけたまへと、一心に弥陀をたのめ

『蓮如上人御一代記聞書』(註p.1290)

とお示しくださったところに、蓮如上人の真宗再興のご功績があったといわれています。たすけたまへという言葉を親鸞聖人ご自身が用いられた例はありませんでした。しかし、隆寛律師の法語といわれ、聖人が関東の門弟たちに推奨された『後世物語聞書』には

ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり

『後世物語聞書』(註p.1366)

という言葉が使われています。蓮如上人もこの書をお写しになっています。ただし、この言葉をもって、本願の信心と念仏のこころを表していたのは、浄土宗鎮西派でした。鎮西派の場合は、阿弥陀如来さまに向かって「たすけたまへ阿弥陀仏」とまごころこめて救いを願い求めるこころを信心といい、その願いを口に称え表しているのが念仏であるといわれていました。つまり、祈願請求の信心と念仏をそのように表現していたのであります。

しかし、蓮如上人がたすけたまへといわれた時は、鎮西派のような意味では決してありませんでした。たとえば『御文章』一帖目第七通に

阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまゐらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。

『御文章』(註p.1093)

といわれているように、罪深き身をたすけまします阿弥陀如来を、ふたごころなくたのみたてまつる信心のことを、「たすけたまへとおもふこころ」と言い換えられていることが分かります。つまり、本性の身をそのままたすけまします如来にまかせている信相を「たすけたまへ」といわれたのです。言い換えれば、たすけて下さる阿弥陀さまをたのみにしている信心の内容を詳しく示された言葉だったのであります。ですから鎮西派のように、「たすけてください阿弥陀さま」と祈願する信心とは全く違うことが分かります。古来、蓮如上人の「たすけたまへとたのむ」は、かならずたすけると仰せられる決定摂取の勅命を受諾して「さようならば、おたすけくださいませ」とたのみまかせることであるから、祈願請求の意味ではなく、信順許諾の意味であるといわれるゆえんであります。

こうして「たすけてくださる阿弥陀如来さま」にまかせたてまつる一念即時に、摂取不捨の利益にあづかり往生すべき身にさだまります。それゆえ、信心決定のうえの称名は御恩報謝の営みであるというので、領解文の第二段は
 「このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候。」と報謝が述べられているのであります。

第三の師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。私共が阿弥陀如来さまの本願を聞き、南無阿弥陀仏という生死出づべき道を信知することができたのは、ひとえに親鸞聖人のご教化のたまものであります。また、親鸞聖人のみあとを継いで、今日まで浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れることはできません。その深重なるご恩を感佩する一段であります。このようにして、師徳を仰ぎ、み教えに遇えた身のしあわせを思うにつけても、身を慎み、一宗の掟を守って、美しい念仏者として生涯を全うするよう、示されたのが、

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

という、第四の法度の段であります。

なお、引き続き非時の勤行・日没の勤行にあわせていただき、わが家わが宿にお帰りになれば、法味愛楽、称名相続のなかに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。

第四日

親鸞聖人のご恩徳を偲ばせていただく御正忌報恩講の第四日目を迎えました。昨日は、第十八願についてお話いたしましたが、第十八願は名号となって私共に届き、信心となり称名となって、私共を浄土へ連れて行ってくださる願いであります。親鸞聖人はそれを本願力回向の教・行・信・証と顕されたのであります。本日は、この往相回向の大行について味わわせていただきます。
「行文類」のはじめに

大行とはすなわち無碍光如来(むげこうにょらい)の名(みな)を称するなり

『教行信証』(註p.141)

と仰せになり、続いて大行の徳を讃えて、この行には、阿弥陀如来が完成されたあらゆる善徳がおさまっている、あらゆる功徳の根本であるような徳をそなえている。しかも極めて速やかに迷いを転じて悟りを開かせる働きを持っており、その本体は真如実相そのものであって、海のように広大無辺な功徳の宝である。それゆえ大行と名付けるのであると、言葉を極めてその徳を讃嘆されています。

