思い出の古典落語
自分には、幸運なことに16年来の友人がいる。小学校1年生だった7歳からの友人。数字にすると恐ろしくなる。2人でくだらないことを言っていたら、子供が高校に入学するまでに育つまで時間が経っていたんだから。
自分は今アメリカで、その友人の彼はまだ地元にいる。実家を出たいわけでもないらしい。実際に彼と同じところに住んでいたの、16年のうちの7年ぐらい。それもまた恐ろしい。なので、長電話がメイン。3時間だと、「今日はあまり話さなかったな」と思う。5時間話すと、やっとしっかり話した感が出る。お気付きだろうが、自分たちは暇なのだ。
では、付き合いこそ長いけれど、
そんなに過ごしてる時間が長い訳でもない2人が、
一体何をそんなに長い間話すのか。
それはもちろん過去の話だ。
部活の時にカッコつけてやらかした話(お互い部は違ったのに)。あの時片思いしてたクラスのマドンナの話。学校行事中、学年全員の前で急にオネエキャラを開花させた時の話。などなど。
その話のどれも、古典落語のように何度も話している。そのうち話がどんどん洗練されてきて、抑揚の付け方も上手くなってきた(ような気がする)。でも笑ってしまうし、話したくなってしまう。
「今」の話なんて、1割ぐらい。「未来」が2割で、「過去」は7割。なぜか考えてみたら、きっと自分たちは分からないことが怖いからだ。
今はいちばん分からない。
過去は分かってる。
未来はなんとなく分かる。
だから思い出話が好き。
だから妄想が好き。
少しでも分かるから。
でも分からないことを楽しめたら、今を楽しめるようになるんだろう。
あと何時間話したら、古典落語を卒業できるのか。
あと何年離れて暮らしたら、分からないことを楽しめるんだろう。