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自己紹介と工藤のジェットコースターのような野球歴

はじめまして!
工藤です。

社会人野球のクラブチーム「嘉麻市バーニングヒーローズ」で監督をしています。

以前からtwitterやブログなどで発信をしておりましたが、より踏み込んだ内容を発信したいと思いnoteを始めました。

最初の投稿は、自分を知っていただくために、ジェットコースターのような、野球人生を書いていきます。

・野球との出会い


私が野球を始めたのは、小学校3年生の時です。
原北ウィングスという、福岡市内の強豪少年野球チームで野球を始めました。
4年生で初めて外野手としてレギュラーを取りました。

5年生の時に父の転勤で、大分県の住吉小学校に転校しました。
そこでは、ピッチャーとショートをするようになりました。
最上級生の時にはチームも強くなり、大分市内で優勝し県大会に出場しました。

・成長期


中学生になり、大分県で一番強かった「湯布院スパーズ」というボーイズリーグのチームに入りました。
先輩方は怪物ばかりで、全国でも上位に進出していました。(監督も現ソフトバンクホークスの川瀬選手のお父さんでした)
最上級生になりエースピッチャーを任されてから、急激に成長していきました。

・人生の転換期


中学校3年生の時に、福岡県の公立高校受験のため、地元福岡市の原北中学校に転校しました。
私と弟と母が福岡に戻った後も、父は大分に残っていたため、週末に大分のチームに通っていました。そして3年生の時に「鶴岡一人杯」という、各地区の選抜選手で行う全国大会のメンバーに、九州代表として選ばれました。
そこから本格的にプロ野球選手を目指し、人生が変わっていきました。福岡の公立高校に進学する予定でしたが、大分県の明豊高校に進学することになりました。


・野球漬けの日々と挫折


明豊高校に進学した後は、寮生活でした。寮生活は年中外出禁止でした。
学校とグランドと寮以外から出られるのは、年末年始と夏休みのわずかな期間だけでした。
野球の練習は、14時半に始まり、21時頃までありました。そのため、野球中心の生活になりました。

明豊高校の野球部は、A班からD班までありました。
1年生は、C班、D班に入ります。そして、体力作りをメインに行います。
何人かの選手は入ってすぐに、A班、B班に入り、紅白戦や練習試合のベンチに入ります。私も入ってすぐにA班に入り、スタートは順調だったように思います。
しかし、夏大会前の紅白戦で、プレッシャーに負けました。全くストライクが入らなくなり、試合に投げられず、ベンチ入りメンバー争いから脱落してしまいました。
2年生になってからも、試合で投げてもストライクが入らず、公式戦での登板は全くないままでした。
同級生が出番を得て行く中で取り残されていきました。
最上級生になってからも、最初の秋の大会ではベンチ入りこそしましたが、その後肘と肩を怪我して3年間一度も大きな大会に投げることなく3年間の高校野球生活を終えました。
自分の人生の、最初で、最も大きかったと言える挫折でした。

・大学進学とイップスと野球への諦め


大学は、一般入試で久留米大学に進学しました。今季は強い久留米大学ですが、私が進学したときはそこまで強くはありませんでした。入ってすぐに、捲土重来を期して頑張りました。
しかし、久留米大学でも入った当初はAチームのメンバーに入っていましたが、ここでも再びノーコン病が目覚めます。試合でストライクが入らずにBチームに落とされ、さらに新人戦では同学年のチームでもベンチ入りできずボールボーイをしていました。さらに、ノーコン病からイップスを発症し、キャッチボールどころか壁当てがまともにできなくなりました。
2年生の秋に野球を諦め、久留米大学の野球部を退部しました。