ところで、大行の「大」には、大と、多と、勝との三つの意味があります。大とは広大ということで、如来さまのさとりの領域である真如が一切に遍満しているように、真如の顕現体である名号の徳は広大無辺であって、一切の衆生を分け隔てなく包んでいるという性徳をいいます。また多というのは、多いということで、名号には如来さまが成就された無量の徳が備わっているという行徳をいいます。勝とはすぐれているということで、名号には衆生の無明の闇を破り、往生成仏の志願を満たすすぐれたはたらきがあるという用徳をいいます。

こうした名号の徳が私どもに届いて躍動しているのが称名ですから、大行といわれるものであります。大行の「行」とは、おこなうという意味です。しかしそれは凡夫の行いではありません。本願の念仏は、それによって無明煩悩を転換させ、涅槃の境地に到らせる徳を持った行いですから大行ともいわれ、真実の行ともいわれるのであります。言い換えれば称名という行いは、確かに凡夫の口にあらわれているから、凡夫の行のように見えますが、実は凡夫の行いではなくて、如来の行いなのです。もし凡夫の行いならば、妄念煩悩から出てきたものですから、迷いを深めるだけであって、煩悩を転換して最高の悟りを実現する徳はないはずです。私共に涅槃の悟りをもたらす念仏は、たとえ私の口から出ていても、私の心から出た行ではなくて、如来の大悲の願から出てきた如来行であります。

それを知らせるために聖人は、「しかるにこの行は、大悲の願より出でたり」といわれたのであります。こうして称名は、如来の本願力が私どもの上に顕現していくような行いでありますから、聖人は、「凡夫回向の行に非ず、これ大悲回向の行なるが故に不回向と名く」といわれたのであります。すなわち称名は、如来さまが南無阿弥陀仏という御声となって、私共の煩悩生活の真っただ中にあらわれて、私共を呼び覚まし、さとりの世界へと導いてくださるすがただったのであります。さきに申しましたように、「行文類」のはじめに「大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり」といわれてありました。無碍光如来の名(みな)を称するとは、帰命尽十方無碍光如来と十字の名号を称えることを意味していました。それは、阿弥陀如来さまの無碍の救いを告げる名(みな)であります。十方世界にゆきわたり、善悪賢愚のへだてなく、生きとし生けるすべてのものを障りなく救う如来であると、私共に告げ知らせておられる如来さまの名のりでした。したがって名(みな)を称えていることは、一声一声「さわりなくすくう」と呼びかけられている、本願招喚の勅命を聞いているありさまだったのであります。

こうして念仏は、凡夫の行のように見えますが、実は如来さまが、私どものひとりひとりの口を借りて、ひとりひとりに救いを告げておられる説法であったのです。称名が如来さまの行いであるといわれるゆえんであります。如来さまに遇うことのない人生は、空しい迷いと悔恨のうちに終わってしまいますが、如来さまの説法に呼び覚まされ、導かれていく人生は、豊かな実りをもたらしてくれます。行方の見定められない人生は不安に満ちていますが、浄土を帰すべきふるさとと知らされた人生には深い安らぎが恵まれます。まことに本願の念仏は、そらごとたわごとの人生に豊かな実りをあらしめ、嘘の人生を本物にかえてくださるのであります。そのことを親鸞聖人は、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもって、そらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

『歎異抄』(註p.853)

と仰せられたのであります。

さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

領解出言

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心・報謝・師徳・法度の四段として、お心をうかがってまいりました。

第一の安心とは、信心のことでありますが、浄土真宗の信心とは、自力を捨てて他力に帰する心でありますから、はじめに

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

といい、次に

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

とは、かならずたすけると仰せられる勅命に信順し、はからいなく、たのみまかせる信心を示されたものであります。こうして如来さまにまかせたてまつる一念即時に、摂取不捨の利益にあづかり、往生すべき身にさだめていただくのであります。それを、「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」といわれたのであります。

