マイクロン創成期の歴史
「Mr.SPUD」
これは日本語で「じゃがいも」を指す英語のスラングだ。
この「MR SPUD」(ミスタージャガイモ)という言葉を自分の愛車のナンバーにした男がいる。
世界初の冷凍フライドポテト企業「シンプロット」の創業者であり、「ポテト王」の異名をもつジョン・リチャード・シンプロットだ。
彼はフライドポテト用のじゃがいもを機械で選別し、乾燥させ、冷凍する方法を開拓したことでその財を築いた。
そんなポテト・チップで成り上がった男がもう一つ大量に作ることになったものがある。
メモリ・チップだ。
1978年日本がチップを高品質・低価格で販売しておりこの時新たにメモリチップメーカーを起業するには最悪の時期だった。
そんな中アイダホ州ボイシのとある歯科医院の地下でジョー・パーキンソンとウォードパーキンソンの二人の兄弟によって現在マイクロン・テクノロジーと呼ばれている企業が創設された。
このマイクロンが最初に獲得した契約はテキサス州のモステックという企業向けの64KビットDRAMチップを設計する契約だったが、他のDRAMメーカーと同様に富士通によって叩きのめされ、モステックは倒産の憂き目にあう。
そしてマイクロンはモステックとの契約を失ってしまった。
そこで次の一手として考えられたのが自社で独自のチップを製造することだったが、資金が足りない。
このとき支援を求めた相手がミスタージャガイモことアイダホ州一の大富豪ジョン・リチャード・シンプロットだった。
前述したとおり当時は日本勢がシェア拡大しておりアメリカの半導体企業はDRAM事業から続々撤退していた。
そういった状況の中でシンプロットはメモリ市場に参入する絶好の機会がきたと感じた。なぜか?
じゃがいも農家であるシンプロットは日本との競争でDRAMチップが日用品(コモディティ)になっていることを見抜いたからだ。
自己の経験から日用品メーカーを買収するベストなタイミングは価格が下がり、競合企業が清算手続きに入っている時だと知っていた。
最終的に彼はマイクロンに100万ドルの出資をし、その後も追加投資を続けた。
その後マイクロンはシリコンバレーや日本の競合企業が真似できないようなコスト削減の方法を身に着けていった。
競合企業がチップに搭載するトランジスタやコンデンサの微細化にこだわる中、彼らはチップそのものを微細化すれば1枚のシリコンウェハーに詰め込めるチップの数を増やせることに気づいた。
そして製造がはるかに効率化した。
「これは市場のなかで群を抜いて最悪の製品だ」とウォードは冗談を言った。
「だが、群を抜いて安く作れる」とも。
次に彼らは製造工程を簡素化した。
他社から購入した製造装置に改良を加えて精度を上げた。
またシリコンウェハーの加熱処理がより多くの数ができるよう炉を改良したりもした。
現場では試行錯誤を繰り返し行われた。
マイクロンの従業員たちが持つ技術・知識はとことんコスト削減に向けられた。
こういったコスト削減の努力をおこなってもなお従業員の給料カット、50%の人員削減が必要になる危機を経験した。
厳しい市場の不況を何度も生き抜いた初期の従業員は
「メモリ・チップというのは、それは残酷な、残酷な商売だ」と語った。
最終的にマイクロンは競争を生き抜き、シンプロットの100万ドルの初期投資は10億ドルに化けた。
そして現在も事業を継続し、直近の四半期決算では58.2億ドルの売上高、4.76億ドルの純利益を上げ、DRAM市場で世界シェア2割、サムスン、SKハイニックス次ぐ世界3位の企業となっている。