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僕が見た怪物たち1997-2018 第五話「人間へ、2018」まとめ読み版(約10500字)


 この村について調べてる?

 そうだったんですか。めずらしい方ですね。えぇ、っと……。俺が名乗った時に、あなたの名前も一緒に聞いておけば良かったですね。

 コウさん、というんですね。ペンネームみたいなものでしょうか。もしかして俺、むかし、コウさんと面識があったりしますか。いえなんか見覚えがあるな、って。あと、ほら、さっき俺が、大木、って名乗った時、ちょっとあなたの反応が不思議だったんで。コウさんも、もしかしたらここに住んでいたことがあったんじゃないか、って思ったんです。

 知り合いに似てた?

 ……そうですか。

 ここね。俺の小学校の時の同級生が経営している喫茶店なんですけど、村で一番人気のお店なんですよ。って言っても、他に喫茶店がないだけの話なんですが。あちゃ、あいつに聞かれちゃったな。睨んでる睨んでる。怒るなよ、悪い悪い。まったく……。あぁすみません、彼とは子どもの頃から仲が良くて。まぁでも味は本当に良いですよ。お薦めです。

 でも、びっくりしましたよ。誰も住んでいない家をずっと眺めているひとがいるから危ないって注意するだけのつもりだったのに。いきなり、この辺りの過去について知りたい、なんて言い出すから。ライターをしている、っていうのも嘘じゃないか、実はちょっと疑ってたんですけど、まぁでも俺にそんな嘘をついても、なんも得がありませんからね。信じますよ。現地取材みたいなものでしょうか。こんな面白みのない村に、そんな取材対象になるものがあるとしたら、さっきの家族のことでしょうか。……そうですよね。村ではあの頃、騒ぎになりましたからね。

 あっ、おい、どっか行くのか。

 買い出し? いや、客がいる時に行くなよ。お前なら別にいいかな、って……。俺だけなら、いいけど、きょうはコウさんも……あぁ、まぁいいか。誰かが来たら待っててもらうから、早く帰って来いよ。

 ……行っちゃいましたね。自分勝手な性格なんです、むかしから。

 でも、好都合かもしれません。あの家のことは、あまり聞きたくないでしょうし、特に俺たちはあそこの息子さんとクラスメートでしたから。

 コウさんは、都市伝説ライターみたいな感じのひとなんですか、いえ実は俺、最近開設された「現代の都市伝説を追え」って結構話題になっているブログが好きで、実はああいう話に目がないんです。意外でしょ。いや……初めて会ったひとにそんなこと言われても困りますよね。よく見た目に反して、意外だ、なんて言われるんです。

 でもあの家族のこと、俺はあんまり知らないんです。

 さっきも言ったように詐欺で負った借金を苦に夫婦が自殺した、っていうくらいしか。

 会ったことですか?

 その夫婦と会ったことはたぶんありません。たぶん、というのは、こんな狭いコミュニティですし、それに同級生のご両親ですからね、見たことぐらいはあるはずなんですが、全然覚えてなくて……。

 息子さん、ですか……?

 うーん……、俺とその子の関係って、ちょっと複雑で、なんと言えばいいのか困ってしまうところもあるんですが……、実は俺、彼から小学校の低学年の頃、いじめを受けていた、って言われてるんです。

 煮え切らない言い方になってしまって、すみません……どう説明しようかな……。確かに俺が、その子からちょっと嫌なことをされていたのは事実なんです。……で、まぁ俺、不登校だった時期があって、その一番の原因が彼だ、ってクラスメートのみんなは思っていて、それは間違いではないんですけど、すこしだけ事情が違う、というか……。

 俺の母親なんですけど、ちょっと異様なほど過保護なところがあるんです。子ども同士の喧嘩の延長線上にある、と俺自身は思っていたものに口を挟んできた母が、俺と彼の関係を複雑にしてしまって。その子の家に怒鳴り込んでいって、お前の息子が自分の息子をいじめた、って感じでね。周囲には悪評をばらまいて、俺や親父がなだめても聞いてくれなくて。最初は俺のためにやってくれていたんだとは思うんですけど、途中からは俺なんかどうでもよくて、自分のためだけにやっていましたね、あれは。

 あの子、クラスでも、いつもすごく怯えたようになって、加害者意識が強くなっていくのが見ていて分かりました。

 気にしなくていい、と言いたかったんですけど、俺も俺で自分のことでいっぱいいっぱいだった、というか。……ある日から俺、学校に行けなくなっちゃって……、母親から学校に行くな、って閉じ込められるようになって。

 こんな話、母親が死んだいまだからできるんですけどね。

 どうしたんですか?

