ブータン旅行記④ 猫好きな国
■7日目冬の都プナカ~空の玄関パロ
何とか朝を迎える。幸い食欲はある。朝食はビュッフェスタイル。でも、客一人でビュッフェスタイルって斬新すぎる。いろいろ出してくれているけど、食べるの自分だけだからね。これ、全部食べろと? なんか、大食い選手権に出ている気分。臨機応変という言葉はこういう時の為にある。
朝食を終え、外を眺める。よく晴れている。朝もやの中に浮かぶ棚田が美しい。
朝もやに浮かぶ棚田
例のごとく出発までには良くなる体のおかげで、なんとか予定通り9時前にホテルを出発する。15分ほどでプナカ・ゾンが見えてくる。母川と父川という2つの川の合流ポイントにてゾンを望む。いい眺めだ。このゾンは川の合流地点かつ背後が山、という場所に建てられている。
これはもう明らかに戦いを念頭に作られていることがわかる。まさに陸の孤島という感じで、攻める側としては、こんな攻めにくいことはない。逆に守るには最適の場所に建てられている。
川の合流地点からプナカ・ゾンを望む
そして本で読んだ、過去にブータンを訪れた日本人たちも、この風景を見ていたんだなあとしみじみ思う。昔はこのゾンはもっと寂れていたそうだが、日本の技術協力を伴った改修により綺麗になっている。今では、ブータンで最も美しいゾンと言われている。眺めを堪能し先へ進む。
橋を渡り、ゾンへ入る。プナカまでくると、外国人も多いかと思ったが、それほどでもなかった。というより、あ、あの人ジャカールでも見かけた人だ、と見知った顔をちらほら。なるほど、閑散期に来るとこうなるわけだ。
中庭は広く、大きな菩提樹がある。ここでツェチュのお祭りをするとすごい人になるだろうな。ツェチュというのはブータンの宗教的なお祭りで、華やかな仮面舞踏や寸劇が披露され、国内外から毎年多くの人が参加する。有名なツェチュは春や秋に行われるので、この時期は外国人旅行者が激増し、飛行機やホテルが全く取れないという。
この時期にブータンに行くのは喜んで東京の朝の満員電車に乗るようなもので、人混みが好きではない自分には苦行でしかない。幸せの国に不幸せになりに行くようなものだ。だからお祭りは心の中で参加するので十分。
プナカ・ゾンの中庭
ずっと奥に進んでいき、現国王と王妃の結婚式が行われたという仏殿に入る。一番奥には大きな仏像が3体。お釈迦様、シャブドゥン(ンガワン・ナムゲル)、グル・リンポチェ(パドマサンババ)。ンガワン・ナムゲルは、1616年にチベットからブータンに亡命したドゥック派の僧侶で、1639年にチベット人と戦って勝利を収め、ブータンを統一した。その自らシャブドゥンという称号で呼ぶようになった。
そして正面には、大僧正と国王のみが座ることを許されている2つの台座がある。周囲の壁には過去の大僧正の仏像が床から天井まで一面に収められている。仏殿の隣には、シャブドゥンのミイラや、国の宝物が収められている宝物殿がある。
なんにせよ静か。お姉さんが箒で掃く音が聞こえるのみだ。
左が仏殿、右が宝物殿
それにしても、ゾンの出入口の階段は急である。年配の方が登り降りするのを見るとはらはらする。えっちらおっちら登っていくが、大丈夫だろうか。ゾンにバリアフリーの概念が登場するのはいく年先か。この階段も、次来る時にはエスカレーターになっているかもしれない。
まあ、そもそもゾンの役割は敵の侵入を防ぐためでもあったので、入り口が険しいのも仕方ない。でも、敵が攻めてくるのにバリアフリーだったら意味がないが、敵が攻めてこないのにバリアがあるのも意味がない。この階段も、当初の目的を失っている。
急階段の入り口。歳をとるとキツい
次は、ブータンで最も人気のある僧侶の一人、ドゥクパ・クンレー(1455~1570)ゆかりのお寺チミ・ラカンに行く。ブータンに来る前、『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』の本を読んで彼にはすっかり親しみを覚えてしまった。この本を読まなければ、チミ・ラカンはただの一寺院として通り過ぎただろうが、今ではすっかり行くのが楽しみになってしまった。
