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ショートショートに花束を 6巻

〈前書き〉

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 ショートショートや掌編小説、短編小説。そう言った創作物が溜まってくると、こっそりショートショート集を編んでいるのですが、ついに6巻まで来てしまいました。短いんだからたくさん作れるだろう、と思うひともいるかもしれないですが、私は書くのがそんなに早いほうではないので、いつもいっぱいいっぱいです。タイトルの説明は、いつも通りになりますが、阿刀田高の『ショートショートの花束』にちなんで、「ショートショートに花束を」。目次もあるので、気になったものを選んでいただければ。

 好きな作品などあれば、教えていただけると、すごい嬉しいです。

 今までは後書きを加えていましたが、今回からは作品のみの掲載にします。面倒くさいからじゃないよ……自分の作品の説明が苦手なことに気付いたからです(笑)

 今回は割と郷愁を喚起するような雰囲気の作品を集めました。

「うしなわれた春の物語」


 地元の女子大を卒業し、そのまま地元に残って食品メーカーに就職したばかりのきみに、重大任務として上司から突然与えられた仕事が、重役と取引先の人たち中心で行われる毎年恒例の花見の場所取りだった。指定されたのはきみの自宅近くにある川沿いの公園で、そこは何度も訪れたことのある、懐かしい記憶を刺激される場所でもあった。すこしずつ辺りは暗くなりはじめ、ぽつぽつと周囲に人の姿は見受けられるが、きみの知っているひとはまだ誰も来ない。

 頭上を覆う夜桜を見上げながら、ひとりつぶやく。
「なんでこんな時期に、ここに来ることになるかなぁ……」
 そんな独り言に耳をそばだてる者はいない。
 ここに来るときみは、いつもあの日のことを思い出してしまう。

 周囲が賑わいだした頃、ようやくきみの会社のひとたちがきみの待つブルーシートに集まりだした。

 場所取りだけでお役御免と聞いていたきみだったが、その場から離れようとした際、「なぜ、帰るんだね?」と社長から引き留められてしまい、一緒に参加することになってしまった。社長は優しさで言ってくれたのだろうけれど、偉い人たちばかりの中でひとり新入社員が混じるという状況は、ただただ居心地が悪く、きみは早くこの時間が終わることだけを願った。接待役の責任が分散されたことで、きみの直属の上司は嬉しそうな顔をしていた。

 乾杯の音頭とともに宴会が始まった。

 普段はお酒をほとんど飲まないきみだったが、断るわけにもいかない。そんなに量を呑んだわけでもないのに、酩酊感を覚えて頭がふらつくようになった。最初はそれでも我慢していたものの、これ以上はまずい……。そう思ったきみは「すこし酔い覚ましに外れます」と周りに声を掛けて、ブルーシートから離れた。

 川沿いをおぼつかない足取りで進んでいく。特にこれといって目的があったわけでもなく、このまま帰ってしまおうか、という想いに駆られないでもなかったが、そんな度胸があるわけもなく、ただ漠然と歩を進めていた。

 周囲にひとが見えなくなるところまで歩くと……、

 ふいに違和感を覚えた。

 違和感の正体は分からないけれど、何かが違うような……。酔いの、せいだろうか。

 風景が変わった……?

 一瞬そんな考えが頭に浮かぶが、きみはぶんぶんと首を横に振る。そんな馬鹿なことがあるわけない、と。

 冷たい夜風がほおを撫でる。
 きみは身体をかすかに震わせる。
 戻ろうと、向きを変えて元来た道をふたたび歩き出す。違和感はいつまで経ってもなくならず、不安は徐々に強まっていく。

 会社の人たちのいるところまであとわずか、というところで、
 あれっ……?
 きみは不思議なことに気付く。
 さっきまでひとがいっぱいいたのに……。

 さっきまで多くのひとで賑わっていた場所は静けさに包まれていた。この場所からだったら会社のひとたちの姿も確認できる距離のはずなのに、その姿が見当たらない。

 無人、ではなかった。
 学生服を身に纏った少女がベンチに座っている。
 その少女を直接眼で見るのは初めてだったが、きみは、その少女を誰よりもよく知っていた。
 あれは、私……?
 そう、そしてこの場面も知っている。そうか、あの時のあれは……。


 

