怪至考④『コンジアム』心霊体験の主観と客観
POVホラーというジャンルの映画は、少なくとも『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』以降、かなりの本数作られてきた。
厳密に言えば「POV」自体は撮影の手法であり、もっと言えば別に「ビデオカメラで登場人物が撮った映像」のみを指すわけでもなく、「主観映像」であればすべて「POV」といって問題ないはずではあるけれど、現在ではほぼ「劇中人物が撮影しているカメラ目線」という意味で差し支えないと思う。
人間食べ食べカエルさんが『コンジアム』の上映を企画し、チケットが無事規定枚数以上売れたことで劇場での1夜限りの再上映が実現するという。
『コンジアム』ではその恐怖表現のガチで怖い感じとか、複数カメラを劇中で回しつつ、それぞれのカメラで絶妙に役割の違う恐怖表現を実現するバランスの良さ等、非常によく出来た映画であるのは間違いないと思う。
で、『コンジアム』を観た時に少し考えたのが、「POV」で「ホラー」をやるのにあたって生じる特有の問題についてである。
ホラー映画、特に心霊を扱ったタイプの映画の場合、上映時間の大体半分くらいまで、特有のモードがあることが多い。
それはつまり、「事象が体験者の主観の範囲内で描かれる」ということである。
たとえば幽霊を見た、といっても、一人でいるときに、ぼんやりとした姿でのみで、確実にそこにいた、という証拠がなにもない。
つまり、途中まで「これは主人公の思い込みに過ぎない、妄想なのではないか」という疑念が挟み込む余地がある。
そして、これを中盤以降で客観的に、事象を同時体験する人物を入れることによって、「こいつの言ってることは本当なんだ」と明らかになっていく、といった流れになる。
この流れを辿らない場合、いきなり全速力で怪現象が起きまくる、という具合になり、割とインフレしやすくなったり、何かどうでもいいな、という感じのモードになったりする。
これを回避する場合、ホラー映画というよりはなんか別ジャンルの映画に微妙にスライドさせる(ミステリであったりアクションであったり)か、もしくは体験者を、新たな主人公にしてしまうか、そういう手法を使うことになる。
ホラーにとって、体験者の「ゆらぎ」というのは結構重要な要素のようである。
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さて、『コンジアム』は先述の通り「POVホラー」である。
POVということは、つまりビデオカメラで実際に撮られた映像、という「てい」になるわけで、そうである以上、上記の「体験者のゆらぎ」という観点でいうと、明らかに問題が生じることになる。
なぜなら、カメラに映っている以上基本的には「それ」は実際に存在しているはずであるからである。
体験者の「気のせい」であるはずがない。我々観客側にも見えている以上実際にそれは存在している。何よりの証拠がこの映像じゃないか、ということになる。
かといって、一切なんの恐怖現象も起きないまま、ホラー映画の上映時間90分前後のうち45分を語り切るのはいくらなんでもムリがある。でも、何か起こし始めてしまうと、あとは「次は何が起こるのか」が興味の中心になってしまい、サスペンスを持続させづらい。
ちまたのあまり出来の良くないPOVホラーが概ね陥っている問題はこれである。
よく「これ大部分主人公が森の中をうろうろしてるだけじゃん」というような映画がPOVの駄作組にはあるのだけど、これは単に語りが下手というのもあるけど、周到にやらないと前半でやることがないことになるのである。
登場人物のドラマを描こうにも「カメラの前での振る舞い」をベースに描く縛りがあるので、結構技量がいる。
圧倒的に低予算で撮れる、という大きなメリットの反面、うまく語ろうと思うとそれなりに作り込まないと、長尺では持たない。
30分以内の短編だと相性がいいのはこれが理由になると思う。
『コンジアム』では、この問題をある仕掛けで解決する選択をしている。
※以下、『コンジアム』のネタバレあり
それは、「中盤までの怪現象はすべてヤラセでした」という展開である。
これを挟むことによって、どうも都合の良すぎる怪異が次々に起こること、妙に符合する情報が出てきすぎること等のすべての要因が一旦は解消する。
三宅隆太さんのいうところの「なんだ猫か」的な、サスペンスを一旦解除した上で、次の展開への前フリのようになる。(今回は「なんだ」で済んだけど、次はガチだぞ、となる)
この仕掛けがあることにより、前半である程度怪現象を連発させつつ、「なんだか嘘くさいな」というマインドを植え付け、それを「ここまでは嘘でした」というひっくり返しを施し、後半からの「ガチ感」を増す。
