表現規制(マシリト)と日本の文化観
キャベツの人の動画みてて、件のマシリト対談が炎上してると知りまして。
なるほど、鳥嶋さんの「清教徒」といった発言が「性教育」と誤訳されて拡散されたことに注意喚起が飛んでるのね。
確かに、僕も初見は「性教育」って聞こえてそう認識してたんだけど、この騒動知ってから見直してみると、「清教徒」って言ってますね。
因みに清教徒とは
まぁ、一言で言うと「潔白主義」的な意味合いでいいですかね。
文脈的にちょっと皮肉っぽい処が気になりますが。
対談の趣旨
炎上している最中に、そもそも対談の趣旨が読み取れてないんじゃないか?という批判が相次いでます。「ナチス」って…
趣旨的には、規制というものが前にあって、その規制の根源というか本流のなかに、西洋的な文化観・宗教観が強く出てる(その一例として清教徒)という批判です。
間違っても特定宗教の教義等を指して批判しているのではない。
抽象的に言えば、ある宗教Aの宗教観やタブーは表現規制として実施されるにもかかわらず、宗教B、宗教Cの宗教観やタブーは表現規制にはならない。このアンバランスは良くないんじゃないかという意味合いです。
例えば、イスラームでは豚食は禁忌ですが、それについて表現規制を聞いたことは無いです。豚の丸焼きや豚骨ラーメンは普通に出てくる。
あと、ヒジャブの要否なんかも、本来的には衝突する可能性があるんですよね。
因みに、宗教上のタブーが気になったので、ググってみるとこんなサイトが
色々とあるんですね。全部は知らんかった。
でも、このまとめに従うなら、RPG等で民家に立ち入る際には土足を脱ぐモーションが実装なれなけばならないのですが、それはない。(それでよいですが)
アンバランスの解消
アンバランスの解消を目指すなら、取れる道は2つあります。
一つは、全部規制が重たいほうに舵を切る。要はどこかの宗教でタブーになっているものは全部取り入れる。
もう一つは、すべてをスルーする。ただし、キャラクター個性としてその宗教観を有している場合や象徴的な建造物などを利用する場合は、教義に従う。
で、現実的には後者しかできないはずなんですよ。前者はどっかしら宗教同士がぶつかり合う。
そのうえで、日本人の感覚で言えば、後者ってかなり簡単にできていると感じている部分が確かにあるんですね。
年末にクリスマスパーティーした翌週には神社に参拝に行くのが日本人ですから。日本の宗教文化観って緩くて、僕はそれでいいと思ってます。敬謙にしたい人はすればいい。それは止めない。
そして、マシリト氏は、この「日本の文化観」をベースに今の規制の在り方に文句を言ってる。「どうしてそこまで許せないんだ」と。
かの対談は、日本人が自分たちの宗教観文化観に基づいてぶっちゃけたという話であって、それこそ多様性な話だと思うんですよ。
欧米ではそれが正しいと思ってやってるかもしれないが、こっちからみたらそれは閉鎖的なんだって批判してる。もっとおおらかで、許容的でいいじゃないかと。
おわりに
僕の前回の記事にも書きましたが、ある国でできたものなんだから、その国の文化観が強く出るのは仕方がない話で、(一定の配慮の元)それを受け入れたうえで自国で流通させることが、多様性というものではないのかと。