彼は言うなれば、日本で一休さんの名で親しまれている一休宗純のような人。形式主義に陥った仏教を、禁忌を破り、眉をひそめるような行いをすることによって批判し、仏教の本来あり方を説こうとした人。
お寺は丘の上にあるため、村の麓まで車で行き、そこから丘を登っていく。丘の上に到着し、堂の中に入る。
中にはドゥクパ・クンレーの仏像が安置してあり、なかなかハンサムというか、立派な容姿をしている。他の仏像と比べると何か雰囲気が違う。他の仏像はありがたい感じがするが、ドゥクパ・クンレーはギリシャの哲学者のような印象を受ける。
チミ・ラカンへ向かう登り道
ちなみにブータンでは、下の写真の通り、ポーと呼ばれるあれが魔除けとして信奉されており、家の壁に描かれていることがある。その理由は、ドゥクパ・クンレーがあれを使って悪魔を退治していたから。あれを描く事で、悪魔が家の中に入ってこないとか。
家の壁に描かれるのは守護神である四天王とか、動物が多い。あれが描かれているのは地方でしか見なかった。青少年健全育成団体からは眉をひそめられそうではあるが、彼らを遠ざけるという意味では魔除けの役割を果たしていると言える。
悪魔とユーモアがない人を遠ざける力があるという
村を出て、棚田の中を歩く。日差しは強いが、風が出ていて気持ちいい。というか風が強い。これがブータン名物の山谷風。途中、ガイドさんがお店でリンゴジュースを買ってくれて一息入れる。それにしても暑い。プナカだけ夏という感じ。車に乗り出発。
強風で稲がなびく棚田
途中昼食を食べる。レストラン貸切で。相変わらず3人前の。ブータンでレストランを貸しきるための最も容易で金のかからない方法は、閑散期に行くことである。
食事を終え、あたりを見渡すと、窓際に一匹の猫を見つける。これ幸いと、近づいて写真を撮ろうとする。すると、気づかれてすっと立ち上がる。逃げられるか、と思いきや、一目散にこちらに寄ってくる。のみならず、足にスリスリしてくる。何この人懐っこい猫。こんな人懐っこい猫初めて見た。いろんな性格の猫がいるもんだと感心しながら、なでなで。
ちなみに、ブータン家庭で飼う動物といえば猫である。ホームステイした家にも猫がいた。レストランにもよく猫を見かけた。ブータン人はかなりの猫好きなのだ。おそらくネズミを捕まえてくるのだろう。
食事と猫を堪能したところで出発し、ドチュ・ラ峠を越えて、パロに向かう。
人懐っこい猫
懐かしのパロに到着。1週間ぶりだ。パロ空港も見える。早速、最近できたというビール工場を案内してもらう。スタッフの女性が英語にて案内してくれるが、超速の英語で5%しか聞き取れず。ガイドさんが見かねて(聞きかねて?)日本語で通訳してくれる。この女性には昔、日本人のボーイフレンドがいたという。彼のリスニング能力には驚嘆である。
案内後、思いがけず10種類近くのビールを試飲させてもらえる。え、天国? こんなにいろいろな種類のビールが飲めるとは思わず、うれしい誤算。個人的には、Red rice(赤米)ビールが飲みやすく、また香りもよかった。というか、お米のビールって初めて知った。後から知ったが、日本にもお米のビールはあるようだ。今度試さねば。
ビールに満足して外へ出る。すると先ほどまで強く降っていた雨が止んでいる。何という天気の変わりやすさ。雨季にブータンに来て感じたのが、この天気の変わりやすさだ。明け方は曇りか小雨が降っていることがほとんどだった。それから曇りが基本でときどき雨、ときどき晴れという感じ。それもコロコロとよく変わる。ガイドさんに聞いても、天気予想なんて当たらないと言っていた。それはそうだろう。ブータンの雨季の天気予報は毎日、「曇り時々、雨時々、晴れ」であり、それ以上の予報はできそうにない。
でも、ブータンの年配の方なら空や湿り気などの五感を使った手がかりから、天気を正確に予測しているかもしれない。
一番右上が旧国立博物館、その左斜め下がパロ・ゾン、手前がパロ空港
