Everything.
広告くらいなんでも無いはずだった。
あれを買えだとか、これをしろだとか、魂胆は分かっているし、そんな手には乗らないと。
むしろ、社会を華やかに彩るという意味合いで、溢れかえる広告のことを好きだと思っていたこともある。今はどちらだとも言えない。広告を用いた企業による人々のマニピュレーションは強く社会をシェイプする。莫大な金銭と労力とクリエイティビティーが投入された、社会を覆い尽くす巨大なシステムは人々に全身を脱毛しろと迫るだけではない。僕達はもはやどこからどこまでが自分の意思や欲求なのかを自覚できない度に、精神の奥深くまでを広告に侵食されている。
以前、アメリカの西海岸をシアトルからサンディエゴまで旅した。西海岸への漠然とした憧れがあり、引っ越したいと思っていた。ところが西海岸で僕が持った印象は「どこか物足りなくて寂しい」というものだった。その理由の半分は車社会に由来するものだ。鉄道の駅を中心とした繁華街と、そこを行き交う無数の人々。公共交通機関により、ある地点からある地点へと共に運ばれていく人々。そのような公共空間のあり方を当時の僕は好ましく思っていて、自動車という分断されたプライベート空間で点から点へと移動するのは寂しかった。
寂しさを感じた残り半分の理由は「広告の少なさ」だ。整然とした街と整然とした店内。それらは僕が求めている筈のものだった。例えば日本のヨドバシカメラやヤマダ電機に入ると、煌々とした蛍光灯と煩いアナウンスと安っぽい音楽が一気に全身を覆うが、僕はああいったものが嫌いだった。節操がないし、洗練とか美しさみたいなものからワザと距離を取り、コスパというペラペラさを押し付けられるように感じる。洗練とか美しさみたいなものは邪魔で、大声や赤字でお得だとか安いだとか叫んでおいたほうが購買行動を焚きつけるには効果的で、君の意見はどうでもいいからとにかく大きく安いって書いてくれそれで客は買うんだよ、みたいな声が聞こえてきそうな気がする。
対して、アメリカの電気屋へ入った僕は寂しいと感じてしまった。日本に比べて静かで落ち着いた店内は物足りなくて電気屋に見えなかった。そして僕は自分が何に毒されているのかを改めて実感した。節操なかろうがなんであろうが、バキバキの蛍光灯と謎のテーマソングは確実に僕の脳内に快楽物質を放出する。齎される快楽はベース旋律のように電気屋という体験の根底を形作る。僕にとっての電気屋というのはもはやそういうもので、静かな電気屋は寂しいとしか思えなくなっていた。
今はそれらを寂しいとは思わない。好ましいと思う。当時、頭の中では静かで洗練されたものを望み、身体がそうではなかったという事実に僕はショックを受けたのだが、今は頭と身体が一致している。
この変化の原因ははっきりしない。単に年を取ったということなのかもしれない。ただ、同時期にもう一つの変化を体験していて、その変化は身体が煩い環境を好まなくなったことに関連しているように思う。
もう一つの変化というのは、自然に対する目が開かれたことだ。開かれたというのは大袈裟ではない。Now I see everything と言いたくなるくらいの変化で、自分でも驚いている。僕は小中高を京都の田舎で過ごしたので、自然は身近なものだった。歩いて行ける距離に川も山もあって、良く遊んでいた。その辺で適当にテントを張って泊まったりもしていた。父も自然の中で遊ぶことが好きな人だったので、小さな頃は飯盒で米を炊く方法など色々教わった。そもそも家が田畑の中に建っているような環境だったので、トカゲやヘビや虫は日常的にどこにでも居た。
しかし、僕は何も見ていなかった。全ては単に壮大な遊び場所に過ぎなかった。山は探検する為の、川は泳ぐ為の。魚や虫や鳥達がいて、毎年毎年木々が葉を落としたり新緑を纏うことは当たり前のことで、それらから何かを感じとることはなかった。ただ、面白おかしく走り回っていた。
大学に入ってから、僕は京都市内で暮らすようになった。鴨川はかなり人工的な公園だが、京都盆地を囲む山へは簡単に行くことができた。大文字山にはしょっちゅう登っていたし、年に何回かはテントを担いでどこかへキャンプへも出掛けた。自然に対する視線は、この頃も子供の時と変わっていない。
変わったのは、30代の半ば頃のことだ。まず、鳥の声が聞こえるようになった。言うまでもなく、それまでもずっと鳥の声は聞こえていた。ただ意味合いが違った。意味ではないのかもしれない。窓の外から雀でも燕でも烏でも、その声が聞こえた時に体の奥底に独特の感覚が湧き上がる。あまり好きな言葉ではないが、愛おしさという表現が一番近いだろう。
