mémoire
名前には根拠がないので、瞼を開けて目に入ってくるそれを天井とか壁とかでなく、少しさみしいオレンジ色の拡がりのそのままとして受け止める。カーテンが開いていて、全部がオレンジになっている。
起きあがることのだるさより寝つづけることのだるさが勝っている。母親はまだ帰ってきておらず、泣きたい気持ちとほっとする気持ちとがどちらも本当としてある。傍のテーブルに置きっぱなしの缶詰のモモの甘さを口が覚えていて、残っていた汁を一口飲む。ねっとりした甘さには保健室に貼ってある顔のない黒いばい菌が重なる。歯みがきをしないとまた叱られる。出かける前にも片づけをしないのとべたべたする汁をこぼしたので𠮟られて、目のあたりに涙の感覚が残っている。飲んだのに喉がかわいてツバを飲むけど、たいして意味がない。
何かに焦る気持ちがあるがそれがなんなのかよくわからない。言葉によって分別される前の、すべてが繫がっているような、なにもかもばらばらのような感覚。いまは起きたばかりで、全部がよそよそしい。いつもの部屋が知らない場所みたいに見える。あんまり信じてない時計がこつこつ動く。そろそろ帰ってくる時間のはずだ。でももしかしたらもう帰ってこないかもしれない。叱る声と目のとげとげしさを思い出す。うるんだ目玉を動かすと透明な埃のような、ぎょう虫のようなのが視界を動くのでしばらくそれを目で追う。
光りの感じが強かったオレンジがだんだん弱まってきてぼんやりと暗くなってくると、さっきからずっとあったひとりでいることの怖さがすこしずつ背中を上ってくる。叱られるときのぎゅっとした怖さではなくて、ひんやりした風がすっと体温を下げる感じ。
遠くでサイレンの音が鳴りはじめる。
それで、あ、ドアが開くな、と思う。それを知っている。サイレンの間延びした音や暗くなっていくさみしい光や起きたばかりの部屋のよそよそしさや、そこにある風景の流れと感覚を夢かなにかで見たことがあって、それを憶いだす。ときどきこういうことがある。いまから雨が降るよ、といって学校の友だちにびっくりされたり、おなかの中にえりかちゃんがいるよ、と腹が大きくなる前に告げて母親に不思議がられたり。
サイレンが鳴り終わるくらいで、カギをがちゃがちゃやる音が聞こえて、ただいま、という声がする。母親はもう怒っていない。ビニール袋をざわざわと床に置いて、テレビをつけて、にぎやかな声が流れると一気に夜になる。台所で火を点けるちちちち、という音がする。夜はどことなく浮かれている。確かに帰ってきたのはお母さんだけど、さっきほんとうに待っていたものとは違うような気もする。母親以外にそういう感覚を持つことはない。母はもうビールのにおいをさせている。父がレインボースイミングから妹を連れて帰ってきて、もう飲んでるのか、と冗談めかして文句をいう。妹が走って洗面所に行く足音が聞こえる。家族がそろうと急に家がくっきりと家になる。おにいちゃん、と呼ばれて振りかえる。妹が兄にする。