それは幽かな
初夏の午後、青年はひとりお墓の前にいました。
菊の花を添え、水を掛け、眼をつむり、手を合わせていました。青年は携えていた鞄から一冊の本を取り出しました。本の表紙には青年の名前が書かれていました。
「完成したら、読ませてね」
冒頭の一ページを破り、鞄に戻しました。青年はその本を墓前に置き、墓石へと向けていた靴先の方角を墓地のそばにある小学校へと変え、そして一歩、踏み出しました。
小学校の三階の窓辺りから声が聴こえてきました。青年のいる場所からでは誰の顔も見えませんが、重なる歌声は『翼をください』の合唱でした。綺麗に揃っていない合唱は青年のもとに耳障りな音として届きましたが、青年の目じりからほおを伝ってしずくが一滴また一滴と舗装されたコンクリートの上に落ちていきました。
歌に混じって、かすかに声が聴こえました。
「ありがとう……」
青年が振り向いてお墓を見返すと、供えた菊の花が風で揺られているだけでした。
鞄から破り取った一枚の紙を取り出すと、折り、紙飛行機を作って上空へと放り投げました。
その紙には一文、『今はもういない、誰よりも愛していた妻へ捧ぐ』と印字されていました。
(了)
※
の参加作品になりますが、サポートは閉じているので、ただの参加のみとなります。
そして、
ムラサキさんの主催されているアンソロジー「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー」にも参加させていただきたいな、と思っている作品です。テーマは「幽霊」。どうぞお収めください。