開かずの間
夢の中で私は中学生、もしくは高校生だった。そんなせいぜい数年の違いなんて大したことがないと思うかもしれない。しかし大人にとっての数年とは明確にその長さは異なり、事実あの頃、一歳年を取るだけでまるで別の時代に移ったような気分だった。歳を重ねるごとに時間の流れはどんどん加速し、今現在とティーンエイジャーの頃は一年の長さは大きく異なる。もちろん大人になった今、見た目では十五歳と十六歳の違いなんてわからないが、とにかくそれはまだ時間が今の何倍も長く、週のうちのほとんどをコンクリート造りの学び舎で過ごしていた頃の話であった。と言ってもそれは夢の中のお話で、私は実際には通ったことのない校舎にいたのだが。舞台は真新しい校舎で、どうやら郊外の私立校であるようだった。制服がやけに新しい。夢の中の学生生活では、周りの顔を見ても誰一人として現実世界で同級生だった人はいない。それどころか全く見たことのない顔ばかりだった。しかし夢を見ている私はそれに違和感を抱くどころかまるで数年来の知己であるかのようにごく自然に昨日の夜みたテレビの話やたわいもない馬鹿話で盛り上がることができた。しかしそれは目が覚めると同時に忘れてしまうのであり、夢の中では確かに彼らの一人一人の名前を覚えていたはずが今では一人として思い出すことができない。それはまるで二月の足先をつん裂くような寒さを、八月のサウナのような暑さの中では全く思い出すことができないのに似ている。たった六ヶ月で確かな温度の感覚は忘却の彼方へ飛んで行ってしまう。しかし六ヶ月どころかこれはせいぜい六時間ほどベッドの上で目を瞑っている間に見た話なのだから話はさらに極端である。
話が脱線してしまうのは私の悪い癖だ。ここからはこの夢の話をまるで現実かのように描こうと思う。それは新年度初めの、四月の晴れた日だった。明確に日付があった。1992年の四月。もちろん現実の筆者が産まれる何年も前のことである。始業式を終えて私のクラスには転校生がやってくることになっていた。こういうときクラスの中の雰囲気は、うまく言えないが熱気を帯びる。少し変わった緊張感が走り、どんな人だろうと話すのも、職員室に偵察しに行くのも、また男子同士で可愛い子が来るといいななんて軽口を叩き合うのだってこの緊張感から逃れる為であった。しかしそれと同時に、このような出来事は祭りに近い高揚感を与える。ただでさえ何かがはじまりそうな季節の始まりなのに、非日常感はそれ以上に増していた。チャイムが鳴るすぐに新しい担任が教室に入ってきた。そしてその後ろには気まずそうに転校生の女子生徒が隠れるようにくっついてきた。
彼女ははっきり言って美少女だった。背は170センチほどあって高く、体は細い。目は黒目がちで大きく、鼻筋はすらっとしていて何よりも小さな顔は発光でもしているかのように白かった。まるで芸能人かアイドルかのようだった。男子女子に限らず生徒たちの視線は彼女に釘付けになっていった。彼女の名前は鴨といった。明らかにおかしな名前だが、これは夢の中の世界では違和感などなくすんなりと受け入れられていた。とにかくその日以来、彼女はクラスの人気者になった。打ち解けてくるに連れて彼女は意外にもかなりフレンドリーな人間であることがわかった。女子のグループは互いにあまり関わらなかったり、下手したらあまり仲の良くない場合もあったが、彼女はどのグループとも打ち解け、かといって八方美人なわけでもなく、心から受け入れられているようであった。一方男子とも仲が良く、意外なことにお昼休みは体育館で元気にボールを追っかけたりもしていた。誰もが彼女ともっと仲良くなりたいと思っっていた。しかし元来シャイなタイプであった私は彼女と必要以上に関わることはなく、むしろ彼女の欠点のなさをどこか薄気味悪いものに感じていた。もちろん授業などで同じ班になった時くらいは話すことはあったが、そのくらいの関わりだった。