次に行くのはパロの国立博物館。旧館は2011年の地震で崩れ、修復中。現在の新館は旧館のすぐ裏手に建てられており2018年にオープンした。ブータンでも地震による被害を受けることはあるようだ。ここはパロでも有名な観光スポットで流石に外国人も多い。
館内にはツェチュに使う様々な仮面、家庭で使われていた日用品、ロイヤルファミリーの歴史、ブータンに生息する様々な動植物が展示されている。日本には見られない豊富な動植物がいるのが印象的。
特に冬虫夏草はブータンの特産品。これはブータン北部の高地で採れるが、現地の人にかなりの収入をもたらしている。ブータンにとって冬虫夏草は石油のような存在か。
それからパロ・ゾンへ。パロ・ゾンのペンロップ(領主)は過去絶大な権力を持っていた。自分の言うことを聞かない領民を銃の的にして撃っても誰も文句を言えないくらいの権力者。
ちなみに、銃の的にされたウギェン・ドルジという人の娘、ドルジ・ワンモ・ワンチュックは4代目国王と結婚し、王妃となった。彼女が王妃となった背景には、2代目国王によるウギェン・ドルジの叔父の暗殺事件などいろいろと複雑なものがある。また、ブータンでは過去首相が暗殺されるなど、権力関係では他の国に負けず劣らず生々しい歴史が満載。
私がブータンに訪れる少し前、このウギェン・ドルジが亡くなったと聞いて、とても残念に思った。この人の話をまとめた本『虹と雲』をブータンに行く直前に読んで、いろいろと教えられるところがあったから。
パロ・ゾンから出たあと、ふと駐車してある車を見ると、ナンバープレートの色が他と違う車がある。聞けば、政府関係者の車だという。
ブータンの自動車には4、5種類のナンバープレートがある。一つは、一般市民用(Bhutan Private)でBP始まりナンバーで赤いプレート。もう一つは、タクシー用(Bhutan Taxi)でBT始まりナンバーで黄色いプレート。そして、政府の偉い人用(Bhutan Government)でBG始まりのナンバーの橙色プレート。さらに、警察用(Royal Bhutan Police)でRBP始まりナンバーで青いプレートを今回の旅行中に見かけた。
そして車に戻ろうとしたところ、ガイドさんが見知らぬドライバーさんに話しかけられている。何だろうと思って後から聞いてみると、仕事の斡旋依頼だそうだ。ガイドさんの会社で仕事があったら回して欲しい、ということ。
ガイドさんの話やブータンに関する書籍を総合すると、ブータンは超コネ社会のようだ。仕事を得るには能力以上に、コネが重要。コネがないと仕事がない。これもまた良し悪しだ。ブータンはコネ社会だからこそ、人間関係がより重要だという一面もあるのだろう。昔の日本もそうだったではないか。
パロ・ゾン近くの丘から眺めるパロの町
16時半前、パロの町で降ろしてもらい、一人で町歩き。路地という路地、道という道を歩いていく。路地裏の電化製品屋をのぞくと、ブラウン管テレビとか、超旧式のパソコンなど、懐かしの電化製品が並んでいる。
おかしいのが、どうみても日本でいう不良少年のような現代風の若者たちが、律儀にマニ車をくるくる回していくこと。見た目と行動のギャップが面白い。不良少年でもマニ車を回す習慣は拭えないということか。
このパロの町は空港に程近く、ブータンの表玄関という位置付けからか、町には外国人が多い。それに伴ってお土産屋さんも多い。表通りは外国人のための店ばかりだ。今は閑散期だからか、お店の人たちも暇そう。お土産には興味がないので外から店の中を覗きながらぶらぶら歩く。お店の人と目があうと、スッと店の電気をつけられてどうぞ中へと言わんばかり。だけど、心の中でお気になさらずと唱えながら通り過ぎる。
町を歩いていると、ブータン人のタクシードライバーから「ティンプー」と度々声をかけられる。他国ではよくあるけど、ブータンでもこういうことがあるのかと面白く思った。逆に、他の町では外国人だからと声をかけられることはなかったから、これはパロという町の特色なのだろう。インド人とか、ガイドなしでも自由に国内を回れる観光客はタクシーを使っているところを度々目撃した。
ひとしきり歩いたところで、カフェに入って休憩。18時にガイドさんたちと合流し、今夜宿泊する民家へ。
