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その手を、繋げますか?

 ねぇ手、繋いでみてよ。

 最後に聞いた彼女の声は、ぼくの耳の奥にこびりつき、今も離れずにいる。

 終わった夏を惜しむかのような残暑にうんざりしながら学校を出ようとするぼくを呼び止めほほ笑む彼女は、あの時からその未来を想像していたのだろうか。真意は彼女自身にしか分からず、それを聞くことはもう誰にも叶わない。

「海に、行かない?」

 ぼくたちの通っていた高校の近くには寂れた雰囲気の、夏の花火大会の時期にしか人の集まらない海水浴場があり、時季外れの誘いに戸惑いながらも、彼女の言葉に引きずられるようにして、ぼくたちは人の姿がまばらな夜の砂浜で、秋らしくないまだ残る暑さに身を浸していた。

「なんで、急に……」
「嫌だった?」
 と、かすかなほほ笑みを顔に貼り付ける彼女を見ながら、ぼくはそれが剥がれた先にある表情が気になって仕方なかった。それが怒りなのか悲しみなのか……すくなくともほほ笑みから想起できるような感情ではないと確信していた。

 彼女に誘われた時から、ある予感は抱いていた。伝えたいけれど、直接それを伝える勇気が出ないまま、過ぎていく時間にぼくは焦りを感じ始めていた。表情からぼくの内心を察したのか、彼女がくすり、と笑った。

「本当、分かりやすいよね……勘違いしてそうだから言っておくけど、彼のことは関係ないよ。でも昨日、別れたの。明日、誕生日だから、今日までにはすべてを終わらせておきたかったんだ。ねぇ、あなたと初めて会った時のこと覚えてる?」

「あんまり覚えてないけど、あいつと三人で話したのは覚えてる」

 嘘だった。その記憶は鮮明に残っている。彼とは中学の頃から同じ部活で苦楽を共にしていて、進学した高校も同じだったので、あまり使いたくない言葉ではあるけれど、親友という言葉を使ってもお互いに否定しないだろう関係だった。

「……覚えてるくせに」

 ぼそりとつぶやく彼女の見透かすような言葉に、思わず、どきり、とした。

「多少は……まぁ」

「はぁ」とちいさく溜息を吐いて、「まぁいいか。私、死のうと思ってるの……って言ったら、どうする?」

「十八だから?」

「ほら、やっぱり覚えてる。私とあなたが意気投合して、彼だけが首を傾げてた。あの話――」

 十八歳までに見える世界こそがすべてで、それ以降は惰性でしかない。そんなやりとりで意気投合するぼくたちに対して、彼だけは不思議そうな、そしてやがて不満そうな表情を浮かべていた。

 こういう感覚の似通い方があったからこそ、彼が不在の時でも、ぼくと彼女の間に交流する機会ができたのだろう。

 それでも彼女の恋人は、彼だ。

「本気?」
「冗談だよ」

 ゆるやかで暖かかったはずの夜風に、強さと冷たさが混じり、背すじの震えにつられて、肩がすこし上がった。「本当に?」
「もうすこし先にある光景も見てみたいし、ね」

「あいつにも同じこと言った?」
「なんで? 言わないよ。あなた、だから言ったの」

 何故、彼女は恋人だった彼ではなく、ぼくにそんなことを言ったのか。浅ましくも胸の内にかすかな優越感を広げていたぼくは、先を見ることをやめた彼女よりもずっと、先にある光景を見ようとしていなかったのだ。もっと後になって、ぼくはそのことにようやく気付く。

 周囲にひとの姿はほとんどなくなっていた。

 ぼくは逸らすことのない彼女の目に耐え切れず、視線を下へと向ける。一本の尽きた線香花火の残骸が棄てられている。

「あいつ、なんて言ってた?」
「泣いてた。これは馬鹿にしてるわけでもなんでもなく、本当に羨ましいな、って思う。私は誰かに感情を寄り添わせて泣く、なんて、絶対にできないから。私やあなたと違って、他者を慮ることのできる優しさがあって、それはどこまでも尊い。今でも間違いなく、好き。この感情は変わらない」

 感覚に噛み合わない部分がどれだけあろうとも、彼女が感情を深められる相手はいつまでも彼で、ぼくではありえないのだ。そしていつまでもぼくは、ただの同類なのだ。どれだけ彼女との間で、感覚を共有しようとも。

「だから、あなたを選んだ」
「どういう意味だよ」
「……分かってるくせに」彼女が、ぼくに向けて手を差し出した。「ねぇ一緒に行こうよ」

 ねぇ手、繋いでみてよ。

「嫌だ」
「そっか」と彼女は笑いながら溜息を吐いた。「嘘吐き。まぁでも……うん。そのほうがいいよ。そのほうが」

「ごめん」
「止めないんだ」
「止められたい?」
「止めたら、草葉の陰で呪い続けてやる」

 彼女が近寄り、顔の上半分をぼくの肩にぴたりと付けた。「理由は聞かないよ」

「うん」とその声はすこし掠れていた。

 地面に落ちていた線香花火は彼女に踏まれ覆われてしまったのか、ぼくの目にはもう映らない。

 顔を離した彼女が、「ごめん」と言った。「すこし濡れちゃったね」

「いいよ。別に」
「ねえ。本当にいいの。最後にもう一回聞くよ」

 そう言って彼女はもう一度、ぼくから距離を取り、その手を差し出した。

 ねぇ手、繋いでみてよ。

 ぼくを誘う気のないその手には、握り拳が作られていた。

                           (了)



(エッセイ風フィクション関連の近作)

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