 六年前、最愛の姉を亡くしたきみはその葬式の夜、家を飛び出して自転車でこの川沿いの公園へと向かった。そこに理由なんてなかった。花見の時期であの時もこんな風に桜が咲いていたが、目を向ける余裕など何ひとつなかった。

 花見シーズンだったけれど、当初は雨が降る予定もあったせいか、その日は思いの外、ひとがすくなかった。独りになりたかったきみにとっては、とてもありがたい日で、周囲に誰もいないベンチに座って、ぼんやりと虚空を見つめていた。

 姉ときみは双子と間違われるほど容姿が瓜二つだったが、勉強やスポーツなど、姉のほうが何をやってもきみよりすこし上回っていた。嫉妬よりも羨望のほうが強く、憧れであり、自慢の姉だった。

 大袈裟ではなく自分の半身を失ってしまったかのような喪失感に、きみは打ちひしがれていた。

 夜風の冷たさがきみの荒んだ気持ちを強めた。
 もうお姉ちゃんのところに行こうかな……。
 真剣にそう思い始めた時、頭にあたたかなものを感じた。それが手のひらだと最初は気付かなかった。顔を上げると、そこにはがいた。はきみを抱きしめた。そして「行かないで……」と言って、は指先で涙を拭った。


 

 あぁそうかあれはではなく、だったのか……。
 たとえ幽霊だとしても姉に会えて救われた気持ちになっていたきみにとっては、すこし残念な真実でもあったが、

 それでも……、
 きみは少女に近付き、その頭に手を置く。見上げる少女は驚きの表情を浮かべた後、「お姉ちゃん……?」とつぶやく。少女の頬をつたう涙を見ながら、罪悪感に駆られる。それでも……その苦しみ、その悲しみを誰よりも理解できるからこそ、そしてきみがあの時、にどれだけ救われたかを知っているからこそ、
 きみは少女の姉として、本心から「行かないで……」と言って――。


 

 ……と、急に耳もとで大きな音が響く。

「ようやく見つけた! 戻って来ないから心配してたんだぞ! ……花見? もうとっくに終わったよ。みんなはもう帰したし、後は俺とお前だけだよ」

 気付くときみは公園の地面に寝そべっていて、上司が心配そうにきみを見下ろしていた。
 夢かもしれない。お酒のせいで見た幻覚かもしれない。

 だけど……、
 きみは指先を見つめる。人差し指にある涙のあとのようなものは、本当に気のせいだろうか。

 そうやって嬉しそうに語るきみの話は、ぼくにとっての大切な物語になった。



「春に、鬼と雪は。」#眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー「鬼」参加作品


 あれはまだ私が小学校低学年のころだったでしょうか。入学式からはすこし経っていました。通学路には桜並木ができていたので、春には間違いなかったはずです。すくなくとも公園のあたり一面を雪が覆うような日ではありませんでした。それでも公園に立つ私が履いていた長靴は上部くらいまで雪ですっぽりと埋まっていました。

 あの公園がどこの公園かは知りません。

 寒くは、ありませんでした。

 あの春、私はひとり異界に迷い込んだように冬の世界にいたのです。
理由も分からず……いえ、理由など分かるはずがないのです。

 だってあれは夢なのですから。

 夢なんて、大概は起きればすぐに忘れてしまうものですが、あの夢の記憶はおとなになってしまった今でも私の頭の中に貼り付いてしまって離れません。過去を確かめようがない以上、あれはもう現実と言ってしまってもいいのではないか、とそんな想いが頭を掠めたりすることさえあります。

 夢の中の出来事は微細に記憶しています。公園の中央には一本の大きな木があり、私はその幹の部分に背をもたれさせていました。

 誰かを待つような仕草でした。他人事のようだ、と思われるかもしれませんが、夢の中の自分、というのはえてしてそういうものではないでしょうか。私の知らない私を、私が客観的に見ているような感覚でした。

 待ち人、来ず……と焦れてしまったのでしょうか、私は場所を移動して、ベンチのほうへと向かっていました。青いベンチの背もたれ部分には亀裂が入っていて、お世辞にも綺麗なものとは言えませんでした。お尻を付けるところには雪が被っていたので、私は雪を払っていました。そしてまだすこし雪が残る状態のベンチに腰掛けていた私は俯いています。寒くもなく、おしりが冷たく感じることもなく、ズボンが濡れるような感覚をあじわうことさえありませんでした。

