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僕が見た怪物たち1997-2018 第二話「怪物のいた村、1997」まとめ読み版(約15000字)
その女性は、はじめて会った時から、先生、と呼ばれていた。
本名を知っているひとはほとんどおらず、長い月日を仕事仲間として一緒に過ごした僕でさえ、その名前を知ったのは、だいぶ後になってからだった。
彼女は老いとは無縁なのかな。先生を指してそう言ったのは、先生とも交流があった、いまは亡き僕の友人だが、関わりがすくないひとなら分からないくらいの変化にも、これだけ一緒に長くいれば、すぐに気付けるようになる。重ねた年齢は、先生の精巧な人形を思わせる顔にも間違いなく表れていた。
初めて先生と会ったのは、1997年の秋頃のことで、僕は田舎の寂れた村に住む少年だった。
生まれは東京だったが、物心が付いた時にはその村にいたので、東京が出生地であることのほうがしっくりとこない。
福井県栗殻村という人口が1000人にも満たない小さな海沿いの村に、先生が何の用で訪れていたのかはいまだに知らないが、僕は母から先生のことを占い師と紹介されたので、最初の頃はそう信じて疑いもしなかった。
両親が嘘をついたわけではなく、先生の職業が占い師である、という言葉は何も間違ってはいない。ただ、占い師である、ということは、先生について語るうえで必要なほんの一部でしかなく、それだけでは足りなさすぎる。カウンセラー、占い師、探偵、奇術師、超能力者、霊媒師……多くの資質を兼ね備えていて、つねにその場に合った役割を演じることができる先生にとって、すべてがそうであるとも言えるし、すべてが違うとも言えるのだから。
先生が最初に僕に放った言葉を、いまだに覚えている。
当時、小学生だった僕が家に帰ると、居間に先生だけがいて、じっと見つめられた僕はその別の誰かでは置き換えることもできないような美しさに思わず息を呑み、そんな気持ちを知ってか知らずか、目を逸らすこともなく、僕の頬に手を当てて、
呟くように、
「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」
と言ったのだ。
その言葉を聞いて、僕は会って間もないこのひとには何をやっても敵わないのだ、と本能的に悟ってしまった。
これは小学生の頃に母から聞かされたのだが、僕は物心つく前の幼い頃から、手の掛からない子どもだったらしい。もちろん僕自身はその時期のことをまったく覚えていなくて、どれだけ掘り返しても見つからない記憶なので、らしい、と付けるしかないのだが、その母の評価にはとても腑に落ちるところがある。周りの顔色をうかがってばかりいる小学生だった僕の性格が、それよりもさらに幼い頃や生まれつきのものだったとしても、驚くような話ではないだろう。
そんな他人を気遣う姿は周囲から気弱だと思われたかもしれない。実際に気弱な性格だったことは間違いないが、そう見える多くの人間にも粗暴だったり、悪辣な一面がある。僕だけが例外なんてことはない。その奥底に秘めたものが、ある日いきなり噴出するのではないか、と僕自身、怯えているところがあった。
初対面の相手にそれを見透かされたような気がしたのだ……。
僕は、先生が栗殻村に滞在している短い間に、その怒り、憎しみを爆発させてしまうのだが、その出来事を語るうえでも、僕自身についてもっと詳しく話す必要がある……、とはいえ僕は先生ほど恵まれた記憶力を持っているわけではないので、自然と記憶はぼやけたり、美化されたりしていることだろう。本当のあの頃の僕たちの会話はもっと無茶苦茶で、こんなにも大人びてはいなかったはずだが、そのくらいは許して欲しい。
人間、なのだから。
※
行動範囲の限られている多くの小学生にとって、家と学校だけが世界である、とまでは言わないが、知らないことを知ることさえもできない非常に狭い世間での生活を強いられている場合が多いのは間違いないだろう。すくなくとも僕はそうだったし、その世界を一緒に過ごしたクラスメートたちも僕にはそう見えた。
