死について
死について
どうも、Яくんです。
前回は『#愛とは』というタイトルで愛を現実に昇華する難しさをだらだらと書き連ねてみました。
今回は少し暗いお話にはなりますが、生きている以上いつか迎える"死"ということについて、生きている間に皆さんにも一度は考えて欲しいな、という思いで書いていこうと思います。
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いきなり死について暗い話に入るのもアレだから、まずウォーミングアップがてらに魂の質量に関する話でもしようと思う。
このネタはある人に提案されたものなのだが、一種の小話として使わせていただく。
これは1900年代初頭の話。
あるアメリカの医師が"人間の魂の質量"を計測しようと試みた。結核の末期患者の死の瞬間に立ち会い、死の前後の体重を比較するという内容の実験だった。
遺体は死後、時間が経つにつれて乾燥などの影響で体重が軽くなる。そのため、医師は死後に失われる体液やガスも考慮に入れて計算した結果、人間の魂の質量は「21gである」と結論づけた。
この結果はすぐに世界に知れ渡ったが、案の定学術の世界では疑問視された。
反対派の意見のひとつを紹介すると、死の直後は呼吸が停止し血液の冷却が行われなくなることで、一時的に体温が上昇し、発汗が促進されるというものだ。この発汗によって水分が21g失われていると主張した。
現代では既に否定されているが、過去にこういった実験が行われたということだけでも少し面白さが感じられるだろう。へぇ、そうなんだ、程度の感想でも構わない。この話はただの前菜なのだから。
ここからメインディッシュに向けて少しずつ準備をしていこう。
なぜ僕たちは「生きている」のか。
答えは単純、「死ぬのが怖いから」。
これが絶対の正解だとは言わないが、僕はこう思っている。
死にたくないから、死を避けるために生きる。
ではもし"死"が怖くなくなったら、どうなるのだろうか。
ここからは僕の過去と今を少し絡めて考えを述べたいと思う。
約1か月前、病んで心がつらくなっていた僕は、自傷行為に走った。自分を傷つけることで、心のつらさが和らぐ感覚があったのだ。
そこからはもう止まらなかった。嫌なことがある度に自傷を繰り返した。自傷が「逃げ道」として確立してしまったのだ。
自傷がやめられない理由は、「それ以上の効率的な逃げ道がないから」だ。一番簡単に、かつ一番落ち着く方法が見つかってしまったのだ。
もう少し遡る。高校2年の秋から冬にかけてのことだ。そのとき病んでいた僕は、社会的に生きられない自分を心底嫌っていた。その結果、自殺未遂に至った。縄を括って、首にかけてぶら下がる。ただそれだけだ。
案外不思議なもので、自殺しようとするときは全く怖さを感じない。むしろこれで楽になれるという希望で満たされていたと思う。
結局首に縄をかける前に見つかって止められるのだが、このときから"死"について真剣に考えるようになった。
先程の疑問に戻ろう。
もし"死"が怖くなくなったらどうなるのだろうか。
それは、「人生の選択肢に"死"が加わる」だ。
前述したように、僕は自傷行為が「逃げ道」として確立した。選択肢のひとつになってしまった、ということだ。
こう言われれば、「確かにそうだな。死ぬのも選択肢のひとつだろうな。」と思うかもしれない。しかし、それはただ思っているだけであって、"死"が怖くなくなったわけではない。
"死"が怖くなくなってしまうと、逃げ道に"死"を選ぼうとするようになってしまうのだ。これが、自殺未遂を繰り返す人々の心理サイクルだと僕は思っている。
そろそろ話も進み、準備も整ったことだろう。
では、本題に参ろう。
「死について」だ。
まず、人間の死とはどのように判定されるかご存知だろうか。死亡判定には「死の三徴候」と言われるものを基準にしている。
⒈呼吸停止
⒉心拍停止
⒊瞳孔散大・対光反射停止
この三条件を満たすと、死亡したものと見なされる。
ただし脳死の場合はこれに当てはまらないが、今回の話では重要でないので深くは言及しない。
このように"死"というものはまるで中学数学の証明問題のように形式的に判定されてしまう。
