太宰治『斜陽』を読んで
前に読んだ太宰の人間失格が、面白かった記憶があったのと、この作品も太宰の代表作の一つということで、読んでみた。
前に読んだ夏目漱石の作品は、文章が堅苦しくて、たしか途中で挫折したような記憶があるが、この作品はそれよりも大分と印象が柔らかく、すんなりと意味が入ってきた。
戦後の時代で、没落していく貴族の話だ。敗戦後の虚脱した人々の心に刺さりやすかったのか、「斜陽族」という言葉も生まれるほど、多くの人に読まれて支持されたらしい。
ストーリーはまるで理解できなかった。夏目漱石より簡潔とはいえ、やはり文豪と呼ばれる人の作品だけあって、難しかったのか、あるいは時代背景も違うので、そういうところも理解を難しくしていたのかもしれない。
ただ、時折ビビッとくるフレーズや展開なんかもあったので、それをなんとか思い出しながら、続きの文章を書いていこうと思う。
恋と革命に生きようとする若い女というのが出てきた。愛はえらいのに、恋が偉くないのは納得いかない、みたいなことをいっていた気がする。
歴史の詳しいことは知らないが、太平洋戦争というのは、日本中の人員や物資を総動員するような戦争であったらしいから、とても恋なんてものは推奨される空気感じゃなかったことは想像できる。
なんだが何を言いたいのかわからなくなってしまったが、とにかく彼女の精神には共鳴を覚えた。恋を知らずに、愛を知ろうとする、というのは、原理的には可能でも、なんだか格好悪くて不自然なものに思えるのだ。
不良とは、優しさのことなんじゃないか、みたいな文章も心に残った。
この物語では、不良を擁護しようとするような文章が何度も書かれていたような気がする。
これも、中学校の頃や、高校の頃、心の奥底で、間違いなく感じていたことのように思う。思うままに生きようとせず、自分の信念や考える動機を持たない自分と向き合い責任を取ろうとせず、ルールに守られてまともな気になっている人間というのが、本当に「マジメで優しい」人間だというふうに思えなかった。
それよりかは、自分の人生に責任を取り、今できること、わかることで、思うようにやってやろう、というような不良の精神のほうが、むしろ健全で真っ当なことのように思えた。
そんな頃のことを思い出したし、こんな偉大とされている作家が同じようなことを考えていたということに、希望を感じた。