だから学校というのは、良くも悪くも特別で、それがつらかったら最悪だ。
その環境がつらかったら逃げればいいんだよ。簡単な話だ。
そう言っていたのは誰だっただろうか。先生だった気もするし、友人の小説家だったかもしれないし、知り合いでさえもなく、テレビ番組か何かで見ただけのような気もする。
学校に嫌気が差したら逃げればいい。
言葉だけが記憶の中に残っているそれが間違っているとは思わないが、正しいとも感じない。小さな世界から大きな世界へと誘ってくれる誰かがいなければ、そもそも逃げることができないからだ。もしも独力で世界から逃れるすべがあるとすれば、それは、死、くらいだろうか。
その頃の僕は学校に嫌気が差していて、つまり僕は世界を憎んでいた。
僕の通っていた栗殻小学校は全校生徒を合わせても100人足らずで規模が小さく、村に小学校はひとつしかなかった。容易に場所を変えられる環境ではなかった。そんな小さな小学校では、当然クラス替えが行われることもなく、見たくない顔を視界に入れながら毎日を過ごしていかなければならないのだ。
「どうしたの、その顔?」
「転んだんだ」
「転んで、そんな顔になる?」
「なったんだから、仕方ないだろ」
「ふぅん」
母親と何度そんな会話になっただろうか。もちろん母は僕の言動を嘘だ、と気付いていたはずだが、最後まで素っ気ない態度を取り続けた。これは決して母が僕に無関心だったわけではなく、そう反応するしかなかったのではないか、と思っている。もちろん母の本心は分からず、いまとなっては聞くこともできないほど疎遠になってしまったので、推測するしかできないのだが……。母のほうも自分の置かれた状況に抗うのに必死で、僕の問題を背負い込める精神ではなかったはずだし、自分の抱える問題が僕の問題を引き起こしているのでは、という不安や恐怖もあったかもしれない。
敵意。蔑視。嫉妬。
子どもの世界で起きる問題のすべては、大人の世界でも起こることだ。苦しんでいるおとなに苦しい、と助けを求めることはできない、と子どもながらに漠然と僕はそんな想いを抱いていたように思う。
年齢の割に冷めた思考だとは思うが、諦めに近い気持ちもあったのかもしれない。いまになって思い返してみると、それが一番しっくりとくる。
閉鎖的な場所では、多数の憎しみや怒りがひとつの対象に集まることが、ときに娯楽になったりする場合がある。
いまとなっては、まるで他人事のように語ってしまえるが、はっきりと言葉にすれば、僕はいじめられていた。
罵声を浴びせられたこともあれば、小突かれたり蹴られたりも、もちろんあった。それもじゅうぶんに痛いし苦しい。でも慣れは、そのうちにもっともっと、と刺激を欲しがりだして、ズボンを脱がされて隠されたこともあったし箒でチャンバラと称してこめかみのあたりを強く撲られたこともある。
そして何よりも強烈な印象に残っているのが、あの水責めの一件だ。語らなくて済むなら語りたくないが、先生を、そして僕を語るのなら、やはり避けては通れない。
※
あの日、放課後にクラスメート三人からトイレに呼び出されたのが、はじまりだった。
彼らはいわゆる主犯グループと呼べる存在で、その三人は同級生の中でも特に体格が良かった。この時の僕たちは小学校五年生だったが、彼らは六年の先輩たちからも怖がられていた印象がある。洗面所の前に僕は立たされ、排水溝の部分にノートを破って丸めた紙が無理やり詰められているせいで、溢れ出しそうなほどの水が洗面器に溜まっていた。内のふたりに後ろから身体を固定された僕は、残ったひとりに後頭部を掴まれると張った水の中に顔を押し付けられ、どれだけもがいても、僕を押すその手は離れてくれず、意識は失う寸前だった、と思う、もう抵抗もできないような状態になった頃にようやく空気が鼻と口に入り出し、ふらふらになった僕を見ながら、三人が笑っていた。
「殺したら、犯罪になっちまうからな」
と言ったのは、僕の頭を押し付けていた三人組のリーダー格である岩肩剛だった。殺さなくても、この行為は犯罪以外の何ものでもない。それでも残念ながら、喧嘩、嫌がらせ、いじめ……と法の手の届かない形に名前が変えられていき、注意や警告に留められてしまうのが、学校という空間の怖いところだ。