・クラブチームでの飛躍


大学3年生になり、投手ではなく、野手をやって野球人生を終えようと思いました。野球の終わり方があまりにも中途半端で、このままではダメだなと思っていました。

クラブチームを探し、たまたまホームページで練習日程が更新されていた「嘉麻市バーニングヒーローズ」に入りました。
外野手をやろうと思っていましたが、人数が少なかったため、当初の予定と違い投手をすることになりました。ただそれが結果的に運命を変えました。
ピッチャーが他に居ないため、いくらフォアボールを出しても、結果抑えれば何も言われませんでした。
あるとき12個もフォアボールを出しましたが、3失点で完投勝利したことにより、一気に自信がつきました。

入って3ヶ月後に、全日本クラブ選手権の予選がありました。
その大会で、現ホークスの「嘉弥真新也選手」がエースだった「ビッグ開発ベースボールクラブ」を完封し、九州で準優勝しました。
ここの試合で、何かを掴んだ気がします。急に球速が上がりました。この時の球速は134km/hが最速でした。そして翌月の大会では、142km/hまで球速が上がりました。

翌年の春の大会では、都市対抗に出場していた九州三菱自動車を相手に1失点で完投しました。その試合では最速149km/hまで伸びていました。
たまたまこの試合を見ていたJR九州の吉田監督からお誘いを受け、大学卒業と同時にJR九州へ移籍しました。

・日本一の強豪チームでの終止符


JR九州へ入社し、レベルの違いを肌で感じました。周りの10人の投手は雑誌に載っているドラフト候補ばかり。MAX150km/h前後を投げる選手ばかりでした。後にプロに進む選手ともプレーしました。
また、私がプレーしていた時は、公式戦の勝率が7割近くあり、全国の企業チームの中で一番高く、さらに日本代表、ブラジル代表が所属しており、都市対抗に出ることは当たり前で、全国優勝が目標のチームでした。

2年間JR九州でプレーしましたが、ほとんど公式戦では出番がありませんでした。フォームを崩したり、怪我をしたりしましたが、自分としてはここが力の限界だったなと思いました。競争に敗れたので仕方がないと思いました。

※JRでの体験は、また詳しく書こうと思います。

・駅員と車掌での勤務と、クラブチームへの監督復帰

引退後は、北九州市の黒崎駅で3年半駅員として働きました。改札の係員やみどりの窓口で切符販売をしました。その後長崎に転勤し、特急かもめなどの車掌を1年間しました。
結婚もして、子供も生まれ、仕事も順調でした。
そして長崎で働いているときに、前監督の石橋さんから監督として戻ってこないかとお誘いを頂き、JRを辞めてワークポートという人材紹介会社に転職し、嘉麻市バーニングヒーローズに戻り監督をすることになりました。

※なぜ会社を辞めてまで、戻ることになったかは、かなり長くなるので、別で書きたいと思います。

・嘉麻市バーニングヒーローズ監督就任から現在


嘉麻市バーニングヒーローズはクラブチームなので、営業職として普通に働きながら監督をすることになりました。

1年目は、とにかく大変でした。
全日本クラブ選手権の予選では、九州予選でベスト4まで進みましたが、安定感はありませんでした。
大会後の練習試合では、9人ギリギリの人数で福岡教育大と試合をして、0-28で破れるという悲惨な状態でした。
そこから、人を集めなければクラブチームは安定しないと考えて、スカウト活動に力を入れました。
1人でも多く入ってくるように、試合を多く組み、練習環境を改善しました。

現在4年目ですが、人数は練習生も含めて52人おり、かなり大規模なクラブチームになりました。
大学の主力選手や、元々企業チームでプレーしていた選手も増え、現在は、大学のAチームに勝てるようになってきました。しかし、まだまだ企業チームには勝てないです。
これから、企業チームの壁を破っていき、日本一強いクラブチームになることを目指しています。

・最後に

長い文章になりましたが、私の野球の経歴を紹介させて頂きました。
野球界、社会人野球界、クラブチームのことについて、積極的に発信していきたいと思います。

次回は、なぜクラブチームで監督をやることになったのか、書いて行きたいと思います。

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