無力感とともに生きる
2011年3月11日。
当時中学二年生だった私は、先輩方の卒業式の準備を終え、教室に戻っていたところ、激震に遭遇した。
1階の教室から、混乱のさなか、誰のものか分からない自転車のヘルメットをかぶって外へ駆け出た。
程なくして、校舎の傍の防災無線から、聞いたこともない轟音が鳴り響いた。
――大津波警報が発令されました。
2011年3月11日17時30分、
私の故郷を襲った7mの津波は、
xx人の死傷者、xxxx件の全半壊という被害を残し、
誰の笑顔も生まないままに過ぎ去っていった。
被災から1週間後。
災害支援ボランティアとして、初めて沿岸部を訪れた。
瓦礫に覆われた街並みの中で、
路上や崩れた家に手向けられた花束に
涙をこらえることはできなかった。
ボランティアとして、
必死で人力で一軒の瓦礫を片付けたとしても
隣の家は崩れたまま。
圧倒的な自然の力を前にして、自分自身は何も為し得ない――。
人生史上最大の無力感に苛まれた瞬間だった。
暫くして、中学生ながら、被災者支援コンサートを企画したりした。
被災者を無料でコンサートに招待するというもの。
ただこれも、
演奏会を開いて、その時には喜んでもらったとしても
会場を出ても帰る家はない。
しょせん束の間の休息に過ぎない、むしろ自己満足ではなかろうか――。
結局自分自身を襲うのは、「無力感」だった。
故郷の危機に対して、多少は役に立てる人間でありたい。
次何かがあったときは、忽然と立ち向かいたい。
無力感と悔しさからくる覚悟が、自分の人生の原点となった。
11年の歳月を経て、奇しくも故郷の街に赴任した。
ここまで至るのは必ずしも楽な道ではなかったといえよう。
常に心にあったのは、
どんなときも、この街の人は自分の味方でいてくれる、という確信だった。
都会の進学校出身者に比べて、
田舎の出身者は受験に不利だろう。
それでも、「私には6万5千人の市民がついている」と妄信することで、
どんな時も力を得ていた。
6万5千人の期待を「勝手に」背負ったから、
私が敗れるときは街全体の敗北となるプレッシャーも持ちながら、
適度な緊張感を持って、ここまで成長してきた。
これから、
13万の瞳に見つめられながら、
この街の一市民として再び生活する日々が始まる。
6万5千人の市民と、
「応援してる、誰よりも」と伝えてくれたあなたと、
私の「味方」でいてくれる全ての人々の力を吸収して
私は今日も一歩を歩む。
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