同時期である30代の半ば、僕は長年暮らした京都から東京都内に引っ越した。その後4年間、下北沢に住むことになる。最初視界に山が入らないのが不思議で寂しかったが、日本最大の都市に住むと言う喜びと興奮がそれを上回った。当たり前だけど世田谷の住宅街にも鳥や虫は居て、アパートの庭の木では色々な生き物達が鳴いていた。一度、カネタタキが家のどこかに入ってきて、毎晩ピッピッピと鳴いていたことがあり、それも煩いけれどなんだか嬉しくてそのままにしていた。カネタタキは小さな虫で、隙間に隠れるのが上手いので、とても近くで鳴いているのにどこにいるのか良く分からない。そのちょっと妖怪みたいなところも面白かった。それから僕はカネタタキがすっかり好きになった。
海辺の町に住んでみたいと思っていたこともあり、4年過ごしたあと下北沢から神奈川県逗子市へ引っ越した。引っ越しでも旅行でも、場所を移動すると鳥達の声が違うことに気付く。朝の太陽が差し込んで目を覚ますと、窓の外から雀、鳶、山鳩、ガビチョウ、色々な声が季節によって聞こえてくる。どうしてかその声は毎日腹の底からの幸福感をもたらす。カニ、ヒトデ、貝をはじめとした海の小さな生き物達。水面を跳ねる魚。花を咲かせる名を知らない草。どこか賢そうにホバリングしている蜂。脚に付いた水滴を払う蜘蛛。そこかしこに存在しているかもしれない無数の意識。まるでというか、これこそが奇跡だった。全ての細胞分裂。タンパク質の構造。生化学反応。惜しみなく降り注ぐ電磁波と合成される糖。どうしてこんなものが存在しているのだろう、できるのだろう。あまりに物凄くて、あまりに有り難く、どう向き合って良いのか、ただ圧倒される。
虫もほとんど殺せなくなった。子供の頃、無邪気に殺戮と残酷な実験を繰り返していた自分を恐ろしいと思う。自然というものをなるべく壊したり汚したり傷つけたりしたくないと極々ナイーブに思う。
逗子に引っ越し、朝のビーチでジョギングを始めた僕は、ビーチに落ちている、あるいは海に浮かんでいるゴミに驚いた。プラごみ問題、海ゴミ問題は、まさに目の前にあった。悪天候の翌日なんかは酷いものだ。走りに来たのにそれどころではなく、もうゴミ拾いをするしかなかった。さらにその無力感と言えばこれも酷いものだ。ゴミはいくらでも落ちており、沢山の人たちが散歩を諦めてゴミを拾っても、結局しばらくすれば全て元通り、また漁具とペットボトルとスナック菓子の袋がどこまでも散乱するビーチが戻ってくる。
SDGsを、新しいマーケティングワードで金儲けの言葉だというのは容易い。俺はそんなのには引っかからないし、だから環境に配慮した製品なんて嘘っぱちだし買わないし、今まで通りやっていく、というのは容易で楽だ。レジ袋の有料化なんて馬鹿げていて、あれはどうせ石油を精製するときに余るもので作っているし、大体海ゴミに占める割合も低いし、意味ないし馬鹿げている、SDGsなんて真面目な顔で言っているのは日本人だけで、そもそもこれは内燃機関に長けた日本を沈める為のヨーロッパの戦略だ、等と言いたいのも意味は分かる。
しかし、僕たちはもう今までのような、20世紀後半のような暮らしはできない。それははっきりしている。あれは垂れ流し生活だったのだ。地球のある部分と、人間社会のある部分を両方犠牲にして、さらにそこには目を向けないことで騙し騙しやってきた時代だった。地球なんて、自然環境なんてどうなってもいいし、貧乏人をこき使ってでも俺は便利で快適な暮らしがしたい。地球なんて自分が死ぬまで自分の周りだけギリギリきれいだったらそれでいいし、シロクマが死のうがオランウータンが死のうが貧乏人が死のうが自分には関係がない、という思考を持つ人だってこの世界には沢山いる。別に原理的にはそれも間違っていない。しかし、僕はそうは思っておらず、自分が不用意に捨てたペットボトルの蓋を鳥が食べて苦しんだら嫌だ。知らない遠くの海の知らない鳥であってもそれは嫌だ。
そういうことに共感する人が増えて欲しいと思う時、世界を覆うエコやグリーンや持続可能性を押し出した広告というものが味方になってくれるのではないかとふと思う。
エコとかSDGsが、新しく発明されたマーケティングの為の言葉でも構わない。それが人々の目を欺き、環境負荷の高い製品を環境に良いのだと嘯いて買わせることも多々あるだろう。それでも僕達の心に深く楔を打ち込む広告という技術は、全体として見れば社会を導き自然への負担を減らしていくだろう。20世紀後半から強烈に発展して来た広告という技術が、大量消費社会を加速したように、今度は世界の大清掃を後押ししてくれれば良いと思う。
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