 顔色が悪いですけど。嫌な話を聞かせちゃったせいですね。すみません……。

 本当に、大丈夫ですか?

 話の続き……? え、えぇ……、では続けますね。

 その子なんですけどね。行方不明になったのは、俺が学校に行けてなかった時期です。さっきも話しましたけど、あの頃、村に不審者のおじさんが出る、っていう噂があって、誘拐されたんじゃないか、と学校とかだけじゃなくて、村全体がちょっとした騒動になっていたので、俺の耳にもしっかりと入ってきました。もしかしたら家出の可能性だってありますが、小学生にできる家出なんてたかがしれている。

 だからおそらく誘拐されてしまったんじゃないか、と……。

 卒業アルバムの集合写真にはその子以外が全員そろっていて、彼だけが欠席者扱いになっていて、それを見るたびに、その行方不明と俺は関係ないはずなのに罪悪感で苦しくなる……あ、いえ、すみません。こんな話を聞かされても、困りますよね。いままで誰にも話してこなかったのに……、なんでだろう、コウさんの顔を見ていると……。

 欠席者、ですか?

 いなかったのは彼だけですよ。他は全員そろっていました。俺も六年生の時には学校に復帰できていましたし、だからあの子さえいれば、六年間、最初から変わらない同じ面子がひとりも欠けることなく、そろうはずだったんですが……。



 大木くんと話し終え、喫茶店から出ると、買い出しから帰ってきたマスターがいて、すれ違いざまに会釈を交わす。大木くんに聞かされて彼が同級生だ、と確信したが、その前から見覚えのある顔に懐かしさは感じていた。

「お代は、さきほど彼にお渡ししました」

「ありがとうございます。またぜひ、お越しください」

 穏やかな笑みを浮かべたマスターは、僕の正体に気付いているだろうか。いや気付いているわけがない。もしかしたら僕と同じように、見覚えがあるくらいには思っているかもしれないが、自信を持って僕の本名を指摘したりは無理だろう。同級生だった、ということさえ、彼のほうは知らないのだから。

 大木くんにも喫茶店のマスターにも、自分の本当の名を明かすつもりはない。この村に、僕の本名を聞いて得する人間はひとりもいない、と知っているからだ。わざわざ迷惑を掛けるために、僕はこの場所を訪れたわけではない。

 大木くんとの話は思ったよりも長くなってしまったが、僕にとって重要な話を色々と聞くことができた。

 かつて通った母校、栗殻小学校はその喫茶店からとても近い場所にあり、僕はそこまで歩くことにした。久し振りに栗殻村を訪れた目的の中に、学校へ行くことは織り込まれていない。それでも懐かしい気持ちとともに、あの頃の僕が憎むしかできなかった学び舎をもう一度、網膜に焼き付けたい、と思ったのだ。

 栗殻小学校は僕の通っていた当時から、生徒数はすくなかったが、いまはその半分よりもさらにすくない、全校生徒三十人程度の規模になってしまっているそうだ。少年時代に、僕が通学路にしていた道のりに沿って歩く。十年経てば、多くの光景はほとんど形を変えてしまうが、この村はあまり変わらない。良くも悪くも昔のままだ。でもどれだけ似ていても、あの頃とまったく同じなんてことはなく、どこを歩いても、初めての場所にいるかのように違和感だらけで、だけど学校との距離が縮まっていくうちに、その引っ掛かりは減っていく。似ている。だけど違う。それでもあの時と変わらぬ同じ場所に僕はいる。なんとも不思議な感覚だ。まるで時間を戻すように、遠い未来から幼い自身を見つけるように。

 僕は校門の前に立ち、ひとつ息を吐く。疲れか不安か、感慨なのか、その息に混じる感情は自分でもよく分からない。

 僕の背があの頃よりも高くなったからだろうか。それとも色々な世界を見知ったからだろうか。そこにいた時は僕の世界のほぼすべてにさえ感じられた巨大な檻は、もうどこにでもある公共の建物でしかなかった。

