月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして
「日本文化における時間と空間」という本を読んでいたら、在原業平の歌に出会いとても美しかったので、ついnoteにしてしまいました。
ウェブでは以下のような現代訳にしています。
両者とも「もはや同じ月(春)ではない」となっていますが、ただ実際には薄っすらと同じ月かもしれないと感じる心があったり、過去を思い出すことで同じ月に見える(そして春を感じる)瞬間があり、昔の月や春の面影を感じていると思います。
そして、その面影があるからこそ「あゝでも、もはや同じ月ではないし、同じ春でもない」という寂しい心が強くなっている気がします。
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