恐らく多くの人は「死ぬって人生最後の一大イベントなんだろうな」「死んだらこの上なく丁寧に扱われるんだろうな」と考えていると思う。
しかし、実際は全く違うのだ。
確かに「死ぬ」ということは家族や友人に多大な心的影響を及ぼす。
だが、社会的にはどうだろうか。
人ひとりいなくなったところで何も変わらないのである。代わりはいくらでもいる。1人程度の欠員が出たところでなんら影響はない。
よく「あなたの代わりなんていない」などと言う人がいるが、馬鹿げている。この世に人間が何億人いると思っているのだ。代わりどころかより優秀な人材がごまんといるだろう。
死亡したと判定された後はどのような扱いを受けるか知ったら、多くの人は驚くのではないだろうか。
これは知人の話だが、この内容を伝える上で最もわかりやすいので引用させていただく。
また、知人のことは仮にYとする。
ある日、Yの母親が自殺した。なんの変哲もない自宅での首吊り自殺だったそうだ。遺体は縄から下ろされ、裸にされた状態で床に横たわっていた。その場では父親が呼んだ救急車で来たであろう医療関係者が作業をしていたそうだが、本当に「作業」であったそうだ。
母親は「遺体」ではなく、ただの「死体」でしかなかった。力のない母親の体は床に転がされて布をかけられただけである。
Yは悲しみに暮れるというよりも、「なぜ母親はこんな扱いを受けているのか」と不思議で仕方なかったと言っていた。涙すら出てこなかったそうだ。
この話からわかるように、死んだら「遺体」ではなく単なる「死体」なのだ。
"死"というものは、案外呆気ないものだ。死んだら焼かれ、骨になって埋められる。それ以上でもそれ以下でもない。世界は思っているより残酷なのである。
では、医学的な視点での"死"ではなく、概念としての"死"はどうだろうか。
"ある種の終わり"だろうか。
"死"が終着点なのだろうか。
僕の意見では、どちらも否だ。
ここからは少しスピリチュアル的な話になってくるのでわかりにくくなることが多いと思うが、そこまで真剣に読んでもらわなくても構わない。
死は、幻想。
そもそも死ぬという概念はこの僕たちが生きている三次元での考え方であって、本当に死ぬことはできないのではないか。
人間が死ぬというのは体から魂や意識が抜けて別の次元に行くだけではないだろうか。
まず世界があってそこに僕たち人間が存在しているのではなくて、僕たちの中に世界があるのではないか、ということだ。
プロジェクターのように僕たちの意識が現実に投影されている感じ。
だからある意味では周りには何も無い仮想現実なのだけれど、だからと言ってコンピューターの世界のように誰かが僕たちをプレイしているわけではない。
これを読んでいる人の中にも経験したことがある人はいるかもしれないが、自分が今生きているかわからなくなるような感覚に襲われることが僕はよくある。意識的にも肉体的にも、浮いているような感覚になるのだ。
この感覚は臨死ではないが、生きていると呼ぶのも何か違うような気がする。生から離れている感覚なのだ。
そろそろ核心に迫っていく頃合いだろう。
"死"というのは、意識世界に魂や意識が帰ることだと僕は考えている。
意識世界と言っても少し複雑である。僕たちが頭の中で考えてることももちろん意識世界のことなのだが、その世界とは異なる。
正確な定義などはしないが、例えば僕たちが生きているのは三次元であり、頭の中で考えてることは四次元で起きている事象だとする。魂や意識が帰る意識世界というのは、五次元の世界なのだ。
確かに肉体は三次元でしか存在できないから、死んだら肉体は死ぬ。
しかし、死ぬのは肉体のみで意識は死なないのである。意識は五次元の意識世界へと浮き、リセットされるのである。
これが、僕の「死について」の考えである。
個人によってもちろん捉え方は異なり、宗教ごとにそれぞれの考え方があるだろう。
この話で伝えたいのは、「死とはなにか、一度でいいから、少しでも考えてみてほしい」ということだ。いつ訪れるかわからない死について考えることで、自分のことでなくても、いざというときに死を受け入れることができるようであってほしい。
終わり。