 誰を待っていたのか。結論から言えばそれは父です。

 なんの前触れもなく私の前に立っていた父に私は気付いていないようでした。父はいつもの愛想のない無表情で、私の肩を叩いています。

 見上げた私はようやく父に気付いたみたいで安堵の表情を浮かべていました。

 ただ……、

 そんな私の表情が徐々に恐怖に満ちていきます。

 鬼。

 まさしくその言葉でしか形容できない姿に変わっていきました。それはたとえば桃太郎の幼児向け絵本なんかにでてくるような愛らしい雰囲気の金棒を担いだオニとは似ても似つかない……、

 畏怖を相手に与える雰囲気を全身に纏った、鬼。

 私はおびえた眼差しをその鬼に向けていました。鬼がそんな私に対して表情を和らげることはありませんでした。

 鬼は手に持っていた鈍器を振り上げました。

 やがてそこは無人となり、ベンチの青には赤が混ざり、奇妙な色合いを幻想の世界に向けて放っていました。

 こんな夢を見るほど、私にとって父は怖い存在でした。畏怖の対象、としか言えないひとと一緒に暮らし続けるのですから、気の休まる時間なんてほとんどありませんでした。いつもむすっとしていて言葉は冷たい。偏見や固定観念も強く、内弁慶気質。子どもの頃の私にとって、父に比べれば、すべてが理解のあるおとなでした。生まれてから死ぬまで好きだったことなんて一度もない……、

 と思っていました。

 でもこうなってみて、ふと思い出したりするのが、ミュージシャンになるために上京したいって思い切って告げた時の、最初は怒っていた父の最後の諦めたような皮肉交じりの苦笑いだったりするのです。あの時も、分からず屋め、って想いだけを残して東京へ向かいましたが、今考えれば、あれは父の不器用なりの優しさだったのかな、と思えてくるから不思議です。だって父を心の底から怖がっていた私からすれば、父が本気で反対していれば多分私は諦めていたように思うんです。もちろん正解なんて分かりようもないんですが。

 結局夢破れて、この寒々しさしか特徴のない雪国に戻ってきました。そう言えば父は私が実家に戻ってきたことにも、何も言ってませんでしたね。私を見る目は変わらず冷たいままでしたが。やっぱり意外と優しいひとなんでしょうか。よく分からないひとです。

 母は今でもたまに急に泣き出したりします。まぁきっと四十九日も終われば落ち着くでしょう。残念ながら、私は父のために流す涙は持ち合わせていないんです。さっきの話も、ちょっと良いところもあったのかな、というくらいの話です。やっぱり私は父が大嫌いなんですよ。

 えっ、泣いてる、って……?

 あれっ本当だ。何故なんでしょうね。でもこれは父のためではないですよ。……そう、きっと、これはあなたに久し振りに会ったからに違いない。

 変な夢の話なんてして、ごめんなさい……。

 あなたを見ていたら、どうしても伝えたくなってしまったんです。 



「かすかな声」


「ねぇ、ユウヤくん……死んじゃったんだって」

 隣で呟く彼女のその言葉は、誰かに向けられたものではなく、譫言のようにぼくの耳に届いた。

 彼女の頭に手を置くが、そんなぼくの手に反応することもなく邪険にすることもなく、虚空を見つめるように窓越しへと目を向けている。

 窓の先では小雪がちらついている。もうすぐ春が訪れようとしている今冬最後に見る雪かもしれない。

 ユウヤくんか……。

 あの時と変わらぬ声音、口調で彼の名を呟く彼女の声を、ぼくはあの頃よりも落ち着いた気持ちで聞いていた。激しい感情にかき乱されることはなく、だけどささやかな嫉妬だけは胸に残したまま、ぼくたちが誰一人欠けずに揃っていた日々が鮮明によみがえっていく。

「おーい。何、寝とんじゃー。はよっ、起きんかいっ」

 必死に睡魔をこらえながら補習を受けていたぼくに罰を与えるように、怒鳴り声はぼくの耳もとに届いた。

 周りを見回しても教室内には、当然誰もいない。補習担当の先生は急用ができたということで、職員室にいるはずだった。すぐに戻ってくる、と言っていたが、30分近く経っても帰ってくる気配はなかった。