僕はこの三人を恨んでいて、特に岩肩に関しては自らの手で殺してやらなければ気が済まないほどに憎んでいた。
他にも僕への攻撃に加担している生徒はいたが、他の生徒には、実はそれほど恨みや憎しみを抱いていなくて、それは時間を経たいまだからそう思う、というわけではなくて、当時からその三人以外への怒りは薄かった。
これはただの持論でしかなく別に周りから理解してもらおうとも思っていないが、最初から、いじめる者、いじめられる者、という役割を持って生まれてくる場合なんてほとんどなくて、その環境や関係に応じて、その場での役割が変化していくものだ、と僕は考えている。誰かにいじめられていた者が、どこかで別の誰かをいじめている、なんて、そんなのめずらしくもない話だ。
いや……これもはっきり言ってしまおう。僕自身もかつて別のいじめに加担していたことがある。
復讐心を募らせれば募らせるほど、僕は怖くなった。
同じぐらいの憎しみが僕にも降りかかってくるのではないか、と。その不安と恐怖が噴き上がりそうになる怒りをなんとか鎮めてくれている気さえした。
でも岩肩たち三人に関してだけは話が別だ。限度を超えている。
死んでほしい、なんていう感情では足りない。感情の奥底で強まっていく火が、ばちばちと音を立てて爆ぜながら、外へ、外へ、と叫んでいた。理性という水がガソリンにでも変わった時、僕は彼らを実際に殺してしまうかもしれない……、という、その想像は恐怖であり、仄暗い愉しみでもあった。
僕は僕以外の人間の内心なんて知らない。だけどこれは本当に僕だけの特殊な考えなのだろうか。
先生、と出会ったのは、そんな水責めの一件から二週間ほど経った頃だった。
そんな状況の中での出会いだったからこそ、
「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」
という言葉は鮮烈な印象として僕の記憶に強く残った。
すこしでも時期がずれていたとしたら、ここまで感情を揺さぶられることはなかったはずだ。僕の頬に手を当てながらそう呟き、僕をじっと見つめる先生はあの時、何を考えていたのだろうか。
僕たちの出会いは特別だった。すくなくとも僕はそう思っている。
そして先生にも初対面の時から、他とは違う何らかの想いを抱いていて欲しい、と考えてしまうのは自然な感情のはずだ。ただ、僕たちが当時のことを話す機会はいまのところはまだ訪れていない。
先生の言葉に反して、僕の第一声はごくごくありふれたものだった。
「あの……、あなたは?」
「私? あなたに名前を教えるのはまだ早いかな。とりあえず、私のことを多くのひとは、先生、と呼ぶ。だからあなたも、先生、と呼びなさい」
先生の本名を知ったいまも、僕は彼女のことを先生と呼んでいる。名前を呼ぶ、という行為が、彼女の絶対に踏み込んではいけない領域に足を入れることになる気がして、その覚悟がまだ付かないからだ。
いまでも考えてしまうことがある。もしも僕が先生と出会っていなかったら、あの日、誰も死ななかったのではないか、と。いや、先生はあの事件に直接的な関係があったわけではないのだが……。
先生はそうなる未来をすでに知っていたうえで、敢えて僕に、
「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」
と言ったのかもしれない、なんて、そんな想像が頭に付いて離れない。
考え過ぎだとも思うが、それでも、いやだからこそ先生のあの時の本心を知りたくなってしまう。まぁもしかしたら、考え過ぎだよ、私の能力はそこまで人間離れしてない、とそんな言葉を先生の口から聞きたいだけなのかもしれない。
※
その頃はまだ知らなかったことではあるが、先生はいくつかの業界において名の通ったひとだ。
