読書会 6/28 「姉妹のように」 クロエ・コルマン
8名の参加。
皆さんの深い読み、また、訳者の方に参加いただいたことで、より理解が深まる会となった。
自分は、この小説をパッと読むことができない。
小説の冒頭の方でそう感じ、朝昼晩と15分から20分ずつ読む、ということを3週間くらいかけて繰り返した。
体に染み込ませながら読んでいく、という読書体験。
久々にこういう体験をしたと思う。
どんなことにもスピードを求められがちな環境に身を置いている為、
むしろ逆の作業を無理矢理にでも自分に課した。
たくさんのことを一瞬で把握しようとするのではなく、
一つのテクストから如何に多様な意味を組み出すか、という、
ある意味勝負するような気合いが入った読書となった。
わからないところがたくさんあった。
それを読書会では皆さんの多様な言葉から補完させてもらうことができた。
著者が調査して分かった事実。点のような事実を埋めるようにはじまる文学的な想像の記述。
参加者の言葉を借りていうと、「お母さんの視点」で埋められていたように感じる。
子ども達を大切に思うまなざしが、違和感を与えずにスッと入ってくる。
(しかしその書き方は、不親切でもあり、最初は、「ん?今どの時代の何を語っているのか?」ということがわからなかった。)
そして抑制の取れた文章で書かれ、しかし、随所に、それの抑制のおかげで伝わってくる、怒り。
その感情はあの時代の行いに向けて行われたものだ。
小説の登場人物の姉妹たちが、あの惨事の被害者、というだけでなく、日常があり、人格があったのだ、ということを確実に残すためのテクストである。
「保護センター」とも呼ばれた当時の施設で、家族からバラバラにされた子どもたちが、残した腕時計やおもちゃ。そこに感じる子どもたちの痕跡。
そして「その作業」を積極的に手助けしてしまった、当時のフランス政府。
著者自身も行動することによって、それらの事実に気づいていく。
しかし、そこから導き出されるのは、一歩踏み出さないと、いつも通っている道の一歩裏手に踏み込まないと、
わからないという事実。
少しの行動力と想像力が試される。
今までの知らなかった自分にグロテスクさを感じ、
これまた参加者の方の言葉を借りると「正義と狂気の境目」がわからなくなってくる。
しかし、「知らない」から「わからない」へ、「わからない」から「少し知る」への道程、それがこの小説を読んだ時のモヤモヤとなり、参加者の方々は皆それを感じていた。
私も感じていたし、このモヤモヤに辛抱強く付き合うことで、日常生活の行動も変わる、という副次的効果があった。
SNSの短いテキストや動画で溜飲を下げることはなくなり、
自分で考える時間が増え、大袈裟に言えば、人生の時間が豊かになった気がした。
冒頭の方に書いたように、一瞬の出来事から如何に多様な意味を組み出すか、に振れた気がして、それはとても嬉しい。
仕事ばかりで時間を埋めては、「当時」の繰り返しを誘発してしまう気がする、という意見を主張した。「余白」が必要である、との思いを新たにした。
参加された皆さんのおかげで、自分の感じていなかった解釈を知ることができた。
会の中で、時に著者の怒りが乗り移ったようになり、涙もしそうになってしまうことがあった。
おかげで、あまりファシリテーターとしての役割はできておらず。
その点は大変申し訳なかったが、やはり、皆さん自身の読みを聞くこと自体にとても価値がある会だと感じた。
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読書会の後の夜はある意味、自分の土台を問い直された気がして上手く眠れなかった。
夜中に目が覚めてしまい、感想を「まとめる」という作業をしようとしたが、
「まとめる」という行為自体が失礼に感じられ、この文章を書く前に、一旦小説を書いてみた。
それはとても見せられるものではないのだが、自分が多様な想像力をもつために、
精一杯フルスイングするためには必要な段取りだったと感じる。
今度は自分も書いてみたい。
また、如何に自分の日常と接続するか、を考えている。
ナラティブと端的な事象の行き来を繰り返し、
「すでに多様なはずである現実」を本来の多様性を持ってみられるようになりたい。