 もう一度、似たような怒鳴り声が聞こえて、ぼくは声のほうへと目を向ける。

 窓越しに見えるのは、野球部の練習風景だった。グラウンドの真ん中辺りで地面に横たわるユニフォーム姿の生徒がいて、それを見下ろす小太りの中年男性が目に入る。野球部の監督をしている山野先生だった。倒れている生徒の顔まではここから見えないけれど、見覚えのある後ろ姿だった。

 ぼくの通っていた青南高校は野球強豪校として知られ、甲子園に出場したことも何度かあるような学校だった。プロ野球の一軍で活躍する選手の中にも、青南高校が母校だという生徒が何人かいて、「あの生徒を教えたことがある」と自慢する先生もめずらしくなかった。

 練習は厳しいことで有名で、数年前には旧時代的なスパルタ指導を行う野球部の代表例として槍玉に挙げられたこともあった。

 またか……、と思わずため息が出る。こういう場面を見るのは初めてではなかった。批判されてもおかしくないような指導方法だと素人目にも分かるほどで、他人事ながら見ていて気持ちいいものではない。

 倒れていた生徒がゆっくりと立ち上がった後、また、ふらつく。

 その生徒のもとへ駆け寄ってきたジャージ姿の女子生徒が、支えるようにその生徒の肩を持つ。

 ようやくその男子生徒が誰なのか分かる。

 ユウヤくん……。ユニフォーム姿の彼――ユウヤくんとは一度も話したことがない。だけど、よく知っている。とても端正な顔立ちをしていて、誰とでも分け隔てなく接するので周囲からの評判もすこぶるいい。

 ぼくは、彼に嫉妬していた。

 それは彼がイケメンだとか女性に人気があるとかそんな理由ではなく、彼に対してでしか生じえない嫉妬だった。

 彼の肩を支える女子生徒の顔を見た時の感覚。胸がざわつくような感覚というのは、きっとこういうことをいうのだろう。その感情に戸惑いながらも、ふたりの姿から目を離せずにいた。

 補習が終わって、自転車を押しながら校門を出ると、
「小野くん!」と、後ろから大きな声で呼びかけられる。「なんで帰る時間がほとんど同じなのに、先に行っちゃうの……?」

 振り返ると、すこし怒ったような、そしてすこし寂しそうな彼女の姿があった。

「いや、ごめん。野球部、忙しいかなって……」
「そんな変な気なんて回さなくていいよ」
「あぁ、うん……。分かった」
 もともと会話は得意じゃないけれど、彼女を前にすると、特に緊張してしまってうまく話せなくなってしまう。

 付き合ってください。彼女に呼び出されて、そう言われたのは、この日より一か月くらい前のことだった。付き合ってください……。突然の言葉に頭が真っ白になって、返事ができずにいると、
 彼女はもう一度、付き合ってください、と続けた。

 彼女とはクラスメートだったので、もちろんしゃべったことはあった。それでも仲が良い、という関係ではなく、呼び出されたことにさえ戸惑っていたくらいだった。

 それが急に恋人という関係になり、ぼく自身が一番その状況に戸惑っていた。

 最初は罰ゲームなんじゃないか、と疑ったりもした。卑屈さが顔を出し、もしかしたら誰かが『ドッキリ大成功』という立て札を持って現れるのではないか。そんな現実味の薄い妄想を頭に浮かべたりもしたが、そんなことが起こるわけもなく、二人でたまに帰ったり、二人でどこかに行ったり、クラスメートにそのことをからかわれたり、自他ともに認める恋人同士……なのだろう。

 けれど……、
 不安が尽きることはなかった。

 短い期間ではあったけれど、徐々に戸惑いは好意へと変わっていった。好意が強くなれば強くなるほど、不安は大きく膨らんでいった。

「山野先生ひどいんだよ。今日、練習でね……」野球部のマネージャーをしている彼女はいつものように部活でのことを話し始めた。「やっぱり許せない。ユウヤくん。今日、練習前からちょっと体調悪そうだったんだ。練習中、休ませて欲しいってユウヤくんが言ったら、先生怒っちゃって……。倒れるまでやるなんて、やりすぎだよ」