パロでも民家でホームステイをする。ガイドさんの話によると、今日泊まる民家には小学生のNaughty boy(わんぱく坊主)がいるので気をつけてという。まあ、小学生男子の99%はわんぱく坊主だが。一方で、中学生の女の子たちもいて、この子たちはしっかりしているという。まあ、中学生女子の99%はしっかりしているものだが。10分程で民家へ到着。ここでいったんガイドさんとは別れる。
民家は2件目とはいえ、人の家に入るのは少し緊張する。入ると、何か賑やか。というか、人が多い。いったい何人家族なんだろう。
2階へ行き、宿泊する部屋に案内される。荷ほどきを終え部屋を出る。すると、この家のお母さんがやってきて挨拶をする。とても元気で明るいお母さん。長年日本人を受け入れてきたからなのか、日本語も少し話す。
そのあと、例の中学生の女の子たちに何やら指図する。座って待っていると、彼女たちがバター茶を持ってきてくれる。バター茶を茶受けのお菓子と一緒に食べる。バター茶がなくなると、すかさず注いでくれる。
例のわんぱく坊主もやってくる。彼は今ゲームにハマっているようだ。会話の99%はゲームの話で、さすが小学生男子といったところ。ひとしきりゲームについて話した後、満足したのかどこかへ行く(多分ゲームだろう)。
そして、中学生姉妹が残る。彼女たちはそれぞれミト(中学3年生)とイシュー(中学1年生)という。そしてもう一人、2歳くらいになるソナムちゃんという女の子が残る。てっきり、後は好きにしてという感じでほっとかれるものと思っていたから、目の前にじっと座っていられると落ち着かない。えっと、これは何か話さないといけない流れなのかな?
あいにく女子中学生と話すビジネススキルは磨いてこなかった。この怠慢について深く反省するものである。いや、むしろこれは会社の怠慢ではないのか? 今度、どこかで「女子中学生と楽しく話すビジネススキル講座」が開設されたら受講することにしよう。
しかし、彼女たちは慣れたものである。何十、何百もの外国人と日常的に接しているので、振る舞いも堂々としている。部屋に飾ってある初代国王から現代の国王、そして家族について、写真を見ながらよどみない英語で説明してくれる。もう立派なガイドだ。さすが中学生女子、しっかりしている。
一方、ソナムちゃんは、スマホでアメリカの子供向けアニメの動画を見ながら英語を学んでいる。もうこの時期から英語教育が始まっているのかと感心。
しばらくしてスマホに飽きたのか、自分の隣に来て、何やら手に持っている小さな箱から棒を取り出す。そして、その棒を箱に擦り付ける。あ、マッチかと思った瞬間、火がついて、ソナムちゃんの目の前で炎が上がる。と同時にギャーと悲鳴が上がり、火のついたマッチが放り投げられて、自分の目の前の座布団に落ちる。っておおい!と慌ててマッチを拾い上げる。泣き出すソナムちゃんを中学生姉妹があやす。とりあえず、何事もなくてよかった。
これで、ソナムちゃんは子供が通過すべき儀式その1「火遊び」を無事に通過したことになる。火の恐ろしさを十分に味わっただろう。
さあ、家族のことも聞いたし、何を話したもんかと思案していると、そうだ、学校のことを聞けばいいんだと至極真っ当なことを思いつく。家族と学校は全世界共通の話題だ。
まず驚いたのは、授業は小学校の時から国語を除いてすべて英語で行われていること。だからこんなに英語が上手なのか、と納得。この国が生き残っていくには英語ができないとだめだと判断したのだろう。ただ、そうすると国語であるゾンカ語は廃れていく一方だろうなとも思う。ただ、ゾンカ語といえども、ブータンの西の方しか通じず、東の方では全然違う言葉が話されているので言語の選択は複雑だ。
彼女たちの学校は空港の近くだという。飛行機の離着陸の際は、すごい音がして授業が全然聞こえない時があるそうだ。なんか日本でも聞く話だ。ブータンにはまだ防音窓や二重窓が備わっているとは思えないから、確かに大変だろう。