 僕はその建物に背を向けて、また歩き出す。

 向かったのは、公園だ。僕を人間から怪物に変えた、というあのトイレはもう撤去されて、そこには残っていない。

 僕はベンチに座ってスマホを取り出す。呼ぶ相手は決まっている。先生も、もうこっちに着いている頃だろう。あとは僕がここにいることを伝えるだけ――。

 ……いや、その必要はなかったみたいだ。

「先生……」

「まったく、いきなり音信不通になった、と思ったら、今度は栗殻村まで来て欲しいなんて、ね」

 栗殻村にいます。会えませんか。僕が言ったのは、それだけだ。

 公園の反対側から歩いてくる先生は、僕がここに来ると確信して待ち構えていたのだろうか。だとしたら本当に……、なんて鋭さだ。

「よく分かりましたね。僕がここにいる、って。先回りでもしてたんですか?」

「さぁね。……まぁそもそもあなたが、栗殻村で用のある場所なんて、そんなにいくつもないでしょ」

「先生と、ずっと話したい、と思ってたんです」

「いままで色々とふたりで話してきたじゃない。なに、変なことを言ってるの?」

「そういう話ではなくて……。いや、分かって言ってますよね。あの日の話ですよ。先生の気持ちは分かりませんが、僕はその話をずっと避け続けてきました。僕は知りたい。あの日のことを。それがどんなものであろうとも、真実と向き合う、その覚悟を決めるために、ここを選んだんです」

「あの日、ねぇ。あなたが怪物になった日?」

「いえ……違います。僕が怪物になった、と先生が僕に嘘をついた日のことですよ」

「不思議なことを言うのね」

「自信はなかったんです。だからきちんと先生と話して確かめよう、と思っていたんです。でも切り出せないまま時間だけが過ぎていく。……実はついさっき本当に偶然なんですけど、確信しました。先生の言葉を通してではなく、こんな形で確信してしまうなんて思ってもいませんでしたよ……。やっぱり……、あの日……、僕は誰も殺していなかったんですね」

「なんで、そう思うの?」

「さっき僕が誰と会ったと思いますか?」

「さぁ? 誰かしら」

「岩肩くんですよ。彼、いまは喫茶店のマスターをしているんですね」

 先生が本心から驚いた顔を、僕は人生で初めて見た気がする。



 僕たち以外は誰もいない公園のベンチに、ふたり並んで座る。以前はよく姉弟に間違われることも多かったが、いまでも僕たちふたりはそう見えるだろうか。先生は変わらず年齢よりもずっと若い外見をしているが、さすがにそれはもう難しいかもしれない。年齢の近い親子くらいが限界だろう。

 親子か……。

 実際、僕は先生と、母親よりも倍近い年月を一緒に過ごしてきた。

「まったく……、その運、というか、タイミングの良さは、ずっと私と一緒にいたせいかしら。まさかあなたが彼と私の知らないところで顔を合わせるなんて思ってなかった」

「それは認める、ということですか? 岩肩くんが死んでいない、と」

「だってもう会っちゃったんだから、それとも否定して欲しい? 否定したところで、また文句を言うわけでしょ」

「まぁ、そうですけど……」

「それで? どうしたいの、あなたは? 縁を切る、私と」

 縁を切る、という言い回しが先生らしい。別に先生は無理に僕を引き止めたりはしないだろう。実際、失踪するように彼女のもとから姿を消した時も、僕を探す気配さえなかったのだから。

「まだ何も決めていません。……すこし話しませんか? あの時のことを」

「いまさら知ったところで、過去は戻ってこないのよ」

「過去を知ることで、未来が変わるかもしれませんよ。僕のこれからの未来のために、すこしだけ付き合ってくれませんか? 二十年も一緒にいたんですから、このくらいのわがままは許してください。長年の疑問や、違和感の正体を解決したいんです」

 冗談なのか本気なのか判断の付かない、いつも通りの口調だったが、かすかに不安が混じるような、普段では絶対見せない表情をしていた。

「あなたが来て四年目か五年目くらいのことだったかな。覚えてる? 探偵になりたい、って思ったことはないけど、探偵助手になる可能性はあるかも、なんて、あなた、その時の事件の詳しい内容を知りたがっていたよね」

「よく覚えてますね」

 と言いながら、僕も自分自身のその言葉を、先生とのやり取りを、しっかりと覚えている。それは先生と違って、記憶力が良いからではなく、あれが僕にとって特別な事件だったからだ。