 悲しみを混じらせながら言う彼女の言葉に共感を覚えるよりも先に、別の感情が顔を出す。

 ユウヤくんが……。ユウヤくんが……。

 彼女とユウヤくんは幼馴染であり、ぼくはそれまでユウヤくんについて何も知らなかったけれど、彼女伝いに色々なことを知るようになった。野球部のエースで勉強が出来て、優しく、女子生徒から人気のある自慢の幼馴染。昔は一緒に登下校する仲で、小学生の頃は恋人同士と囃し立てられたこともあったそうで、中学生の時には彼を好きな女子生徒から憎しみの標的に何度もされてもいたらしい。

 なんで、ぼくだったんだろう……?
 ぼくは別のクラスメートから、ある話を聞かされ、ショックを受けると同時に腑に落ちるような想いも抱いていた。

『曽根崎って、隣のクラスの〇〇と付き合ってるらしいぜ』曽根崎は、ユウヤくんの名字だった。付き合っている女の子の名前はもう忘れてしまった。

 よく聞くと付き合いだしたのは、ぼくが彼女に告白される前日のことだった。

 自棄になってぼくに告白したのでは……、ぼくではなく誰でも良かったのではないか……。そんな想いが胸に兆すのを必死で振り払おうとするが、一度絡みついてしまった想いが簡単に離れることはない。

 こんなにも奇妙な偶然があるだろうか。

 本心では確信に近い想いを抱いてしまっている。彼女がその話題を出さないことが、よりその確信を深めていく。

 彼女にしっかりと聞くべきなのだろうが、どうやって聞くべきかいつまで経っても答えが出ない。しかしこのもやもやとした感情を抱えたまま彼女と付き合っていけるだろうか、と言えば……無理だ。

「ねぇ、もしかして話聞いてなかった」
 と彼女がわざとらしく頬を膨らませて、怒った顔をつくる。
「あ、いや聞いてるよ。山野先生がひどいって話でしょ」
「もうその話はとっくに終わってる」
「ごめん、ごめん」
「小野くんの相槌、聞いてるかどうか分かりやすい」
 と彼女がくすりと笑う。

 小野くん……。

 ユウヤくん、と違って、ぼくのことはいつまでも名字で呼ぶ。口に出しては言えないけれど、そんなささいなことがやけに気にかかる。もちろん彼女に悪気なんてないだろう。それでも無意識にできる距離感を意識せずにはいられない。

 薄暗くなった夜道をふたり並んで歩く姿は、傍目には恋人にしか映らないだろう。当人だけがその事実を信じられずにいる。

「あの、さ……」
「ねぇ当ててあげよっか?」
「何を?」
「悩んでること」
「当たらないよ」
「ううん。分かるよ」
「じゃあ何か言ってみてよ」
「やだ。……でもね、小野くん勘違いしてるよ」
「勘違いって……?」
「色々なこと」くらがりの中で微笑む彼女は、ひと際、綺麗に思えた。「多分、小野くんの考えは全部外れてる」

 お互いその後は無言のまま、気付けば彼女の家の前まで着いてしまっていた。

「……あの、さっきの話だけど」
「今度でもいい? 実はこの間、小野くんがユウヤくんのことを他の人と話してるところ、聞いちゃったんだ。多分、小野くん、勘違いしてる。今度、ちゃんとその誤解は解くから」
「え、い、今じゃ」
「駄目。まぁ急いだって、良いことないよ。ゆっくり行きましょう。私たちは」そう笑顔を向ける彼女の言葉を信じたいと思った。「じゃあね!」

 別れ間際、すこし離れたぼくの背中に言葉が投げ掛けられる。振り返ると、彼女が大きく手を振っていた。

 よく聞き取れなかったけれど……、
 ぼくの下の名前を呼んだ気がした。

 それが彼女と交わした最後の言葉となった。

 あの日、交通事故に遭ったぼくはこの世を去るはずだった。しかし今も、誰とも話すこともできず、ただこの世に留まり、彷徨い続けている。成仏できない霊とは自分みたいなもののことを言うのだろう。

 地獄だと感じていたのは最初だけだった。ぼくが死んだ後、彼女も深い悲しみを覚えているようには見えたけれど、ぼく自身が自分の置かれた状況を受け入れることができず、色々なところを彷徨っていて、彼女をしっかりと観察する余裕もなかった。すこしずつ自分の死と現状を受け入れ始めた頃、ぼくは彼女とユウヤくんが付き合い始めたことを知った。高校卒業直前のことで、同じ大学に入ってからもふたりは順風満帆だった。

