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「原作愛」という空虚な言葉がもつ暴力性について

「原作愛」に疑問を持ち始めたきっかけ

実写の映画やTVドラマ、アニメに限らず、原作付きの映像化作品に対する感想をSNSで調べると、賛否にかかわらず原作への愛・リスペクト(以降原作愛に統一する)という言葉を必ずと言っていいほど見かけます

そして、映像化の成功のためには制作者が原作愛をもつことが必須であり、不用意な改変を行うと原作愛がないという烙印を押されてしまう風潮ができあがっていることに異論はないと思います

私も映像化作品のスタッフに原作愛があることによって、より良い作品をつくることができるはずだという意見には同意します

しかし、ここ最近の原作愛という言葉の使われ方を見ると、批判するための言葉として使うことにものすごく疑問を感じるようになってきました

そのきっかけになったのが「チェンソーマン」のアニメです

アニメチェンソーマンは原作からの大幅な改変もなく、担当編集のツイートを見る限り絵コンテは原作者が目を通しており、TV放送のアニメとは思えないほどよく動くアニメーションなど、客観的に見れば原作愛に溢れた作品と言って差し支えない仕上がりになっていたと思います

しかし、SNSではアニメチェンソーマンは原作が持っていた外連味がなくなっており、その原因は監督に原作愛がなかったからだという意見が大勢を占めています(特に円盤の売上枚数が明らかになって以降、この意見が目立つようになったと思います)

ぼくはこの出来事から、原作からイメージしたものとなんとなく違うというだけで原作愛がないとジャッジする人が多いということを実感しました

「原作愛」という空虚な言葉

「原作愛」のバズワード化

ところで皆さんはバズワードという言葉をご存知でしょうか?

バズワード(英: buzzword)とは、もっともらしいが実際には意味があいまいな用語のこと。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89

ここ最近のSNSでは、原作愛という言葉がバズワード化しているのではないかと思っています

そもそも原作愛という言葉は、原作と映像化作品を比較したときに再現できていないと感じた部分を具体的に列挙した帰結として使うことで初めて意味があるのであって、原作愛という言葉だけでは何の説明にもなっていないのです

しかし、「原作愛がない」と批判されると、途端にその映像化作品が駄目なんだという印象を持たれてしまうのです
そのくらいの力を持っているのに、定義が曖昧なため気軽に使われすぎているのではないでしょうか

「原作愛」は便利で卑怯な言葉

もちろん、原作と映像化作品を詳細に比較した結果として原作愛という言葉を使っている人はいますし、そういう意見は自分の見識を深めるためにも必要だと思います

しかし、そのような違いを説明をした意見に乗っかるだけで、自分自身では説明を試みずに原作愛がないと断ずる人をSNSでよく見かけるようになったと感じます

「なんとなく違うな」→「違いを説明してくれている人のツイートを引用」→「この作品には原作愛がない!」という流れで批判する人がいますが、こういうのが一番聞く意味がないと私は思います

なぜなら、自分の言葉で不満を説明する努力を放棄しているからです
その程度の努力すら放棄してしまう人が言う「原作愛」にどれほどの価値がありますか?

自身の考えを言語化する努力を放棄しているのに説明した気になれる
そのうえ、すべての責任を制作者に負わせることができる
そういう意味で、「原作愛」は便利で卑怯な言葉だと言えます

作品への愛は「原作愛」だけで収まるものなのか?

また原作に対する愛が本当にあり、映像化作品に対して不満を持っているのならば、その不満は「原作愛」という一つの言葉に収まるものなのか?という疑問があります

原作愛という言葉を使った批判は、たいして愛がない人が適当にがなり立てているのではないかと思ってしまうほど、イライラしてしまうのです

本当に愛があるのならば、原作愛という決まり文句に収めずにその不満をもっと熱く語ってほしいのです
言語化する努力をしたくないのであれば、もっと単純に「嫌いだ」といったむき出しの感情の表明のほうがずっとマシだと思います

「原作愛」という言葉の暴力性

作品から人の内心を断定できるのか?

ここまでだと、具体的な部分を指摘すれば「原作愛」という言葉を使って批判しても良いというふうに受け取れるかもしれません

しかし、そもそも映像化作品の制作者に対して「原作愛がない」と批判して良いのかと疑問に感じるようになってきました

なぜなら、「原作愛」は人の内心を断定する言葉であり、作品だけで人の内心を判断することはできないと思っているからです

「原作愛という言葉で批判する人」=「パワハラ上司」

作品の出来不出来から原作愛がないと決めけてしまう人を見ると、パワハラ上司とよく似ていると感じます

「部下の仕事でミスを見つける」→「お前にやる気がないからミスをするんだ」
「原作との違いを見つける」→「制作者に原作愛がないから再現できていないんだ」

私はどちらも大差があるようには思えません
なので、私は原作愛という言葉を使って批判することは人の内心を勝手に判断するという意味で、とても暴力的だと思っています

「原作愛」は批判する人への呪いにもなる

また、作品の不出来の原因を人の内心に求めてしまうと、制作者の一挙一投足を憎み始めてしまうという意味でも恐ろしいと感じています

例えば、アニメチェンソーマンでは失敗したと思い込んだ人たちが監督である中山竜氏に憎悪を向けたことが挙げられます

(上のハデキン氏のツイートは中山竜氏が新年の挨拶を英語でしたツイートへの返信です)

作品の出来不出来への批判を超えて、制作者へのあてつけのような発言をしてしまうのも、内心に理由があると思い込んでいるというのが大きいのではないか?
そういう意味でも、「原作愛」という言葉を使うことには慎重であるべきだと思います

原作付きの作品を批判するときに気をつけたいこと

以上のことから、今後私が原作付きの作品を批判するときには
①原作と比較して出来不出来だけを語る
②原作愛という言葉に仮託しない
③言語化する努力をしないのなら、「嫌いだ」という感想に留める
といったことをマイルールとしたいと思います

原作愛という雑な言葉で批判する人がこれ以上増えず、本当の意味で原作愛に溢れた批判が増えるように願うばかりです

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