たのむ一念のときという一念とは、信心が初めて起ったときということで信の一念であります。親鸞聖人は、信の一念を時剋の意味で釈される場合と、信相の意味で釈される場合とがありますが、今は「一念のとき」といわれていますから時剋の一念であります。時剋の一念とは、「信文類」に本願成就文の一念を釈して、

一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を彰わす

といわれたように、信心が私の上に開けおこった最初の時、ということであります。ところで、『一念多念文意』には、信の一念について次のような釈がほどこされています。

真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位に定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。

『一念多念文意』(註p.679)

これは、本願成就文と「すなはち往生を得て不退転に住す」といわれた経文とを望め合わせてみると、信心がおこったときと、正しく往生して成仏することに決定した、正定聚の位につきさだまるといわれた経説であると領解された釈であります。すなわち真実の信心をえた行者は、如来の大智大悲の光明の中におさめ取られて、決して見捨てられることのない利益にあづかったら、煩悩具足の凡夫のままで即座に往生すべき身となり、仏になることに決定した正定聚の位に入れしめられるのであります。

このように、信心を獲たときと、正定聚に入るという利益を得たときとは同時であるというので、信益同時の説と呼んでいます。これを親鸞聖人の現生正定聚説といいならわしています。臨終まで念仏の修行を積み重ね、臨終には心を鎮めて正念に住し、仏菩薩の来迎を感得したときにはじめて往生が定まるという臨終業成説が強調されていました。それに対して親鸞聖人は、本願他力をたのむ信心がおこったときに摂取不捨の利益にあづかって往生が決定し、如来さまにまもられながら浄土への旅を続けさせていただくのであるから、臨終に改めて如来さまの来迎を待つ必要はないといい、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。

『親鸞聖人御消息』(註p735)

といわれています。すなわち信心がおこった平生の時に往生すべき業因が成就するというので、平生業成ともいわれています。それを領解文では「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」といわれたのであります。

こうして信心決定の上の称名は御恩報謝の営みであるというので、領解文の第二段は、

このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

と報謝が述べられているのであります。第三の師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。私共が阿弥陀如来さまの本願を聞き、南無阿弥陀仏という生死出づべき道を信知することができたのは、ひとえに親鸞聖人のご教化のたまものであります。また、親鸞聖人のみあとを継いで、今日まで浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れることはできません。その深重なるご恩を感佩する一段であります。

このようにして、師徳を仰ぎ、み教えに遇えた身のしあわせを思うにつけても、身を慎み、一宗の掟を守って、美しい念仏者として生涯を全うするよう、示されたのが、第四の法度の段であります。

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

といわれたものがそれであります。

なお、引き続き非時の勤行・日没の勤行にあわせていただき、わが家わが宿にお帰りになれば、法味愛楽、称名相続のなかに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。

第五日

親鸞聖人のご恩徳を偲ばせていただく御正忌報恩講にようこそご参詣になりました。本日は「信文類」の法義を伺いたいと存じます。蓮如上人は、

聖人一流のご勧化のおもむきは信心をもつて本とせられ候

『御文章』(註p.1196)

と仰せられましたように、浄土真宗におきましては、信心が特に肝要であります。それは南無阿弥陀仏という万人の救われる法が成就していましても、それを私が信受しなかったならば、私の成仏の因とはならないからであります。『一念多念文意』に、

信心は、如来の御ちかひを聞きてうたがふこころのなきなり

『一念多念文意』(註p.678)

