坂口恭平さんのキョーラジ2
坂口恭平さんのキョーラジで質問させてもらった。
恭平さんは電話番号を公開して自殺したくなった人が相談できる「いのっちの電話」を13年間続けている。人の命が関わる「助けてほしい」の声は、相談された側の気力も削ってゆく……と、わたしは思うのだけど、恭平さんはいつも軽やかに電話を終わらせる。いつかのシーンで「これは武術に近いんだ」と表現されていた。そのことばが気になっていて「実際にはどういう感覚なんですか?」と訊いてみた。
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「オレは魂にしかタッチしない。彼らの失望や絶望のことばは耳に入ってこない」
はじめに「どれだけ電話をしても一切疲れることはない」と恭平さんは言い切った。それは確かに武術的な“業”なのだが、相手から押し寄せる負のエネルギーを回避する業ではない。彼や彼女らを取り巻く社会が生み出した“ことば”に囚われない技術なのだ、と。
恭平さんの武術は、雨嵐となり降り注ぐ失望や絶望のことばを避け、相手の魂に触れる業。相談者たちの“ことば”は、その人の純粋な魂の“声”ではない。関わっている社会──家族、会社、友人などの周辺の環境によってつくられた言語なのだ。
多くのカウンセラーは、苦しむ人たちを助けようと試みるがこれらの“ことば”を受けて傷を負ってしまう。恭平さんは、あくまでもその人の“声”に着目する。「そこにネガティブなものは一切ない」と続けた。 問題を抱えているのは、その“ことば”が湧いてしまう社会にある。
恭平さんは彼らの声を通して社会を見る。そして、その社会は自分の生きる社会とも地続きなのだ。なぜ、その武術を使う必要があるのか。「『それを使ってでも助けたい』という想いがあれば、そりゃあ使うよね」と、恭平さんはいつもの調子であっけらかんと話した。
そして、「そのためには賢者ではいけない」と続ける。仙人のように世間と離れ、知的な営みに没頭して平穏を保つだけではなく、街の中に降りてゆき、自らも人間としての愚かさを抱えなければいけない。彼らの社会と地続きの社会に生きなければ、自分の内面の世界に社会を見出すことができない。つまり、本質的な問題を見抜けないのだ。
最後に「再現性はありますか?」と訊くと、恭平さんは「これは自分だけができる特別な技術ではなく、誰にだってできる。向き不向きはあるけれど」と答えた。
おもしろ過ぎるでしょう。
またチャンスがあれば、恭平さんに質問をしに行きたい。