 嫉妬がなかったかと言えば、嘘になる。
 いや死者にもこんな強烈な感情があったのかと思うほどの嫉妬を、ぼくは間違いなく自覚していた。

 やっぱり最後に彼女が言った『勘違い』なんて嘘だったんじゃないか。最初から最後まで、好きなのは彼で、ぼくは代用品に過ぎなかったんじゃないか、と。彼女がそんな人ではないと分かっていた。それでも彼女を憎まなければ、自分が壊れてしまいそうだった。

 しかしそれも時間が経つ内に穏やかになっていく。ぼくにはどうしようもできないのだ。彼女に話すことも、触れることもできない。そんなぼくに何ができる? 見ることしかできないじゃないか、と。

 かすかな嫉妬は残しつつも、
 いつしか達観した気持ちでふたりの行く末を見守るようになっていた。死者になっても自分をストーカーだと恥じる感情は残っていて、頻繁には彼女のところに行かないように気を付けていた。

 そして大学卒業後、ふたりは婚約し、ぼくは素直にふたりの幸福を願った。心からの祝福とともに、自分も消えると思っていた。成仏なんて死者を知らない人間がつくった言葉でしかないけれど、漠然とぼくは思い残すことをなくして自分の姿が消えていくことが、自身の終わりだと考えていた。

 終わりなどなく、永遠にこのままなのではないだろうか。まぁそれもそれでいいのかもしれない。

 ユウヤくんの死を知ったのは、
 もう彼女のところへ行く必要もないか、と思い始めた頃だった。

 彼女は確か今、二十代半ばだったはずだ。高校生の頃よりも、彼女はずっと魅力的になっていた。すこし彼女と話してみたい気持ちに駆られるが、叶わないことを自分が一番知っている。

 窓越しでちらついていた雪は止んでいた。

 しゃくりあげはじめた彼女を励ます術も慰める術も、ぼくは持っていない。生きていたところでぼくは頼りにならなかっただろう。

 ただ彼女を見ていることしかできなかった。

「私が好きになった人は、みんな死んじゃうんだね……」
 それもぼくに向けられたものではなかったはずだ。


 それでも、その言葉は、
 強烈に、
 ぼくの感情を強く揺さぶった。

 そうか、
 確信が欲しかったんだ。

 あの日、聞くことができなかった。あの後、聞くことを許されなかった。
 あの頃の彼女が想いを寄せていたのは、間違いなくぼくだったという確信。

 その言葉を聞いてぼくは、
 ゆっくりと自分の消えゆく体に気付く。

 だけど……、
 まだやり残したことがある。

 目の前では、
 部屋の窓を開けた彼女がベランダの塀に足を掛けようとしていた。

 駄目だ……!

 彼女が自分のようになるなど想像したくもなかった。仮にそれで彼女と会える機会があっとしても、そんなのこちらから願い下げだ。

 駄目だ……!
 必死に彼女の生を願い、放った幽かな声が、彼女に届いたかどうかは分からない。

 それでも足を地面に下ろした彼女の振り向いた先には、ぼくがいる。

 もう体はなくなり、後、残っているのは顔くらいだろう。すべてが消えるのも時間の問題だ。

 ぼくの役目は終わった。
 あなたのこれからを見守るのは、ぼくではなく……。


「再来の時」


 ぼくの部屋の壁に顔のようなしみが現れたのは、誰もが知る有名なミュージシャンが死んだ日だった。そのしみを彼と繋げたのは、そのしみがあまりにも彼の顔に似ていたからだ。こちらを凝視するその顔からぼくは目が離せず、ずっと見ていると、ゆっくりとだけど、口の部分が動いていることに気付いた。恐怖よりも先に興味がわく。あのひとを思わせる顔は何を言っているのだろうか、と。

 音楽業界の端っこにいる無名のぼくにとって、彼は雲の上のような存在だったけど、一度だけ会ったことがある。憧れのひとに会うと大体は幻滅することが多いものの、実際に会った彼は穏やかなイメージそのままの人物だった。もともとの憧れがさらに強まる、というのは業界に片足を突っ込んでからは初めての経験だったかもしれない。

 そんな彼が死んだ。

〈――さん。路上で暴漢に刺され……、暴漢はその場で取り押さえられ……〉
 神妙な表情で伝えるアナウンサーの声がその日だけはやけに耳ざわりに感じられて、思わずぼくはそのニュースを消していた。