ブータン人で海外に行く機会がある人はそれほどいない。ブータンの生徒たちでもThe best of the bestの生徒のみが海外留学できるという。あとは、言うまでもなくお金持ちの家の子女たち。または、スポーツで優秀な選手になると海外の試合に行けるのだという。
ブータンでは弓や、サッカー、意外なところではクリケットが人気だそうだ。彼女たちの学校の生徒で、クリケットが上手な子がいて、その子がマレーシアで試合をしてきたという。調べたところによるとクリケットはインドで人気のスポーツということで、それが影響しているのだろうか。この旅行中、弓、サッカー、バレーをやっているところを何回も目撃した。
そういえば、彼女たちも今学校は夏休み中なのだという。なるほど、だからこんなにのんびりと相手をして頂いたのかもしれない。子供たちが長期休暇中にブータンに行って民泊すると、彼らとゆっくり話ができるという利点があるようだ。
かれこれ1時間以上話しているうちに、夕食の時間になる。ご家族と一緒に食べる。それにしても大家族。お母さんを真ん中に取り囲み、12人くらいが床に座って食べる。賑やかなこと。それに冗談も飛び交う。
誰だ、ブータン人は静かに食事すると言っていた人は。さらに、ブータン人は冗談も言わず、笑うこともない、と言っていたが、誰だそんなことを言っていた人は。いや、それを言っていたのは大学の教授だったのだが。まあ、大学の教授と一緒にいて、冗談を言ってみんなで笑うなどと言うのは、ブータンに限らず日本でもありそうにない。渾身の下ネタギャグを言うのは決して大学教授の前でではない。
そうすると立場が上の人から見た一般人の振る舞いには相当のフィルターがかかっているのは容易にわかる。彼が見たのは、ブータン人の特殊な性質ではなく、一般人は立場が上の人に対して冗談を言うことはないという、世界共通の性質なのだ。偉くなるとこういう当たり前のことが分からなくなってしまうので、私をふくめ誰でもそうなる可能性があると思うと恐ろしいことだ。
自分は辛さ控えめの(といっても相当辛い)チャイルドフードを出してもらう。ご飯やおかずのお代わりの際は、お母さんに皿を渡しよそってもらう。食べていると、うるさいでしょう、とお母さんが言う。これは捉え方の問題で、賑やかでいいですね、と答える。賑やかな食事も終わり、部屋へ。
夜は、犬たちによる「ワンワン交響曲 第7番 第4楽章」「亜麻色の毛のワンコ」「ワンワンの湖」などの演目を聴きながら眠られぬ夜を過ごす。
こんな夜は、ヒルティの『眠られぬ夜のために』を読んでも役には立たない。彼は「不眠を避けるのに大切なことは、まず第一に、興奮や不安のためになるような考え事を抱いてではなく、むしろなるべく静かな、よい思想と心の平安をもって、夜の休息に入ることである。これがなによりもよい安眠法である」と述べている。
しかし、どう考えても大切なことは、まず第一に、静かな環境である。
■8日目空の玄関パロ
翌朝。家の周りを少し散歩する。まだ未舗装の道を行く。周りには田んぼが広がり、遠くにはパロ・ゾンが見える。
ホームステイ先の家の前からパロ・ゾンを望む
家に戻り、昨夜同様、家族の皆と賑やかな、かつ辛めの朝食をとる。朝8時に家を出る。子供たちも見送りまでしっかりして、さすがだなと思う。
さて今日はブータンで最も有名なタクツァン僧院だ。ここは、ブータンのメッカのような場所。ジャカールのクジュ・ラカンと同様、ブータンにチベット仏教を伝えたグリ・リンポチェ(パドマサンババ)が飛虎に乗って舞い降り、断崖絶壁の洞窟のなかで瞑想を行ったという。タクが虎で、ツァンが隠れ家の意味。合わせて、タクツァン(虎の隠れ家)となる。ここに行くには2時間ほど山道を登っていく必要がある。
民家を出て車で15分ほどすると登山口に到着。ガイドさんが登る用の杖を用意してくれており、それを使わせてもらう。ドライバーさんはお留守番かな?と思いきや、一緒に登るという。待っているのは暇だからということだが、かといってこの山登りを選択するとはなかなかである。
私は登山用の靴で結構重装備だが、ガイドさんはサンダルと超軽装備。もう100回以上登っているとのことなので、慣れたものなのだろう。ガイドも楽じゃないね。
