夢を諦めた瞬間に、長すぎる恋が終わった

ずっと一緒にいるはずだった。人生は想像以上に思った通りに物事が運ばないものだ。試練は乗り越えられる人の前にしか現れないとよく聞くけれど、試練から逃げ出した人の数の方が圧倒的に多い。

2人の夢を諦めた瞬間に、長すぎる恋が終わった。

***

正紀と出会ったのは社会人になってすぐの頃だった。仕事終わりに同僚と難波でお酒を飲んでいたときの話だ。私が外に出てタバコを蒸しているときに、「火貸してもらえませんか?」と声を掛けてきたのが正紀だった。どうやら彼はライターを忘れたらしい。ライターを貸してすぐにやりとりが終わるはずだったのに、タバコを吸う彼の横顔に見惚れている私がいた。彼に興味を持った私はなぜか彼の連絡先を自分から聞いていた。

「お姉さんは何の仕事してんの?」
「事務ですけど」
『俺な、小説家やねん」

文章を書いて生きている。それは私の知らない世界だった。きっとこの人なら私の知らない世界をたくさん見せてくれると思った。彼は小説家と名乗っているものの、それで生計を立てているわけではない。派遣でコールセンターに勤務しながら、空いた時間で小説を執筆している。いつか俺が書いた小説が売れて、芥川賞をもらったり、雑誌で連載をもらったりするねん。それが彼の口癖だった。

はじめてのデートで彼は自分が書いた小説を見せてくれた。これが本当につまらなくて。どうやった?と聞かれたときに私はうん、面白いねとしかいえなかった。いつか小説家として生きていくという夢を叶えると豪語する彼は、自分にはないものを持っている。新しい世界を見たいと思った私は、数回のデートを経て、恋人関係になっていた。

芥川賞に応募したと言っていたミステリー小説はすぐにオチが想像できる物語だった。伏線だと思ったものは一向に回収されない。私に合わなかっただけで、他の人が読んだら面白いかもしれないと彼の作品の面白さをいい香に見い出せずにいた。

恋人になってからの正紀は小説家仲間の友人に私を「彼女」だと紹介した。これまでの恋で恋人に友人を紹介してもらったことがなかった私はその事実が嬉しくて、彼の作品の出来などどうでも良くなっていた。彼の家に並ぶ小説は東野圭吾や綾辻行人、江國香織や吉本ばなななど私が好きな作品ばかりが並んでいる。小説を読んだ人は好きな小説家に少なからず影響を受けるものだ。彼の小説は江國香織に影響されている部分が多かった。

交際が始まって、半年が経ち、私は同棲することになった。一緒の家に住んで、一緒にご飯を食べる、夜は一緒のベッドで眠りにつく。それはそれはありきたりな恋人関係を築いていた。

彼は口下手な人だから、自分の伝えたいことをよく文章にして伝えてきた。LINEが長文だったことは何度もあったし、これ俺の気持ちだからと誰も見えないところで私を主人公にした私小説を書くこともあった。彼は出版社の誰々さんと話をしたとか、友人の小説家が賞をもらったなど、ただのOLの私では到底知り得ない私の知らない世界をたくさん見せてくれる。そんな正紀に劣等感を抱きながらも、彼はいつか売れると願っている私がいた。

ある日、京都にデートに行ったときの話だ。京極通りを歩いているときに、彼がいきなり立ち止まった。どうしたの?と、尋ねると小説のネタが思いついたと彼が嬉しそうに話す。アイデアは思いついた瞬間が旬である。仕方なく、近くにあったスマート珈琲店に入ることになった。テーブル席に通され、彼はアイスコーヒーを頼むなり、ペンとノートを取り出して自分の世界に潜り込んだ。小説家と生活しているとこのようなことも起きるんだと、二段に重ねられたホットケーキを食べていた。書き終わった、ごめんねと彼が口を開く。不満がなかったわけではない。それでも仕事だからしょうがないよと、彼の謝罪を素直に受け止めた。

週に3回しか彼は働きに出ない。そのため2人が住む家は、家賃が4万の1Kのボロアパートだった。彼と同棲してから3年が経った頃、FacebookやTwitter、Instagramに友人たちの結婚報告が増え始める。25歳で結婚するのが理想的だけれど、結婚していない友人もたくさんいるから大丈夫。大親友の由香は結婚はおろか彼氏すらいない。周りに遅れを取っているわけでもないと暗示のように自分の心に唱える。

26歳になった頃に、周りの結婚ラッシュに焦りを感じ、彼と結婚する?と自問自答を始めた。彼との時間は心地いいし、大きな不満はない。知らない世界も見せてくれるけど、今結婚するのはさすがに無理でしょ。彼の夢が叶ったらお金に困らない生活ができる。そうなってからでいい。今は彼の夢を全力で応援すると答えが決まった。