「生意気に育ったなぁ、って、憎々しく思ったから、余計に、ね」

 と先生がほほ笑む。

「まぁ探偵助手を務める機会なんてひとつもありませんでしたが、大体、先生は助手がいなくても、大抵自分ひとりで解決してしまいますから」

 だからこそ……、なんで僕なんかを助手にしたんだろう、という疑問はつねに僕の心に纏わり続けていた。

「探偵助手じゃなくて、いまはあなたが探偵よ。疑問も違和感の正体も、完璧じゃないにしても、あなたなりの謎解きは終わってるんでしょ。それを私にぶつけてみなさい」

「僕はある時期からずっと考えていました。なんで、先生……あなたは僕をこの村から連れ出して、僕をそばに置き続けたのか、と」

「私は強制したつもりはないけれど? 別にあの時だって、あなたは断ることができた。もし、あなたが逃げ出していたとしても、私は追わなかったよ。今回が良い例じゃない。実際に、私はあなたを探さなかった」

「そういう問題じゃないんです。僕が言いたいのは、なんで一緒にいる、なんて、そんな提案を私にしてくれたのか、ってことなんです」

「あの日、言ったはずよ。哀れな怪物を助けてあげたくなった。それだけよ」

「……えぇ。確かにあの時、先生はそう言ってくれました。本当なんだろうか……僕にはずっと疑問でした。だって僕はあなたのそばで、色々な怪物となった人間たちを見てきました。だけど先生は僕以外、誰にも手を差し伸べなかった。僕と同じように怪物に……いや、僕は正確には怪物ではなかったわけだけど、あの頃はそうだと思っていた、っていう意味ですよ……、彼らをあんなふうにしておいて、あなたは僕以外の怪物に手を差し伸べようとはしなかった。例えばさっきも話に出た、双子の妹の霊が姉に憑いた事件。よく考えれば、最初に違和感を抱いたのは、あの時のような気がします。あれも先生なんですよね? 双子の妹……渚さんを殺した三人の女性たちの憎しみが、渚さんに直接向かうように背中を押したのは?」

「さぁ、なんのことかしら」

「素直に頷いてくれる、とは思っていませんよ。……だから、次に行きます。他にも色々な出来事があります。でも……印象的な事件、というと、先生をずっと見下していたあのストーカーの霊に苦しめられていた女性の話でしょうか。結局あの夜、窓から飛び降りて自殺……いえ、ストーカーの幽霊に地獄へと追いやられた、と言ったほうが正しいのでしょうか? あの女性が大学時代にストーカーを殺したのもあなたと会った後、ですよね。もしもまたそのストーカーが接触してきたら反撃するのよ、なんて言って、彼女の倫理観を緩めていく、そんなカウンセリングルームのあなたが簡単に頭に描けるのです。もともと彼女は被害者だから、正直に話したら助けてあげよう、って確か僕に言ってましたけど、彼女がああいう性格だと知っていたからこそ、依頼を受けたんですよね。最初から、この結末になる、と想像していながら、あなたは……」

「それだけ想像力の強さがあるのなら、小説でも書いたら?」

「志賀さん、という大きな才能を間近で見てしまうと、冗談でもそんなこと言えなくなります。……そう、そして最後は志賀さんのことです。あれは露骨でしたね。あんなに露骨に光希さんに志賀さんの著作を薦めて……。あなたなら、どうなるか分かっていたはずです。そして、本だけじゃなくて、さらにもう一押しあったんじゃないか、と思っています。僕と一緒に光希さんに会いに行った日、帰り際に、忘れ物した、って言って、彼女の部屋に戻りましたよね。あれ、本当ですか? あの時が一番怪しい、と僕は踏んでいます。あのあと、怪物の話が急に出て来たりもしましたし……」

「前置きの長い男は嫌われるよ。結局、何が言いたいの?」

「なんで怪物の本性を暴き立ててきた……これは、あなたの言葉を借りただけで、僕は人間の本性が怪物だなんて思っていないですよ……、暴き立てつつも、容赦なく見捨ててきたあなたが僕という例外を作ったのか。僕は知りたかった。だから……ごめんなさい。一度こっそりあなたの部屋に忍び込んだことがあります」

「知ってる」

「そうだと思っていました。だったら僕が何を見たかも、もう知っていますよね。息子さんの写真。僕と同じ名前のコウさんは、あんな顔をしていたんですね」

「かわいいでしょ」

「……すごく似ていますね?」

「誰に?」

「もちろん……、岩肩くんに、ですよ。怪物とか、そんなことよりもずっと、そっちのほうが大事だったんじゃないですか。もともと狙いは岩肩くんひとり、それ以外はどうでもよかった。違いますか?」先生は、何も答えない。「ここからは僕ひとりで考えてもまったく分からなくて、あなたの口から聞きたいことです。なんで、岩肩くんが目的で、そして彼が死んでいなかったのに、僕を選んだんですか? ……岩肩くんが死んでいたなら分かる。僕がコウさんの代替品の予定だった岩肩くんの、そのさらに代替品だ、と考えればいいだけ――」