もちろん個々の恐怖シーンの演出の強さも大きいのだけど、POVホラー特有の問題を、物語上の仕掛けで解消した巧みさも大きく貢献しているんじゃないかと思う。
ある事象に対して「これは確実に起こった」=気のせいではない、と気づく瞬間の怖さ、というのはホラー、ひいては怪談においてかなり重要なウエイトを占めていると考えており、『コンジアム』は映画の中でその問題を克服するひとつの方法論であり好例なんじゃないかと考えている次第である。
ガッツリ中盤のネタバレをしておいてなんだけど、未見の方がいたら是非。
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個人的な体験談として、こんなことがあった。
大学を卒業してすぐに、青森旅行にでかけたときのことである。
『怪至考③』で書いたとおり、大学時代『怪談新耳袋 殴り込み』に大きな影響を受けていた僕は、『殴り込み』の『東日本編』で訪れていた心霊スポットに行くことにした。
旅の大部分の目的が心霊スポット巡りに割かれており、他にも「ホワイトハウス跡地」や「八甲田山」なんかを回ったりしたのだけど、そのうちのひとつでとある墓地を訪れた。
その墓地は、いわゆるすり鉢状の構造で、一番底の部分にあたる中央に仏舎利塔が立っており、それを見下ろすような形で墓石が並んでいる作りだった。
『殴り込み』では、仏舎利塔を一周すると霊が出るとかでぐるりと回っていたので、僕はそれに倣って、後輩たち2人と、一人ずつカメラを持って、仏舎利塔を回ってくる、ということをやることを提案した。
じゃんけんで決まった順番は、僕、後輩A、後輩Bの順番。
僕が一人でぐるっとまわると、該当がほとんどない空間ということもあって、真っ暗でそれなりに雰囲気がある。(なんせ墓地である)
少し離れた位置に止めた車に戻り、次に後輩Aが同じようにぐるっと回る。
離れた場所から見ると、懐中電灯の明かりがひとつ暗闇で移動しているのが見えるだけだった。
後輩Aが戻ってきて、最後の後輩Bの番になった。
Bは、地元が青森ということもあって、その墓地に祖父のお墓があるのだという。
「仏舎利塔回るついでに、おじいちゃんにお墓参りしてから戻ってきますよ」
自らミッションを増やして、Bは出発した。
車はすり鉢の底、つまり仏舎利塔に対して背中を向けるような形で駐められていた。
僕は運転席、後輩Aは後部座席に座り、雑談をしながら、Bの帰りを待っていた。
と、そのとき。
窓の外で、「ううううううううあああああああああ」と、低い男の叫び声のようなものが聞こえた。
叫び声というよりは怒鳴り超えのようでもある。
僕は思わずその場で固まった。
今のは気のせいだろうか? 自分にしか聞こえてなかったのだろうか?
後輩Aの顔を見ると、彼もまた同じように固まっていた。
「聞こえたよね?」
僕が尋ねると、
「聞こえました」
とAは答えた。
その場にいたふたりとも聞いた。ということは、さっきの声は確かにどこかで発せられたものであるはずだった。
「Bの声かな?」
僕らはそう話していた。
ちょっと大げさなところのある人だったし、可能性としてはないことはない。
なにかに驚いて大声をあげた可能性もある。
あるいは、墓地で肝試しなんて罰当たりなことをしていることに、管理人かだれかに怒られたのかもしれない。
方角としては間違いなくBがいる方向、仏舎利塔の付近からだった。ということは、Bが発したにしろ、Bに発せられたにしろ、外にいるBのほうがはっきりと聞いているはずだ。
僕らはそんなことを話しながらそのままBを待った。
ややあって、Bが戻ってきた。
僕はなんとなく小声で尋ねた。
「さっき、なんか大きい声出さなかった? もしくは、どっかからでかい声聞こえなかった?」
「いや、僕ずっと今くらいの声で小声でカメラに向かって話してましたけど、それ以外出してないですよ。それに他の声も聞こえませんでした。映像観てもらえばわかると思います」
僕らはその場で映像を確認した。
そして、たしかに彼が歩いている間、そのような大きな声はどこにも収録されていなかったのだった。
つまり、外にいる彼には聞こえず、カメラにも収録されなかった。
だけど、僕とAは間違いなく聞いていた。
ある程度客観的な情報がこれだけそれっていながら、同時に「収録されている」のに「聞いていなかった」のであれば後で証明可能だけど、「収録されていない」のに「聞いている」ということなので、僕らの証言以外は何の証拠もないのだった。
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客観的な証拠と、主観的な体験。
この2つの間にある何かが怪異なんじゃないかという気がしている。
然るに、純然たる客観であるはずの「カメラ」を通して、主観と客観を切り替えながら表現する映像メディアだからこそ、怪異の表現の可能性もあるのかもしれない。