一方で、彼の小説家になる夢は一向に叶わなずにいた。出版社にどれだけ営業しても返信はおろか結果すら届かない。賞に応募しても一次選考すら通過しない。努力は叶うと少年ジャンプの主人公はよく口にしているし、最後に勝つのはいつだってヒーローだ。でも、努力が必ずしも報われるとは限らない。それでも彼ならいつか……

結婚した、出産した、マイホームを買った、昇進した、目に入る情報は自身の心を蝕むものばかりだ。私はいつ結婚できる?彼の夢はいつ叶う?このままでは私も彼も共倒れだ。そうなってからでは遅い。27歳になった頃に、焦りは行動に出た。

「ねえ、正紀は私との結婚を考えてる?」
「当たり前じゃん。小説が売れたらいい生活ができるからそれまで待ってよ」
「周りがどんどん結婚していくのが辛いから私も早く結婚したいの」
「あとちょっとでいい小説が書けそうなんだ」
「その話は何度も聞いた。何回やってもダメだったじゃない」
「あと1年待ってくれ。それでダメだった諦める」

解決しない押し問答を繰り返しても埒が開かない。2人で話し合った結果、彼が夢を見ていい期限を設けた。1年経ってダメだったら彼は就職してくれる。夢は叶わないかもしれないけれど、それでも彼と一緒にいることができるならそれでいい。ここまで時間を費やしたのならと、もはや執着だった。

話し合いから1年が経った。彼の夢は叶わなかった。

「約束の1年が経ったよ」
「いや、あと1年」
「もういい加減にしてよ!」

さすがに我慢の限界だった。この先正紀と一緒にいる私の人生はどうなる?一緒にいた時間を無駄だったと思わせないでほしい。正紀に一緒にいてほしいと頼まれたわけでもないのに、自分を肯定するためにありったけの怒りを彼にぶつけて、雨の中傘を持たずに家を飛び出した。

雨のせいで化粧がぐちゃぐちゃになった。落ちたマスカラと共に黒い涙が頬に流れる。正紀と結婚したかった。小説家として売れる。結婚して幸せな生活を送る。2人の夢が両方とも叶って欲しかった。こんなはずじゃなかった2人が過ごしたあの長い時間に意味があったのだろうか。声を出してわんわんと泣き喚いた。全部雨のせいだ。これほどまでに雨の日で良かったと思った日はない。

どれだけ待っても、正紀は追いかけてこなかった。家に帰ると、ベッドで正紀が寝ていた。この光景を見た瞬間に、私の中の何かが崩れ去った。彼を揺すり起こす。もう終わりにしましょう。朝になる前にすべてを終わらせたかった。

家を出る前に、楽しかった2人の日々を思い返す。小説のプロットを楽しそうに話す正紀の姿。19時までレモンサワーが50円で飲める安居酒屋でたくさんレモンサワーを飲んだこと。はじめて友達に恋人として紹介してもらったこと。お風呂上がりにアイスを分けあった夜、お金がなくても一緒にいるだけで幸せだったこと。彼と掛けてくれた甘い言葉で胸がときめいたこと。5年という、長い時間を彼に費やしたこと。

すべてが無意味になる朝に、私は荷物をまとめて2人の家を出た。涙が出る。天候はあいにくにも晴天である。昨夜のように、涙を雨のせいにはできない。一睡もしていなかったことが功を奏したのか、実家に帰るまでの電車は熟睡だった。

正紀の夢を最後まで応援できずに、自分の幸せを優先した私はひどい女だったのだろうか。彼と一緒にいる将来をずっと夢見ていたかった。彼の小説さえ売れれば、ずっと一緒にいられる、はず、だった。最後は最悪の結末を迎えたけれど、楽しい思い出もあった。なんて、思い出を美化してしまうのは人間の悪い癖である。一緒にいる未来を実現できなかった。それだけが受け入れ難い現実だ。

***

正紀とお別れした3年後に私は直人と結婚した。

「紀子ちゃん、お腹大きくなったね」

嬉しいことに、私のお腹には妊娠9ヶ月の赤ちゃんがいて、もうすぐ念願だった夢が叶う。赤ちゃんが無事に生まれてくる瞬間を心待ちにしている。赤ちゃんが生まれたらどこに連れていくかを考えているだけで、自然と笑みが溢れる。かつて直人にも小説家になって売れるという夢があった。自分の書いた小説が売れないと現実を受け入れた直人はありがたいことに自分の夢を諦めて正社員になった。彼は結婚して幸せな家庭を築くという2人の夢を優先してくれたのだ。

大好きだった正紀との生活は終わってしまった。彼と一緒にいた5年間で、必ずしもすべての努力が報われるわけではないという残酷な事実を知った。本音を言えば正紀と結婚したかった。本当に好きな人とは結ばれないという話は、案外本当なのかもしれない。

正紀は今も小説家として売れるという夢を追っているのだろうか。なんてことを考えても仕方がない。お腹にいる赤ちゃんを気遣いながら、新築戸建てのベランダに出る。

iPhoneに残る正紀と撮った写真をすべて消去した。

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