と定義されているように、信心とは本願を疑うこころがないことであります。言い換えれば、本願の名号、すなわち本願招喚の勅命を仰せの通りにはからいをまじえずに聞き受けていることであります。信心は、たしかに私の心の上に開けおこっている事実に違いはありませんが、それは私の想念が作り上げたものではなく、阿弥陀如来さまの大悲の御心が本願のみ言葉となって私の上に響き込んでいるほかにないのであります。第十八願には、その信心を「至心信楽して我が国に生まれんと欲へ」と至心・信楽・欲生の三心として誓われています。

至心とは真実心であり、信楽とは疑いなきこころであり、欲生とは往生一定と浄土を期するこころであります。ところが聖人が、この三心は如来さまの側に成就されて私共にあたえてくださった、本願力回向の信心であると仰せられたのであります。即ち至心の本体は如来さまの真実なる智慧のことであり、欲生の本体は大悲回向の仏心であり、信楽の本体はその真実なる智慧の徳と、大悲回向の心をもって、十方の衆生を必ず救う、疑いなく決定されている、如来さまの決定心であるといわれています。したがって三心とは「決定して汝を摂取する」と私共に呼びかけられている招喚の勅命の内容であるということになります。それに私の上にあるのは、その本願招喚の勅命を聞いて、かならず摂取されると疑いなく受け入れている一心しかありません。その一心を信楽とも、信心ともいうのであります。

こうして三心といっても如来さまの側では、必ず救うという心境になっておる、私の上では、それを聞いて必ず救われるとよろこぶ信楽の一心しかありません。しかし、その一心に凡夫の往生成仏を可能にする智慧と慈悲の徳が円かにそなわっていることが分かります。そのことを詳しく解説されたのが「信文類」の三心一心の問答であります。そこには三心の字訓によって三心はそのまま無疑の一心であると証明される字訓釈と、法義から言っても本願の三心は一心であると証明される法義釈とが施されています。その法義釈では、まず私共は無始以来煩悩妄念に纏わられていて、浄土を感得できるような智慧も慈悲も清らかな信心もかつておこしたこともなかったし、これからも決しておこすことのできない身であると仰せられ、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし

『教行信証』(註p.231)

と言い切られています。それはすべてを見通す如来さまの智慧だけが知ろしめす、私共のあるがままのすがたでした。阿弥陀如来さまはこのような煩悩具足の凡夫を憐れんで、凡夫に代わって往生成仏の因になる清浄真実なる三心を成就してくださったのであります。それが真如を悟る智慧の徳である至心と、一切衆生に仏徳を回向して救う慈悲の徳である欲生と、この智慧と慈悲があいまって衆生を救済することの、いささかも疑いもない決定心である信楽と、この三心だったのであります。このように如来さまの成就された三心は、必ず救うという無疑決定の信楽の一心におさまり、必ず救うという本願招喚の勅命となって私共に届けて下さるのであります。それが南無阿弥陀仏という名号にこめられている救いのいわれだったのであります。

このように、「必ず救う」という如来さまの決定摂取の勅命を疑いをまじえずに聞き受けるならば、自然に「必ずたすかる」という無疑の一信心となって私の上におこってまいります。それは本願招喚の勅命が信心となって私の上に実現しているすがたですから「如来よりたまわりたる信心」といわれるのであります。それは私が作り上げた信心ではありませんから、私の煩悩の手垢は全くつかない清浄真実な信心であると讃えられています。このようにして、本願の三心は、私の信相としては、摂取決定の勅命を疑いなく受け入れている無疑の一心のほかにありませんから三心即一心といわれるのであります。

しかし、その一心は如来が成就された大智大悲の徳がそなわっていて、無明煩悩を転換して悟りを開かせる金剛心ですから、よく凡夫を往生成仏させる正因であるという信心正因の道理が明かになります。このように信心正因の法義を確立されたのが「信文類」でした。それは親鸞聖人が初めて顕示された独自の法義ですから「聖人御己証の法門」と仰がれています。

さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

領解出言

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心・報謝・師徳・法度の四段として、お心をうかがってまいりました。

