そこに愛はあるのか?僕たちが不自由に対してできること
どれだけ不自由に目を向けられているのだろうか。たとえば電車に妊婦さんがいたときは、席を譲るといった配慮ができる。これは目に見える不自由の場合だ。とはいえ、世の中には眼に見えない不自由を抱えている人間が存在するという事実を忘れてはならない。
僕自身もその中の一人で、ベーチェット病という難病を患っている。症状の一環として両目に白内障を併発した。それによって、視野を失った。手術をして、今は治っているのだけれど、近くを見るときは裸眼で、遠くを見るときは眼鏡をかけている。眼鏡の付け外しを見た方は、この一連の流れを不思議に思う人が多い。いちいち説明するのが面倒だが、きちんと説明しなければ、この煩わしさが伝わらないのも事実だ。
実に不便な生活を送っている。視野が狭さが原因で何かにぶつかるたびに落胆の色を隠せない。時に自分の運命を呪いたくなるが、そんなときは大切なものを数えることで乗り切ってきた。事情を知っている人は視野が狭いからぶつかったんだと理解してもらえるのがありがたい。逆に何も知らない方は、いきなり何かにぶつかる姿に驚いている。当然のリアクションだし、誰も悪くない。
視野を失った事実を伝えたときに、2種類の反応が返ってくる。見方を変える人、これまで通りの見方をしてくれる人だ。個人的には後者の方がありがたい。接し方が変わるのは致し方がないと思う。だが、見方が変わるのは残念に思う。悲劇のヒロインになりたいわけではないし、視野を失ったからといって不幸というわけではない。僕は僕なりに幸福な人生を送っている。加えて、誰かに慰めてほしくて、難病になった事実を伝えているわけではない。自分の幸福ぐらいは自分で掴んでみせるという気概で人生を生きているのだ。
白内障で視野を失ったとはいえ、障がい者手帳を持っているわけではない。だが、誰もが一時的に何かの症状になる場合がある。たとえば骨折や妊娠、体調不良などがそれらに該当する。社会に少しずつバリアフリーが普及してきたとはいえ、人間の力を借りなければならない場所が多い。不自由を抱えている人に手を差し伸べる人はどのぐらい存在するのだろうか。中にはその状況を笑う人もいるが、彼らは自分が同じような状況になる可能性があると知らないのかもしれない。
この世界には目に見える不自由があれば、自身のように目に見えない不自由も存在する。そこに対して、必要なのは思いやりだ。だが、外見だけで判断できないケースでは、思いやりができないのも事実である。思いやりを持ってください、見方を変えないでくださいと願うのはエゴなのだろうか。誰かの善意に甘えたいと願うのはエゴかもしれない。だが、決して人は誰も一人では生きられないのだ。たくさんの方の支えによって、一人の人生が形成されている。誰もが思いやりを持つ社会が実現すれば、生きづらさを抱える人は減るかもしれない
「そこに愛はあるのか?」
この言葉を肝に銘じて生きていたい。