しかしある日予想もしないことが起こった。いつものように登校してくると、下駄箱のなかに可愛らしい手紙が入っていた。冴えない私にもこんなことがあるのかと有頂天になったが、誰かに見られてしまうのではと思い、こっそりとブレザーのポケットに仕舞い込むと、トイレに駆け込み、個室に入ってその手紙をひらげた。するとそこには可愛らしい丸文字で
”今日の放課後。4階の体育館の用具室で待っています。 鴨”
とだけ書かれていて、手紙の外側にははっきりと私の名前が書かれていた。このような手紙を女子からもらったことは初めてだったため私は困惑した。手紙はとても丁寧に折られていた。女子はいったい人生のどのあたりでああいった折り方を習得するのだろうか。こういったことに無縁な私は、席の近い女子たちが書いた手紙を横目で見たりしたことはあったが皆慣れた手つきで長方形のノートを破いたような紙を綺麗にハート型にしたり、菱形にしたりしていた。もちろん私にはそのような技術はなく、さらに手先も不器用だったので一度開いた手紙をもとの状態に戻すことができず、四つ折りにして制服のポケットに仕舞い込み、どうしようかと戸惑うばかりだった。
こういうことは人生で初めてだったので、特に何かを期待していたわけではなかったが、その日は授業を受けても集中することができず、終始上の空状態だった。正直なことを言うと最初は見なかったことにしようとも思った。しかし全く女性人気のない私には最初で最後のチャンスなのではないかと言う下心もあった。その日は信じられないスピードで授業時間が過ぎていき、あっという間にホームルームの時間になった。どこか気まずく、私は一日中彼女を出来るだけ避けていた。しかしそんなことはお構いなしに彼女はいつも通り教室に溶け込んで過ごしていた。私はこれが誰かが仕組んだ悪戯なのかもしれないとさえ思った。もしそうならば、期待をして用具室に行くと悪戯を仕掛けた奴らが来てとんだ赤っ恥をかくことになりかねない。しかし最後の最後まで迷った末、私は素直に手紙に従って体育用具室に行くことにした。
うちの学校には体育館が二つある。一つは一階にある大きな体育館でもう一つはそれよりかは小さめの、四階にある体育館だ。指定された四階の体育館はあまり便利とは言えず、やむなく体育の授業や部活動がバッティングした際に使われるいわばハズレの体育館であった。私は運動ができず、部活動にも入っていなかったため入学してからあまり行ったことのない場所だった。その日は水曜日で多くの部活動では休息日となっていた。誰もいない体育館へ階段を使って行き(階段以外にはエレベーターがあるが怪しまれないためにこれは避けた)、誰もいない体育館の重い扉を開けると真っ直ぐに奥の用具室へ向かった。用具室にはボールやホワイトボード、体操用のマットなどが雑然と置かれており、少しカビ臭かった。そこでしばらく彼女を待つことにした。十分もしないうちにそっと用具室の横開きの扉がスッと開いて彼女が入ってきた。午後の光に照らされて彼女の頬は一層白さを放っているようだった。
『来てくれたんだ。』
『うん。』
私はぶっきらぼうに答えて、こういうときもっと上手く話せない自分を恥ずかしく思った。二人の間には微妙な間ばかりが空いて、他に誰もいない体育用具室はいつもより広く感じられた。少し間が空いてから彼女は色々と話を振ってくれた。私はなんとかそれに応えようと頑張ったためか、思いのほか話が弾んだ。二人の間には笑い声さえ生まれた。そしてひとしきり笑い合ったあと、人生で経験したこともない沈黙が二人の間に生まれ、私は分不相応にも彼女の顔にそっと自分の顔を近づけようとした。
彼女は嫌がるそぶりを見せてはいなかった。しかしあとほんの数秒で互いの唇が触れそうになった時、彼女の表情が変わり、『待って』と言った。
『外から何か人の声がする。ちょっと見てくる。』
そう言ってそそくさと用具室の外に出ていってしまった。私は呆然としながら彼女が戻ってくるのを待った。心臓の鼓動はまだ高鳴っており、まるで水の中で息を止めるようにして平静を装うことに必死になっていた。そしてその状態で餌を待つ鯉のように彼女がくるのをまだかと待ち続けた。