第一の安心とは、信心のことでありますが、浄土真宗の信心とは、自力を捨てて他力に帰する心でありますから、はじめに

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

といい、次に

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

と他力に帰する信心の相を示されています。「われをたのめ、必ずたすける」という仰せをはからいなく聞き受け、御たすけ候へとたのみたてまつるとき即時に光明のなかにおさめ取られ、護念せらるる身にしていただきますから、往生は決定します。それを、

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

といわれたのであります。第二段は報謝の心を述べたものであって

このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうしそうろうふ。

というのがそれであります。本願を信じ往生一定の身にしていただいたうえからは、称える称名は「おたすけくださって、ありがとうございます」と如来大悲のご恩を感謝する仏恩報謝の営みであります。称名は、その体徳からいえば往生の定まる正定業に違いありませんが、称名を、信の一念に往生の正因が決定したのちの信心の相続するありさまであるという場合では、報恩の意味をもつ行業であるといわねばなりません。「正信偈」の龍樹章に、

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。

『教行信証』(註p.205)

といわれたものがそれであります。初めの二句は信心正因のいわれを述べ、後の二句は称名報恩の宗義を明らかに示されたものであります。その意を承けて覚如上人は、「信心正因称名報恩」という宗義は、源空聖人、親鸞聖人、如信上人と伝承されてきた「三代伝持の法門」であると仰せられ、さらに蓮如上人は、称名を報恩の一事に限定してお勧めになったのであります。
 それを第一には、第十八願において、称名は報恩の営みとして誓われていると限定することによって、往生の正因が決定する時は、信心が開発した最初の時であるという信心正因・平生業成の宗義が明確になるからであります。

第二には、自力を捨てて他力に帰するという信心もなく、ただ称名さえしておれば極楽に生まれるように思っている世俗化した念仏を批判するためでした。すなわち本願の念仏は雑行雑修を捨て、ひとすじに阿弥陀如来をたのみたてまつる他力の信心をもって称える他力の念仏であります。それゆえ、それは「おたすけくださって、ありがとうございます」とよろこび感謝する念仏であるといわれるのであります。

第三に、蓮如上人は第十八願の信心と念仏について、

弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏まふすこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからふて念仏もふすは自力なればきらふなり

『蓮如上人御一代記聞書』(註p.1244)

といわれたように、往生の正因である信心も、報恩の営みである称名も、すべて如来さまからあたえられたものであるという、報恩しようとはからうことさえも嫌われました。すなわち本願の念仏は、他力大行の催促にまかせて称えている他力の念仏である。称えるひとの思いにかかわりなく、報恩の徳をもっていることを明かにするためでした。
第三段の師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。私共が本願を聞き、南無阿弥陀仏という生死出づべき道を信知することができたのは、ひとえに親鸞聖人のご教化のたまものであります。また、親鸞聖人のみあとを継いで、今日まで浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れることはできません。その深重なるご恩を感佩する一段であります。

このようにして、師徳を仰ぎ、み教えに遇えた身のしあわせを思うにつけても、身を慎み、一宗の掟を守って、美しい念仏者として生涯を全うするよう、示されたのが、第四の法度の段であります。

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

といわれたものがそれであります。

なお、引き続き非時の勤行・日没の勤行にあわせていただき、わが家わが宿にお帰りになれば、法味愛楽、称名相続のうちに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。

第六日

親鸞聖人のご恩徳を偲ばせていただく御正忌報恩講も、いよいよ明十六日の日中法要をもってご満座を迎えることになり、本日はその大逮夜であります。この度のご勝縁にあたって『教行証文類』のおこころを味わわせていただいてまいりましたが、本日は「証文類」を味わわせていただきたいとぞんじます。

