吉田清成と鎌倉|海浜院や別荘 先祖の足跡を探して - 巡巡 #012
吉田清成は白金志田町の屋敷の他に鎌倉に別荘があった。明治20年ごろ清成が元老院議官・柩密顧問官時代に華族に命ぜられる。その流れでこの別荘を持つことになったのだと推測される。しかし清成は以前から肺を患っており明治24年8月3日に亡くなってしまう。当時の鎌倉滞在記録には晩年の清成と家族の生活が描かれている。以下明治29年の相模国鎌倉名所及江之嶋全図より。
吉田清成関係文書7によると鎌倉郡乱橋材木座村字大門の番地の中の官林の土地を道路建設の為に明治20年12月に返地している。官林の内訳は林が約90坪、芝地は30坪とのことで、かなり広大な土地に建つ屋敷だったのではないだろうか。現在の正しい住所が現段階で掴めていないので(明治20年12月あたりで新しい道などできた箇所を見つけられれば…)日記などで行動範囲を予測するに材木座海岸寄りの場所だったのではないかと推測。ちなみに三ノ鳥居の場所は現在の一ノ鳥居。
現在は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」などもあり、多くの人で賑わう観光スポットとなっているが明治維新後、この辺りの多くは農村や漁村で、明治20年に東海道線、明治22年には横須賀線が開通により交通の利便性が増し、華族など別荘地としての賑わい始めたようだ。清成の別荘があったのはまさにこの時代で、明治20年8月からの数か月をこの鎌倉の別荘で過ごしている。驚いたのは毎日ではないが、朝通勤で東京へ出て夕方鎌倉に帰って来る。現代のサラリーマンスタイルをきめているところだ。鎌倉へ帰ることを「帰倉」と残している。また帰倉せず、東京で一人で夕食を摂ったことを示す文書も残っていて、一人で食事を摂ることが珍しかったのだろう。
そこで今回僕も鎌倉へ行き、清成の見た景色を見てみたいと思い史跡跡などを見てきた。まずは北鎌倉と鎌倉の間にある「建長寺」。清成は円覚寺、建長寺へ足を運び、長谷寺では僧侶と会っている。中でも建長寺で「銘画数幅」を見るという日記があった。銘画数幅とは何なのかわかりませんが、当時から建長寺にあった仏殿の天井絵のことだろうか。現在の天井絵は色が褪せてしまって何を描いてあるのかわからない部分が、明治20年ごろの天井絵は今よりも鮮明に見えたのだろうと思う。仏殿は割と小さく本尊「地蔵菩薩坐像」が間近で見られる、清成もここに立ったと思うと非常に感慨深い。
続いて由比ヶ浜の近くにあった「海浜院」日本で初の結核治療用のサナトリウムで後の鎌倉海浜ホテルだ。
おそらくこの海浜院に娯楽施設があったのではないかと思われる。清成はここで「玉突(ビリヤード)」にハマったようだ。海浜院に通い玉突に励む描写が日記にあった。残念ながら建物はないが跡地に史跡があった。
続いて清成が家族でよく昼食で訪れていた三橋旅館のあった場所へ、由比ヶ浜方面から徒歩で行ってみた。現在、旧三橋旅館蔵として三橋旅館の蔵がまだ残っていた。記事のサムネイルもこの写真。
おそらく同じような道を通り通ったのであろうと感慨深かった。この先に新宿橋という小さな橋も当時からあったようだ。
といった感じで吉田清成と鎌倉を巡る旅をしてきました。帰りに乗った江ノ電はロケーションがすごく良いですね。
参考文献:吉田清成関係文書7(京都大学文学部日本史研究室編)、相模国鎌倉名所及江之嶋全図(青山豊太郎 明治29年)