タクツァン僧院は写真の通り、切り立った断崖絶壁の上に建てられている。なんでこんなところに建てちゃったの、という僧院である。日本でも、道元禅師が開いたという福井県の永平寺も山の奥深くに建てられているが、松尾芭蕉が『奥の細道』でいうように、両方とも尊き故があるのだろう。
第一展望台からタクツァン僧院を望む
8時20分から登り始め、途中第一展望台などで30分くらい休憩をはさみ、10時半に僧院に到着。行きは、第一展望台まで馬に乗っていくことができる。もちろん有料だ。私は歩きを選択。
登る際、最も注意すべきことは、馬の糞を踏まないこと。私の場合は、上り2時間、下り1時間弱だった。休憩抜きで純粋に登って降りるだけだと往復2時間半程度か。ただし、ガイドさん曰く、これはかなり早いペースだという。年配の方が集団で登り降りするとやはり往復4時間くらいはかかるのだろう。
登りの途中で中学生くらいの男の子が私を追い越しスタスタ登っていく。すごい健脚だ。しばらく進んでいくと、登りながら2人のブータン人の男性と話す。どちらも英語が流ちょうな人だ。一人の40代前半くらいの男性は、東部のタシガンからこのタクツァン僧院に参拝するためにわざわざやってきたという。ブータン人なのにここに来るのは初めてなんです、と照れ臭そうに話す。タシガンからパロまで車で丸2日かかるという。パロから日本に行くよりも遠いですね、と笑いながら話す。
途中その男性に電話がかかってきた。一緒に来た息子からだという。そこで、いったんその男性とは別れる。さらに登っていくと、さっきの健脚の男の子がおり、私と話していた男性と何やら話し出す。何とこの2人親子だったのだ。ということはこの男の子もタシガンから来ているということ。
今日は平日だけど、と思ったところで、そうかこの時期学校は夏休みだから一緒に来ているのかと気づく。
間近から見たタクツァン僧院
野良犬が寝ていて足の踏み場にも困る第二展望台から階段を上り下りし、ようやくタクツァン僧院にたどり着く。中はいくつかのお寺からなっている。タクツァン僧院は1998年に火事で焼けてしまっている。その際、ほぼすべての仏像も焼けてしまったが、一体だけ焼けずに残っており、ガイドさん曰く、この焼け残った仏像が一番ありがたいとのこと。
この仏像の隣にはグル・リンポチェが瞑想したという洞窟に通じる扉がある。通常はこの扉は閉ざされており、年に一回、御開帳がある。その際は、第一展望台まで人が並ぶという。なかなかえげつない行列だ。歩いて1時間かかる距離だから、遅くに行くと日が暮れるという。この時、トイレはどうするのだろうと、せんなき疑問が浮かんでくる。しかし、この疑問については考えても幸せになることはなさそうだ、と積極的無知を選択する。
さすがに閑散期とはいえ、タクツァン寺院は外国人観光客が多かった。外国人観光客はここに全員集合しているのではないかと思えるほど。閑散期でさえこの人の多さだから、4月や10月とか一番人が多い時期はどんな混み具合になるかと考えると恐ろしい。なんせこの10倍だからね。貸切だったポプジカやジャカールなどが懐かしい。雨季になると、プナカより東は貸切になる。
この人の多さもあってか、通常タクツァン僧院には修行僧はいない。お坊さんも、修行どころではないしね。しかし、この雨期の季節は雨乞いの儀式をするためにお坊さんたちが集まり、タクツァン僧院の中で寝泊まりして毎日読経をしている。そういえば、チベットにも雨乞いを仕事とするお坊さんがいると聞いたことがあるな。
僧院には読経の声が響き、部屋にはお坊さんたちが持ってきた寝具が置いてあった。
13時15分頃下山。少し早いがホテルに向かう。ホテルシワリンに到着。ここは2017年に眞子様がブータン滞在時に泊まったホテルだという。
ガイドさんとこのホテルで働いているホテルマンが地元の友達ということで、彼にホテルの中をいろいろと案内してもらえることになった。眞子様が泊まったというスイート・ルームの中も案内してもらう。広い。なんせバスルームが自分の日本の部屋よりも広い。しかも、部屋の中にお寺がある。お寺の中に部屋があるのでは無く、部屋の中にお寺があるのである。この発想はなかった。思わずおおーと声をあげる。