往生とは穢土を捨てて浄土に生まれて往くということですが、聖道門でも往生は薦められていました。しかし、たとえば天台宗では、凡夫が往生できる浄土は凡聖同居土であって、浄土の中でも一番程度の低い境界であるとされていました。往生しても凡夫は凡夫ですが、浄土には娑婆のような修行の障りになる悪縁はなく、常に阿弥陀仏の説法を聞き、観音勢至のような大菩薩が指導してくださる、すぐれた修行の道場であるとみられていました。要するに自力修行のし易い場所に往生して成仏を目指すという教えだったのであります。ところが親鸞聖人は、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

『教行信証』(註p.264)

といわれています。煩悩具足の凡夫であっても、真実信心をえたものは臨終と同時に真実報土に往生し、即座に煩悩を転じて最高の智慧を完成し、無上涅槃を悟るといわれるのです。生死を超えた領域へ往生するのですから、その生は「無生の生」であって、私共の分別思議を完全に超えた難思議往生であるといわれています。「証文類」のはじめには真実の証をあかして、

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。

『教行信証』(註p.307)

といわれています。真実の証とは、如来さまの利他のはたらきによってあたえられた妙覚、すなわち仏の位のことであり、完全に無明煩悩が消滅した最高の涅槃の境地に到達することであるといわれています。このように真実報土に往生することは、そのまま成仏することであるといわれたのは親鸞聖人だけでした。

聖人がこのように往生即成仏と言い切られたのは、第一に、本願力回向の信心には、迷いの根源である根本無明を断ち切って、仏果を証得することのできる金剛心の徳がそなわっているとみられたからであります。そのような信心の徳についてはすでに詳しく申し上げましたから省略いたします。 なお、金剛心は弥勒菩薩という仏因を円満した等覚の菩薩だけにおこる智慧でしたから、親鸞聖人は、金剛心をいただいている信心の行者は「弥勒と同じ」等覚の菩薩であると讃えられていました。

第二には、信心の行者が往生させていただく真実報土は、阿弥陀如来さまの悟りの領域そのものであったからです。すなわち「衆生もし生ぜずは正覚をとらじ」と誓われた本願に報いて完成された正覚であり浄土ですから、如来の正覚と衆生の往生とは一体不二に成就しています。それは本願を信楽するものを仏の正覚の領域へ生まれさせると誓われていることになり、救うものと救われるものが一体となる、生仏一如の領域へ往生することを意味していたからであります。生仏一如の本願によって成就された浄土の本体は、一切の分別による限定を超えた一如の領域であるといわねばなりません。それゆえ、一如の浄土に到れば即座に虚妄分別を離れた無分別智が顕現して、自と他の隔てを超え、生と死の分別を超え、愛と憎しみの惑いを離れて、万法一如の悟りに到達するのであります。それは阿弥陀仏もそこから示現してこられた一如の領域そのものでした。

こうして無分別智が開けて、万法一如の境地に到達し成仏することが往生であるならば、往生したものは直ちに大悲後得智を起して、煩悩に迷わされて悩み苦しむ人々を救済するために、生死の世界に還来して、機縁に応じて身を顕現し、救済活動を行うことになります。このような悟りの智慧の必然的な展開としての大悲のはたらきを、還相摂化といわれたのであります。親鸞聖人は、その還相もまた第二十二願のおんはからいとして、如来さまからあたえられた活動であるといい、「証文類」の後半の部分で詳細に示されています。それは還相を証果の内容とみられていたからであります。その還相摂化のありさまは、観世音菩薩の普門示現のようなはたらきであります。すなわち民?に応じてあらゆるものに変化し、あらゆる手段を尽くして人々を救うことです。

私共は阿弥陀如来さまの来現である釈尊にはじまり、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・源空聖人といった七高僧、それに親鸞聖人・蓮如上人といった還相の菩薩に導かれ育てられて、いま念仏の衆生にならせていただいているのであります。思えば仏縁を恵まれ、本願を信じ念仏している私の往相は、無数の大悲還相の菩薩に支えられているに違いありません。まことに有難い極みであります。

さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集のみなさま、おのおの異口同音に改悔出言なさいませ。

領解出言

ただいま出言されたとおり、心底に深く領納せられ、心口各異でないならば、まことにめでたいことであります。この領解のご文は、古来、安心・報謝・師徳・法度の四段として、お心をうかがってまいりました。

第一の安心とは、信心のことでありますが、浄土真宗の信心とは、自力を捨てて他力に帰する心でありますから、はじめに、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

といい、次に

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

と、他力に帰する信心の相を示されたのであります。「われをたのめ、必ずたすける」という仰せをはからいなく聞き受け、御たすけ候へとたのみたてまつるとき即座に光明のなかにおさめ取られ、護念せられる身になりますから、往生は決定します。それを、

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ

といわれたのであります。
第二段は報謝の心を述べられたものであって

このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまふしそうろうふ。

といわれたのがそれであります。本願を信じ往生一定の身にしていただいたうえからは、称える念仏は「おたすけくださって、ありがとうございます」と如来大悲のご恩を感謝する仏恩報謝の営みであります。
第三に師徳とは、

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

という一段であります。たとえ『大無量寿経』があたえられていましても、第十八願には本願力回向の救いが誓われていて、南無阿弥陀仏という招喚の勅命となって私に救いを呼びかけていてくださるのである。疑いなく仰せを聞き受ける信の一念に摂取不捨の利益にあづかり、往生成仏すべき身にさだめていただくことは、親鸞聖人のみ教えなくしては決して知ることはできません。まさに骨をくだきても謝すべきご恩徳といわねばなりません。しかしまた、親鸞聖人のみあとを継いで、今日まで浄土真宗のみ教えを正確に護り伝えて下さった次第相承の善知識のご恩徳も決して忘れることはできません。わけても本願寺第八代の宗主蓮如上人の御文章を中心とした平易なご勧化がなかったならば、私のような愚鈍の身には深遠な浄土のみ教えを領解することはできなかったと思います。今更ながらその深重なるご恩を感佩せずにはおれません。

さて、第四の法度の段は、

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

といわれたものであります。
法度とは、真宗において定められている掟のことでありまして、信心の行者が日々の生活において心がけ守るべき行いのことであります。私共の日常生活は、自己中心的な想念に支配されており、愛と憎しみに揺れ動いて争いが絶えません。しかし、如来さまの大智大悲のみ心にたちかえって見直すならば、みな平等に如来さまの大切な仏子であり、互いに御同朋であることを知らされます。そこから人々を敬愛する心を見失うまいとする自戒が生れ、わずかずつでも煩悩を厭い、如来さまの御こころにかなうような生き方をしようと志すようになってまいります。聖人の御消息の中にも、

としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。

『親鸞聖人御消息』(註p.742)

と誡められました。浄土真宗が同朋教団といわれるのは、祖師のこのみ言葉に基づいているのであります。蓮如上人は常に

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといえり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなり

『蓮如上人御一代記聞書』(註p.1281)

と仰せられ誡められていました。上人が、さまざまな掟を定められたのはその趣旨にそってのことであります。私共は、それぞれの時代と社会環境のなかで、さまざまな生き方を余儀なくされますが、そのなかでどのように生きることが如来さまの御心にかなった生き方であるかを見定めようとする努力を続けなければなりません。まことに現代はさまざまな価値観がせめぎ合っている混乱の時代であります。こうした時代に仏法を中心に生きるとはどういうことかという指針を私共に示されているのが、ご門主さまの教章をはじめ、多くの御消息であります。私共はその指針に導かれながら、一人一人が心豊かに生きていくことのできる、差別のない安穏な社会を実現するように努めなければなりません。

なお、引き続き非時の勤行・日没の勤行にあわせていただき、わが家わが宿にお帰りになれば、法味愛楽、称名相続のうちに一夜を明かし、明晨朝には早朝よりご参詣なさいませ。


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