「違う。他の誰でもない。私は、あなたを、選んだのよ」

 強めに放たれた言葉が、僕の言葉をさえぎる。

 思いのほか、先生は真剣な表情を浮かべていた。



 気付けばもう、夕暮れが辺りを茜色に染めていた。

「最初は確かに岩肩くんを連れて行く気だった。理由は……、あなたの言う通りよ。初めて見た時は、あまりに似過ぎていて自分の頭を疑ったくらい。あんなに、コウ、に似ている子がいるなんて、ね」

 この、コウ、は僕を指しているわけではないことは知っていても、すこし寂しい気持ちになってしまう。二十年以上も、僕は彼女のそばでコウとして過ごしてしまったのだから、どうしてもこういう感情にはなる。

「写真越しにしか知りませんが、本当に似ていました……」

「似ているけれど、彼は違った。それだけのことよ」

「それは彼が、僕に殺され……かけたからですか?」

 殺すような気持ちで彼の頭を洗面台の鏡に叩きつけたから、岩肩くんは死んでいるに決まっている。ずっとそう思い込んできた。もしかしたらあの時から、岩肩くんはまだ生きているのでは、と僕は心のどこかで疑っていたのかもしれない。生きているのでは……、でも死んでいて欲しい、と復讐されることへの恐怖や罪の意識による心理的圧迫に耐えられずに、僕は都合よく自信の記憶を書き換えていた可能性もある。いまとなっては分からない話だ。

「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」先生の言い方は曖昧で、だけどその口ぶりは自分自身でも答えが分からずに戸惑っているわけではなく、僕にはその理由を教えたくない、というふうに見えた。追及しても絶対に教えてはくれないだろう。経験から知っている。「……初めてあの子を見た時、コウの生きているもうひとつの未来に迷い込んだ気分になったのを覚えてる。あの時の私にとって、あの時の彼はコウだったの。だから、……もうひとりのコウが叶わなかった姿にしてあげよう、って思ったんだけどね」

「叶わなかった、って……」

「現実としか思えない夢を見たことある?」

「ありますよ。特にあなたと出会ってから、何度も」

 例えば渚さんの一件が終わった時、僕は真実としか思えない夢に苛まれ、それから数日間、高熱に苦しむことになった。

「まぁ、私といれば、嫌でもそうなるか……。私も、ね。何度も見るの。間違いなく、あなたよりもずっと多い頻度で、たぶん何十倍も明瞭な夢。私は子どもの頃からそうだった。過去の知らない事実だけじゃなくて、未来の夢を見ることも多かった。普通に見る夢とは明らかに違っていて、ある時期から気付くようになったの。未知の真実を見通す力だって。都合よく見たいものだけを見れるのならいいんだけど、ね……」

「何を見たんですか?」

「こんな私でも、ひとを好きになったことがあってね。結婚して妻になって、出産して母親になった時代があるの。想像もできないでしょうけど、ね。あの頃はちょっと不思議な力は持っている、って言っても、別にいまみたいな仕事は何もしていなかったから、ただのひと、と変わらない生活を送ってた」

「意外です……」

 ただのひと、という言葉がこれほど似合わないひともめずらしい。

「当然よね。そう……当然のことよね。もし意外に思わなかった、としたら、いままであなたは私の何を見てきたんだ、って思うくらいよ」ふふっ、と先生がちいさく笑う。「……ささやかだけど、ね。この穏やかな日常は続いていくはずだ、って思ってた。ううん。違う。続いてくれ、って願ってた。その日常が壊れる夢は、まだ見てなかったから。……でも、そういう願いは得てして叶わないものよ。あの日見た夢が、私のすべてを壊してしまった」

「夢……」

「目の前にいる幼い子どもは、いつか凶悪殺人鬼になる。怪物……大きくなった息子に、私は怪物を見たの……。そんな未来を知った時、あなたなら、どうする? 育てる? 生かす? 殺す? よくある思考実験の一種みたいな話だけど、あの時の私にとっては早急に答えを出さなければいけない現実問題だった」