 音楽の道に進む、と決めたのは彼の影響であり、彼は大げさではなくぼくの人生を決定づけたひとだった。

『そう言えば、ここのスタッフに聞いたんだけど、きみ、ぼくが住んでいたアパートで暮らしてるって本当……?』
 初めて会った時の彼の表情が頭に浮かんだ。

 部屋のしみが表情を笑みに変える。そう彼もあの日は、こんな表情をしていた。

 学生時代から有名人だった彼は、ぼくにとって憧れだった。独特なハスキーな歌声と激しくかき鳴らされるギターの音に何度も酔いしれたけれど、何よりもぼくを惹きこんだのは彼のたどった人生だった。

 彼はぼくと同郷で、ぼくが知る限りI町出身の唯一の有名人だった。彼が自分の出自を憎んでいることはファンなら周知の事実だ。雑誌やテレビで繰り返し語られてきたことでもあり、故郷は捨てた、という発言がきっかけで彼は地元では嫌われ者だった。

 ただぼくには、そんな言葉が嬉しくて仕方なかった。
 彼が語る自身の境遇に、ぼくは自分の人生を重ねた。

 勉強もできず貧乏な家に生まれ、偏見の強い両親にゆるやかに支配され続けていたぼく、と似ていたのだ。

 この田舎で生きて、死ぬしかないのではないか、と深い絶望に苛まれていたぼくにとって、彼の存在は光明だった。

 彼のようになりたい、と思った。
 いや、彼になりたかった。
 ぼくは、彼の人生をそっくりそのまま体験するような人生を送り始めた。

 彼がかつて家出で上京したと知れば、高校三年の夏、ぼくはギターを片手に地元を捨てた。夜中、誰にも告げることのない家出は簡単に成功した。

 彼がかつて高円寺のぼろぼろのアパートで暮らしていたと知ったら、そのアパートを探し出し、そこに住んだ。

 そんなぼくに、ある知人は「あのひとはあのひとで、お前はお前だろ。自分らしさをうしなった音楽活動なんて虚しくないか」と言った。ぼくはそれが許せずにその知人を殴った。それ以降、その知人とは会っていない。優しさから苦言を呈してくれたのだとは分かったけれど、その言葉に耐えきれなかったのだ。

 彼と実際に言葉を交わしたのは一度きりで、出会いは偶然だった。しかし彼のほうも、熱烈に自分のことを信奉している若手がいると認知していたらしく、『あぁ、きみが例の……』と気さくに接してくれた。

『そう言えば、きみは会ったのかい?』その時の会話は緊張でほとんど覚えていない。ただひとつ覚えているのが、この会話だった。

 何のことですか、とぼくがたずねると、彼は『幽霊だよ』と手を前に出して、垂れ下げる仕草をした。

『僕はあの部屋で、さ。幽霊に会ったんだ。誰もが知る有名な、若くして事故死した歌手だよ。そんな彼もあの部屋に住んでいたらしくてね。僕の憧れが目の前にいるって思うと、怖いというより嬉しかった。そんな彼が、ね。言ったんだ。俺はまだまだやり残したことがある。お前の人生を俺にくれないか、って……。僕はどうした、と思う』

 その時は冗談で言っているのだと思って信じていなかったけれど、
『あの伝説の歌手の再来。魂が乗り移ったかのよう。それからだよ。そうやって僕が周囲から高い評価を受けるようになったのは。もしも同じ状況になったら、きみはどうする?』
 と薄い笑みを浮かべて、そうぼくに告げたその言葉に、その出来事が真実だと思わせるような響きがあったのも事実だ。

 ぞっとした。その背筋の冷える感覚が今もぼくの記憶の重要な部分に貼り付いて、離れない。

 部屋のしみは、あの時の薄い笑みを浮かべた表情とまったく同じだった。

 しみは徐々に大きくなり、ぼくは圧迫感を覚えつつも、何故か恐怖は感じない。どこか安心感があった。

 声が聴こえる。
 それはぼくが憧れ、聴き続けたひとの、絶対に聴き間違えるはずのないハスキーな声だった。

『まだだ……。まだ終われないんだ。俺はまだまだやり残したことがあるんだよ』なぁ……、としみは言葉を続ける。『お前の人生を俺にくれないか。前に言った質問の答えを聞かせてくれないか?』

