面倒くささというコンパスを使うこと
僕達は日々の生活で面倒くささを感じる。もうすっかり眠たくなった夜、心地よくまどろんでいるのに、洗面所へ行って歯を磨かなくてはならない、もうこのまま眠ってしまいたい。歯磨きなんて面倒だ、と思う。
面倒なことはやりたくないと思う。面倒なことなんてなくなればいいのにと思う。面倒くささはいつもネガティヴなもので、極端な場合、人から生きる気力を奪う。生きることに疲れた、楽しいことも、やりたいこともあるけれど、それらを行うのも結局は面倒が伴うし、面倒だと思う気持ちの方が強いから、もう何もしたくないし死んだ方が楽だ、というような話を何度か聞いたことがある。
同意はしないが、言っていることは理解できる。そして僕が思うに、ここには面倒くささに対する誤解が含まれている。
面倒くさいという感覚は、実は僕たちの持つかなり優れた機能であり、忌み嫌うべきものではない。むしろ積極的に用いるべきものだ。
冒頭に書いた、眠い時の歯磨きだが、どうしてこれを面倒だと感じるのだろうか。理由は単純で、眠くてそんなことしたくないのに歯磨きをしなくてはならないからだ。歯磨きをしないと虫歯になったり歯周病になったりすることを僕達は知っている。だから、眠い目を擦りながら歯を磨く。もしも、歯磨きをしないと虫歯になるということを知らなければ、僕達は何の躊躇いもなく布団で眠り、そして口腔内に問題を抱えることとなる。もちろん面倒だとも何とも感じることはない。この時、歯磨きは端的に無視され面倒という感覚は発生しない。面倒という感覚を持つことが「できない」。
現代の医学がまだ知らず、未来の医学から見れば毎日しておいた方が良い歯磨きに類する習慣は存在するだろう。でも、僕たちは無知故にそれを行うことも面倒だと感じることもない。知識があり、自分がそれを有益だと分かっている場合にのみ面倒くささは発生する。つまり、面倒くささというのは「これはやった方がいい」というシグナルなのだ。だから面倒くさいと思った時はラッキーだ。やった方がいいことがちゃんとレーダーに掛かったということなのだから。くどいようだけれど、自分にとってどうでも良いことは、面倒だとも思わなければ全く何とも思われずに人生を素通りしていく。面倒くさいというのは自分にとってこれは大事だという合図だ。
もっともらしい人生訓みたいなものの中に、「目の前に二つ道があって迷った時は困難な方を取れ」というのがあるが、あれは多分困難ではなく面倒くさい方と言うのがより正確だろう。僕達の住む世界は複雑系で、そういう人生訓みたいなものが役立つとは僕はあまり思っていない。だから面倒くさいをきちんと追っていった結果「成功」するのかどうかは分からない。
しかし、面倒くささを感じた時に「自分がこれを大事だと思っている証拠だ」と読み替えるのは、個人が個人として生活を進めていく上で、自分自身の考え方に寄り添うという意味合いで重要なことではないかと思う。面倒くさいを無視せず、それらを丁寧に拾い上げていった結果というものは、それがどのようなものであっても素直に受け止めることができるのではないだろうか。
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