「それで……」

「答えはもう分かってるでしょ。まるでミイラ取りがミイラになるみたいに、私は怪物になって、そして独りになった。あなたと出会うすこし前の話よ。私が、生まれながらに持っていた様々な力を色々な人間に使うようになったのも、その頃から。私はもう人間じゃないんだから、人間的な倫理観に囚われる必要もないかな、って」

 そして先生は、怪物、に囚われるようになり、僕と出会ったわけだ。これで僕がコウさんと似ていれば運命的と言えるかもしれないが、その役目を担ったのは、僕ではなく岩肩くんだった。

「はっきり言う。最初、あなたは生贄でしかなかった」

「なんで僕だったんですか?」

「福井に来たのは、仕事よ。セミナーを開くから講師をしてほしい、って頼まれてね。そこであなたのお母さんと会ったの。あなたのお母さんは私でも驚くくらい私に妄信的になっちゃって、結構強引に栗殻村に連れて来られたのよ。その家の息子としてあなたがいた。岩肩くんを欲しい、と思ったのは、そのあとのこと。岩肩くん……彼を見て、怪物になった私と彼なら、人間の時とは違ってうまくいくかもしれない。あの子が欲しい……その彼の標的として都合が良かったのが、あなた。それだけ」

「でも結局あなたは、死なずに生きていた彼を選ばなかった……」

「怪物になれなかったし、それに彼は見た目だけはコウに似ているけれど、本質的には全然違う。トイレで倒れている彼を見た時、そう思ったの。放っておけば死んでもおかしくない状態だったから、いっそ殺してあげようかな、と思ったけれど、ね。変な情でもわいたのかしら。ほら、怪物の目にも涙、って言うでしょ」

「鬼、ですよね……」

「まぁどっちでも意味は変わらない。あなたを車に乗せた時、トランクには彼が入っていたのよ。わざわざあなたにばれないように、一度あなたを連れ出してから、もう一度、ここに戻ってきて、彼を彼の家の近くに置いてきたんだから。変質者が誘拐した子どもを解放したふうを装って、手紙まで書いたのよ。……もう疲れてきた。このくらいでいいでしょ。まだ話すこと、ある?」

 先生が大きく伸びをする。

「……いや、だから僕を選んだ理由は……」

「さあね。私は否定も肯定もしないであげるから、答えは自分で勝手に決めていいよ。……さて、私がめずらしくここまで話してあげたんだから、次はあなたの番」

「僕……ですか? 何も隠し事なんて」

「あなたが私に隠し事なんてできないでしょ。もっと簡単な、私からの質問よ」

「質問……」

「人間だ、と知ったあなたは、これからどうするの?」

 そう僕がこの村をふたたび訪れたのは訣別のためだ。でも先生の話を聞きながら、僕の気持ちは揺らいでいた。

 ……僕はこのひとを失って、いまさら人間としてひとりで歩いていけるのだろうか。さっき先生は否定したが、やっぱり簡単には信じられない。先生にとって僕はただの代用品に過ぎないのかもしれないが、僕にとって先生は代わりのない特別な存在で、本音を言うなら、先生にとっての僕も特別な存在であって欲しかった。こんなにも一緒に過ごしてきたのだから。そんなふうに思ってしまう僕のほうが勝手なのだろうか。

 不安、恐怖、寂しさ。それらの感情はためらいに繋がっていく。

 でも……。

「僕は先生とは一緒に行けません」

「そう。じゃあせっかくだから最後に私の名前を呼んでみてよ。もう私たちの関係は、先生と助手の関係じゃなくなったんだから、いいでしょ?」

 僕は彼女の名前を呼んだ。

 その名前を実際に口にするのは、初めてだ。彼女の耳にかすかに聞き取れるくらいのちいさな声になってしまった。僕に顔を近づけ、ありがとう、と彼女がはじめて僕の本当の名前を呼び、ほおに口を付ける。

 さ、よ、な、ら。

 驚く僕に背を向けた彼女の背中は、すこしずつ遠ざかっていく――。

 彼女とは別の方向を行くことにした。

 その先には、怪物だ、と思い込んでいた頃のほうがましだと思うほどの苦しみが待っているかもしれない。でも、まだ僕は怪物じゃない。

 人間へ向かって歩いていく、と決めたのだから。


第五話「人間へ、2018」まとめ読み版(終)



〈今後の投稿スケジュール〉

 3/29(本日)18時 最終話「エピローグ、あるいは、もうひとつのプロローグ」投稿予定

 3/30 プロローグ、第一話~第五話、エピローグのすべてをまとめた「僕が見た怪物たち1997-2018(完全版)」投稿予定