Smart Eye Camera、ブータンへ行く(2)
瑞々しいオレンジの香りが車内を一瞬で広がり、重い頭が幾分スッキリする。道路の所為か運転の所為か寝不足の所為か、僕は少し車に酔ってしまい、加えて寝不足がダイレクトにもたらす眠気と、車内に居てもなんだか強く感じられる標高2300メートルの日光に刺されて黙りこくっていた。シンディさんは助手席からドライバーにマシンガンのように話し掛けている。オレンジは静かな後部座席を気遣ってかドライバーが僕達にくれたものだ。満腹だった僕は食べなかったが中山さんが1つ皮を剥いて食べた。
空港の町パロから、首都ティンプーまでは車で1時間ほどの距離で、その道中は日本の山間部でもよく見られるような曲がりくねった道路になっている。伊藤さんは「私は長野出身なんですけれど、なんか長野を思い出すんですよね」と言っていた。もちろん日本と異なる点も沢山ある。乾燥しているのか山肌の木々は低く所々地面が露出している。道沿いの建物は伝統様式で、そして道路を牛や犬が歩いていた。
ティンプーのホテルに昼頃チェックインして、すぐに3つのミーティングに向かう。1つはブータン保健省の方々とのもので、保健省まで車で送って頂いた。政府機関ということもあってか一際威厳のある外観が改めてブータンの建築様式を印象付ける。白い壁、水平連続窓と金、緑、朱の飾り枠や飾り屋根、更にこの建物の正面には王様、王妃の写真が掲げられていた。
国王や王妃の写真は、どの建物でも室内には必ず飾られている。ホテルにもレストランにも学校にも、花を愛でているところであったり、如何にも肖像画然としたポーズであったり、様々な写真が至る所で見られた。
国王の図像が表されているのは建物に限った話ではなく、服装にも似たものが見られた。ブータンの民族衣装はこれも大抵の場合、朱と緑を基調としたチェック柄のような布でできていて、男性のものは「ゴ」、女性のものは「キラ」と呼ばれる。ゴは作務衣を思わせるような形をしており、脚の部分はズボンではなく膝丈くらいのスカートになっている。ゴにしてもキラにしても、日本でいうビジネススーツのような位置付けということだ。だから働く時はゴやキラを着ていて、家に帰ったら僕達と同じような洋服に着替えたりもする。そしてゴやキラを着ているとき、人々の胸元には国王の写真やイラストを表したバッチが着いている。
部屋に通して頂き、甘いミルクティーを頂きながら、中山さんがOUI Inc.のこと、引いてはSmart Eye Camera(SEC)についてのプレゼンを行った。僕は同行させて頂くのは今回が初めてだが、中山さんはコロナ前、コロナ中を問わず世界中を飛び周り、至る所でSECの導入を進めて来た方だ(お陰で現在世界20以上の国でSECは使われている)。
OUI Inc. はCEOの清水映輔医師ら現役眼科医が立ち上げた慶應大学医学部発のベンチャー企業で、世界の失明を半分に減らす事、目から人々の健康を守る事を目的として活動している。現在世に送り出しているのがSECであり、これは眼科の診察で使う細隙灯顕微鏡をスマートフォンと小さなアタッチメントで置き換えるものだ。
眼科に行くと僕達は医師と机を挟んで向かい合って座り、それから台に顎を載せる。すると医師が何やら機器越しに僕達の目を覗き込む。この時使われている機器が大抵は細隙灯顕微鏡で、医師は特殊な光を用いて目を観察している。SECはこの特殊な光を作ることが可能で、さらに観察の様子を動画に収めることもできる。
また誰でも簡単に扱えて、アプリに動画共有機能があるので、たとえば学校で先生が生徒の目を撮影して、それを遠くの眼科医が診断するというようなことが可能だ(鏡があれば自分ででも撮影できる)。
世界には眼科医がほとんど居ない国が存在する。例を挙げるとマラウイ共和国は人口が2000万人近い国だが、眼科医はなんと10人ちょっとしかいない。今回訪ねたブータンにしても人口が80万人近いのに眼科医は11人だけだ。その80万人は徒歩で数日掛かるような場所を含めた山岳地帯に散り散りと暮らしている。ちょっと目が変だからといって、おいそれと眼科まで出向くことはできない。反対に眼科医が国中を回るわけにもいかない。そこで、たとえば村や学校にSECを置いておいて、現地の人が目の撮影を行い遠隔診断を行えば、それらは文字通り眼科医の目となり地域と医療の距離はぐんと縮まる。
眼科に行くのが難しいというのは何も他所の国に限った話ではない。日本では400個以上の島に人が住んでいるが、離島では1人の医師がなんでも診ている。目の症状を訴える患者さんが来たときに、小型のデバイスをさっと取り出して専門医とやり取りできれば助かる人が増える筈だ。実際に東京都の離島をはじめ、いくつかのアクセスが難しい地域でSECを導入して頂いている。
それから眼科が近所にあるからといって、その人が診察室で細隙灯顕微鏡の前に座れるとも限らない。怪我や病気や老衰で寝たきりになっていたりしたら、もう距離の問題ではないからだ。乳幼児や小さな子供だって同じで、そういう人々を診察するときにも、患者さんの体勢に合わせて診察できるSECは役立つ。
保健省の方々の反応は前向きなものだった。更に有り難いことに、3日目に予定していたあるブータンの眼科医とのミーティングに合わせ、来れそうな眼科医全員を集めて頂けることになった。