続いてホテルの広い庭園も案内してもらう。庭には桃の木があり、ホテルマン曰く、桃は西岡京治さんがブータンにもたらしたのだという。思いがけず西岡さんの名前を耳にする。彼が言うには、ブータンでは西岡さんは有名だけど、ブータンに来る日本人はあまり西岡さんのことを知らないんですよね、とのこと。
また、このホテル内にはこのスイート・ルームとは別にお寺がある。宿泊客は誰でも入れて、しかも何と写真撮影OKである。ブータンのお寺の中は基本的に写真撮影NGなので、ここは数少ない、というかほぼ唯一撮影できる場所ではないか。
ホテル内のお寺(一番左:お釈迦様、中央:グル・リンポチェ、一番左:シャブドゥン)
さらに、全館床が木張りでいい感じにギシギシ鳴る。そういえば、他国の一流ホテルでも歩くたびに床がギシギシ鳴っていたところがあったが、由緒正しいホテルは、床をギシギシ鳴らすのが常識なのだろうか。
逆に、床がギシギシ鳴ると由緒正しいホテルになるのかとも思ったが、そうすると、日本の築40年の木造ボロアパートが由緒正しいホテルになってしまう。逆は必ずしも真ならずということか。
夕食。近くのインド料理店に行く。インド料理店という時点で少し嫌な予感がしていたが、辛くないものを頼むので大丈夫とのこと。料理が出てくる。うん、限界を超えた辛さである。なので、ナンとご飯だけを食べる。
店のスタッフいわく、まったく辛い調味料は入れていないとのこと。多分、鍋にスパイスが染み付いていて、スパイスを入れずとも、鍋から辛い出汁がとれるのではないか? さすがにガイドの方が見かねて、別のお店に連れていってくれ、そこでおかずをちょっと食べてホテルに戻る。
■9日目空の玄関パロ~帰国
翌朝、いよいよ帰国の日だ。
10時半にホテルを出発し、キチュ・ラカンに向かう。パロのキチュ・ラカンもジャカールのジャンパ・ラカンと同様、チベットの44代王様が悪魔退治で建てた108のお寺のうちの1つだという。
着くと、たくさんの人がお寺の周りをぐるぐるまわっている。1周するごとに石を置いて数を数える人、数珠の玉を数える人、数え方も人それぞれ。周りを何周したかを測るアプリがあれば人気が出そうだ。
ブータンのお寺を巡っていて、キチュ・ラカンとジャンパ・ラカンがいちばん人が多かった。ここには老若男女様々な人が集っていて、今も生きているお寺という印象を強く受けた。聞けば、ブータン人はお寺が古ければ古いほど、御利益があると考えていて、特にこのお寺に集っているのだという。なるほど、確かにそうかもしれない。
そういう意味で、自分が見た限り、タクツァン僧院、キチュ・ラカン、ジャンパ・ラカンがブータンの中心となるお寺なのではと感じた。もっと東のタシガンなどに行けば、別のお寺もあるかもしれない。とりあえず、自分の目で見た限りではこの3つは確実である。
ブータンのお別れとしてキチュ・ラカンの周りを3周した。1日108回まわる人もいるということだから、この36倍か。少なくとも、108回まわれば健康には良さそうだ。そういう意味でご利益があるのは確実である。
キチュ・ラカンを後にし、最後、日本人でダショー(政府高級官僚)の位を授けられた西岡京治さんの仏塔(チョルテン)に行く。ハの町へ行く途中にあるNSC (ナショナルシードセンター)内に彼のチョルテンはあった。風が強く、旗のなびく音がよく聞こえる。
念願叶ってブータンに来られたこと、西岡さんの著書『ブータン 神秘の王国』を読んでブータンのことをよく知れたこと、いろいろの感謝を込めてお参りをする。
西岡さんのチョルテン
そしていよいよ空港へ。12時前到着。ガイドさんとドライバーさんにお礼を言って別れ、13時半のフライトでブータンを離れる。
ブータン、またね!
最後まで読んで頂きありがとうございます。 槍が降ろうが隕石が降ろうが、もっとよい記事をコツコツ書いていくので、また来てくださいね。