見出し画像

燃える貨幣

 子供の頃実家が火災に遭ったことがある。確か十歳に満たない頃だったからまだ新築から二、三年ほどしか経っていなかった頃のはずだ。しかしどうってことはなかった。火災保険がおり、すぐに家は建て直されることになった。それまでの半年ぐらいの間、最初のひと月程祖父母の家に居候し、それから狭い安アパートを借りて家族で暮らしたが、子供の頃の自分にはそれがかえって新鮮でいい思い出にもなった。家や最低限の家具、調度品はなんとか保証されたし、おもちゃや洋服はまた新しく買い揃えれば済む話だ。しかし戻ってこないものもある。私が幼少の頃に描いた数々の絵、家族の思い出を映した写真とそのネガ(火災自体は2000年代中盤の話である)、数々の取り返せないものが失われ、両親はそれにショックを受けていた。しかし私は子供ながら、そう言ったものが全て焼き尽くされてしまったことに強烈な爽快感を覚えたのである。手元にあった殆どすべてのものがなくなってしまったことは、私に喪失感というよりも解放感を与えてくれた。そもそも思い出のフィルムが消えたところで記憶の中には情景や匂いは私自身に色鮮やかに焼き付いているのだから問題はない。それをわざわざ写真のようなものに託さずとも生きていけるではないか。そう思い、なんだか荷物が少なくなって肩のあたりが軽くなった気がした。だからその次に学校に行く日はランドセルもなく、鼻歌を歌いながらスキップをして通学路を行ったことを鮮明に記憶している。先生やクラスメイトたちはそんな私の不幸に気を遣ってくれたが私自身は存外けろっとしていたものだった。そういえば、火を見ることで人は癒されるというふうによく言われる。また古来からお香のけむりは人を浄化すると信じられていた。もちろん科学的な根拠など何一つないのだが、心情的にはこれに深く頷くことができる。火は無機物を除いてほとんどのものを灰に変える。人は死ぬと火葬されるが、世のしがらみや煩悩などから真に解放されるときは心拍が停止するときではなく、肉体が焼却されるときだろう。この瞬間にマテリアルワールドと真に別れを告げ、霊魂は自由自在に空を舞うことができるようになるのだ。炎は俗世間のしがらみをすべて焼き尽くす自由の象徴である。

 ファイアマンは書物を焼く。一つ残らず焼き尽くす。別に本など燃えて灰になってしまってもなんと言うことはない。しかし一方で書物はその著者にとって人生の滴である。滲むような血が、体液がパピルスの上に滲み、広がり、一つの地層を作る。これを焼くのは生きた人間を焼くのとなんら変わりない。だから本を焼くにあたっては紙を燃やすだけにしておいて、その中身は決して焼いてはいけない。文字だけを、もくもく立ちのぼる煤煙の中から救い出して、空に向かう一本の灰色の道を駆け上がってしまう前に鼻からすべて吸い込まなければならない。これは現実においてはほとんど不可能なことだ。だからこそ焚書はハイネが言ったようにホロコーストの序章となり得るのである。

 近頃は電子書籍というものが主流になりつつある。あれには断固として反対だ。私はいくつか購入したことがあるが一冊として読み切ることはできなかった。データとしてそれをいつでも持っている安心感からか、もしくは本の方から開いて読めというふうに切迫感を持って訴えてくることがないからか、どちらにせよもはや所有していることを忘れてしまうほどの存在感しかないので読む気が湧いてこないのだ。これでは書物としての機能は果たせないだろう。電源が必須であるというのも不便極まりない。紙なら私が生きて目を開けるうちは例え夜中でも、月あかりを頼りにして読むことができる。それにもっと極端なことを言えば記憶を外部化するのはあまり得策だとは言えない。きっと人は真に何かを所有することはできないのだ。できるとしたらそれを飲み込み、血肉に変え、精神に刻みつけることだけだ。だから本は読まなければ意味はない。その機能において紙の本の方がずっと便利であり、そういうわけで私はこちらを支持したいと思う。

 話は変わって近頃のマイブームは電車内でスリをすることである。犯罪自慢をしているわけではない。迷惑をかけて申し訳ないとは多少思っているが結果的にその財布は紙幣というの中身を除いて最終的に遺失物として交番に届けることにしているのだからどうか許して欲しい。欲しいのは中身だけで財布には興味がない。しかしその金は自分が使うために盗んでいるのではない。ライターで火をつけて燃やすために盗んでいるのだ。紙幣をこの世から消す。と言っても消しているのはせいぜい借用書である。それはあくまで日本銀行券であり、鋳造貨幣ではないため破壊したところで刑法の貨幣損傷取締法には抵触しない。もちろん本音を言えば燃やしたいのは貨幣の方である。もし貨幣が貝殻ならば粉々に砕いて風に飛ばすのだが、金属を溶かすのはあまりにも火力と労力がいる。それだからだいたい一人平均数万円を頂戴し、灰に変えるとことでどうにか満足しているのだ。

 しかし近頃は電子マネーというものが普及したせいで財布を持ち歩かない人が増えてきた。私にとっては死活問題である。スリの難易度とリスクは急激に上昇した。スリを始めた2010年代後半にはそこまで普及していなかったが、パンデミックを挟んでここ数年のうちに瞬く間に普及していったのでターゲットの数は激減してしまった。このままいくと財布はなくなり、すべてICチップとして電子端末に埋め込まれるだけになる未来もそう遠くないかもしれない。そうなれば次はスマートフォンやスマートウォッチを盗んで粉々にしなければならなくなるため大変だ。それにそんなことをしても残高はデータとしてきっちり記録されるため意味がない。スリを始めて最初の頃はきっちりとクレジットカードやキャッシュカードの類も焼却していたがはっきり言って無駄なのでやめてしまった。ならばサイバー攻撃でもするしかないがあいにく私の頭はそんなに強くはないし、敵の頭数もパワーも到底太刀打ちできるものではない。できることならデータも炎が焼き尽くしてくれればいいのだが。とは言え、ひとまず現時点ではまだ半分くらいの人はいくらかの現金を持ち歩いているので、そういう人にターゲットを絞ってスリをしている。そのため私は以前より一層緊張感と集中力を持ってミッションに挑んでいるのである。できれば誰か私の苦労を褒め讃えてほしい気分だ。

 話が長くなった。今日もこれからメトロに乗ってスリをしようと思う。いつものように東京駅から乗ってくる、仕事終わりの草臥れたサラリーマンを狙ってこっそり財布を抜き取る。そして赤坂見附あたりで降りて、抜いた財布の中身は燃やし、その灰は紀伊国坂のお堀にでも流そう。それから親切心も忘れずに、残った財布は麹町の交番に届けて、やっとひと仕事終わりと言う感じだ。さあもうそろそろいい時間だ。出かけるにあたって荷物はいっさい置いていこう。しかし靴だけは丈夫なものを履いて行く。そうしなければ万が一スリがばれた際に、100メートルを10秒切るスピードで走って逃げることははできないのだから。

いいなと思ったら応援しよう!