彼女が出ていってからどれくらいの時間が流れたのだろう。時計のない部屋だったので正確な時間はわからない。しかしもう十五分以上は確実に立っていたはずだ。長すぎる。冷やかされたのか、それとも万が一彼女の身に何かあったら、そういうふうに口実を頭の中で反芻したのち、私も外の様子を見ることにして用具室の小さく重い扉を少し上に浮かせながらスライドさせた。
気づけばもうかなり日が落ちていてさっきより暗くなった、空の水槽のような体育館があった。そして奥のほうに無数の物体が奇妙な動きをしていた。目を凝らしてみた。私は急に怖くなった。というのも十個ほどの数のボールが不規則に跳ねていたからだ。すると突然誰もいないはずの体育館には不気味な無数の人々の気配が蠢いているように感じられた。そして気づくと体が勝手に動き出し、私は全速力で体育館を突っ切って、少し重たい扉を開いた。誰もいない体育館はいつもの何倍も広く感じられ、海底から息を止めて水面に浮上していくような心地の悪さだった。確かに日が翳った午後四時ごろの体育館は色温度を下げ、深海のような暗さをしていた。
急いで体育館を出て一階に駆け降りた。するとクラスの中の良い女子五人が真っ青な顔をして立っていた。私も彼女らも互いの異様な雰囲気を察し、同時に口を揃えてこう言った。
『鴨さんが突然消えてしまって…』
話をしていくとどうやら彼女たちも私たち二人が四階にいた時刻、グラウンドで鴨と一緒に談笑をしていたらしいが突然どこかに消えてしまったらしいのだ。そして誰が言い出すこともなく、私たちは職員室に向かい担任教師に今あったことを話そうとした。一階の長い渡り廊下を通って別の棟にある職員室に向かうともうすでに何人か先客がいた。それは四人組の男女のグループで、同じころ、職員室と同じ棟の四階にある美術室で彼女と喋っていて、私たちと同じく彼女が突然姿を消してしまったとのことだった。
私と同じような体験をしたグループが三つ。これはどうもおかしい。彼女は何体にも分身したのか。同じ時刻にこれだけ離れた場所にいるのはそうでも考えない限り辻褄が合わなかった。そして何より担任の焦りっぷりには困惑した。そしてその訳についてはどれだけ尋ねても教えてはくれず、とりあえず先生たちに任せてとだけ言われ、私たちはみんなすぐに帰宅させられた。
しかしその次の日学校に行ってみると、不思議なことに、あの転校生は最初からいなかったものとして扱われた。それだけではない。あの四階にある小さい方の体育館も、グラウンドの小屋も、美術室も使用禁止になってしまった。その三つの入り口扉には南京錠がかけられ、扉の隙間を埋めるように外側から養生テープで目張りがなされた。そして特に私の行った棟の、体育館しかない四階フロア自体に誰も行くことがなくなり、しまいにエレベーターに乗っても四階には止まらない仕様になってしまった。不思議なことに数日するとその子の名前を誰も口にすることがなくなっていた。それはみんな鴨ことを忘れてしまったというより、互いに暗黙のうちで何か不穏なものを察しその子の存在を口にすることを躊躇しているようだった。しかし、彼女がいた形跡、たとえば彼女のロッカーや机の中に残った名前の書かれた教科書類などは探せばあちこちに見つかった。
この夢いちどきりで見たあの校舎はどこにあるのだろう。自分が産まれる前の、知らない街で、知らない人々と経験した記憶。それなのに今でも校舎の周りの風景をはっきりと思い出すことができる。いつか現実と交差し、あの地に降り立つかもしれない。しかしそれよりもまた夢でそこに訪れる方が確率としては高い。しかし、私はもう二度とそこには行くことがない気がしている。何よりもあの場所にはなんだか苦々しい記憶がまとわりついてしまい、もう二度と訪れたくないというのが本心だ。それにしても、鴨なんて名前の彼女は何者でどこに消えてしまったのだろうか。目が覚めてしまった今の私には確かめる術もない。