 彼の体験を追い続けたぼくにとって、この不可思議な体験は必然だったのかもしれない。他のひとでなくて良かった。もしぼくではなくて、他のひとがこの体験を追い掛けることになっていたとしたら、ぼくは永遠にそのひとを憎んだだろう。

 答えは、決まっている。彼と同じ答えをぼくは選ぶ。
 ぼくはしみに手を伸ばした。
 しみからかすかに溜息のようなものが漏れた。

「失格だな」
 と聞こえたような気がしたけれど、その意味がぼくには分からなかった。

「『――の再来か? 魂が乗り移ったかのようだった。その歌声に身を浸らせながら、筆者はただその奇跡を噛みしめていた』か……なぁ、ちょっと大げさ過ぎやしないか?」

「だけど編集長だって一緒にライブに行った時、そう思いませんでした? 彼が死んだ一ヶ月後にまるで彼にしか思えないような歌声を披露する若手が現れるなんて……。まるで彼のようだ、って思うほど似てましたよ」

「似てた……?」

「えっ、似てませんでした?」

「似てた、というよりは、同じだったな。コピーを見ているようだった」

「ほら、編集長だってそう思うでしょ。あれは奇跡ですよ」

「彼は、さ。彼だけでいいんだよ。もう既にあるものとまったく同じ何かなんて俺は評価しない」

「厳しすぎません? 彼だって昔は先人の二番煎じだって言われた時期もありましたが、確固たる評価を手にしたじゃないですか」

「その後の努力で確固たる自分らしさを手中に収めたからこその、確固たる評価だよ。別に俺だって、あの子の今後まで否定しようとは思ってないさ。あくまで現段階では、評価できない、だ」

 彼のミュージシャンとしてのすべてを受け継いだぼくだったが、結局彼のような名声を得ることはなく、大嫌いな地元に戻り、あまり楽しいとは言えない生活を送っている。

 今でもぼくは後悔していることがある。

 本当にぼくは彼と同じ答えを選んだのだろうか、と。


「わたしがいなくても、世界は。」(後書きに代えてのエッセイ)


わたしがいなくても、世界は。


何不自由なく回っていくことを、わたしは知っています。

世の中に必要とされるひとになりなさい。幼い頭を撫でながらそう言ったあのひとが、両親だったか、先生だったか、それとも全然違うひとだったのか、もう覚えていません。今でもしっかりと貼り付いて離れない言葉の記憶をそっと剥がそうと試みてみましたが、なかなか剥がせず、途中で諦めてしまいました。無理やり剥がせば、いやな跡が永遠に残りそうな気がしたからです。

ごめんなさい。言葉の主にわたしは謝ることしかできません。わたしは残念ながら、この世の中に必要とされる人間ではありませんでした。すべての人間は等しく何かの役には立っている、と思えるほど、もうわたしは無垢ではありません。わたしが世の中に必要とされている、と勘違いできるほど、もうわたしはうぬぼれ屋ではありません。

わたしは世の中に必要とされるひとにはなれませんでした。

わたしがいなくても、世界は回る。すこしだけ悲しむひとはいるかもしれません。すこしだけ怒るひとがいるかもしれません。でもそれだけです。時間が経てば、彼らはいつも通りの日常に戻るなかでわたしを忘れていき、世界は最初からわたしなど一顧だにしない。

哀しい話に聞こえるでしょうか。

でもそれでいいのです。

そんなわたしはときおり物語を書きます。その物語は私の存在と同じです。

わたしの紡いだ物語がなくても、世界は。


何不自由なく回っていくことを、わたしは知っています。

やっぱり哀しい話のように聞こえてしまうでしょうか。

でもそれでいいのです。わたしはこの事実を哀しいと思ったことがないのです。強がりではありません。

信じてもらえないかもしれませんが、

わたしは嬉しいのです。

この世界から必要ないと烙印を押されようとも、わたしが、わたしの作品が、世の中に有ってもよい、という事実が何よりもわたしを励ますのです。愛されなくても有ってよい。打ち棄てられていても有ってよい。世間は勝手にそっぽ向く。その冷たさに悔しいと思ったことは確かにあります。

それでも。

お前はお前の道を歩め。お前はお前の書きたいものを書け。必要ともされず、しかし有り続けるわたしにできることは、それしかなかったわけですが、それはあまりにも自由で、わたしにとって思いの外、嬉しいことだったのです。