間近で彼女の仕事ぶりを見てきた僕が、いまとなって不思議に思うのは、なぜ彼女が、北陸にある田舎の寒村を訪ねてきたのか、ということだった。先生はフットワークの軽い人間なので、おかしい、とまでは言わないが、こんな旅行者を惹きつける観光的魅力もなく、先生の依頼者になりそうなひともほとんどいなさそうな場所よりも、どんな目的であれ、もっと先に行くところがあるだろう、と思ってしまうのだ。まぁ仕事で偶然この辺りに来ていて、母と親交を深めたのをきっかけに家に招かれた、と考えるのが、もっとも自然だろうか。
先生は、相手、場所、状況によってつねに自身の役割を変えるが、母にとっての、先生、は最初から最後まで占い師だったはずだ。母は自身の悩みを親身になって聞いてくれるひとに依存しやすい傾向があり、そんな母が先生と親密な関係になってしまうのは自然なことに思えたが、そういうところこそ母が周囲から嫌われていた一番の原因だったに違いない。
先生は人知を超えた力を持っている。
さすがに長く一緒にいると、先生の持つ能力が本物である、と分かってくるが、それでも一般的に言えば先生はおそろしくうさんくさい人物であり、まだ子どもであった僕でさえ最初から無条件に先生の力を信じ込んだわけではなく、懐疑的に思っていた時期はそれなりにある。
でも母はすこしの対話で、先生を妄信するような態度を取っていた。
先生と僕がふたりだけ、という違和感しかない空間の気まずさを破るように家に帰ってきた母の先生を見る目と、明らかに上下関係の見えるふたりの会話のやり取りにも感じたし、そもそも大して関わりの深くない相手を自宅にひとり残して出掛けてしまえる態度なんて、相手を信じ切っていなければ取れないものだ。
こういう母が、僕は大嫌いだったし、すべてと言うつもりはないが、僕が周囲から攻撃される一因になっているのは間違いないように当時から感じていて、本当にやめて欲しい、と思っていた。
先生とのことはいったん置いておくにしても、例えば母は市内の、もう名称も忘れてしまったが、なんたら教、という感じのいわゆる新興宗教、それもかなりいかがわしい雰囲気の団体での活動に熱心だった。先生のパートナーとして働く現在の僕の仕事もじゅうぶんにいかがわしいので、ひとのことを言えた義理ではない、と分かっているが、母の話を聞く限り、どう考えても詐欺に引っ掛かっているだけにしか思えなかった。父とはこの件でよく喧嘩になっていたのも知っている。
当時は地下鉄サリン事件が起こって、そんなに時間も経っていない頃だったので、母の活動に対する周囲の目は特に冷たかった。
母は周囲から受ける嫌がらせの原因を、余所者、特に都会の出身だから、と考えているようだった。もちろん閉鎖的な環境では余所者であることが嫌われる原因にはなりやすいし、きっかけは間違いなくそうだったのだろう。だけど、それはただのきっかけのひとつでしかない、と思っている。
あそこの子とは仲良くしちゃだめよ……。
実際にそんな言葉があったのかどうかは知らないが、嫌われる、というのはたったひとりに降りかかるばかりではなく、近しいひとにも繋がっていくものだ。
だから僕は母の行動を憎んでいたし、母が変わることを願っていたが、僕が母と過ごした間に、それが叶うことはなかった。
そして変わったのは母ではなく、僕だった。
※
どんなに憂鬱でも学校は急になくならない。たまに校舎が爆発して消し飛ぶ夢を見ながら、目覚めとともに、がっかりすることもあった。
水責めの一件以降は、さすがに岩肩たち三人もやり過ぎてしまった、と感じたのか、もちろん彼らの本心など僕には分からないし、知りたくもないが、鳴りは潜めていた。急にふと日常を取り戻して落ち着くこの感覚は過去に何度か経験があり、だから僕は何ひとつ安心できなかった。他者を傷付ける行為が日常的になると、そのうちに異常に満ちていた日常に慣れだし、それがさらなる過激さに繋がっていく。その過激さはだんだんと増していくが、どこかの段階で歯止めの掛かる瞬間がある。やり過ぎてしまった、という後悔や不安が顔を出すのかもしれないし、あるいはすべてがどうでも良くなったように冷めてしまうのかもしれない。
この静けさは、気軽に安心してはいけないものだ、と僕はその時点で過去の体験から知っていた。
すこし時間が経つと、また彼らの嫌がらせ熱は再燃する。
先生と初めて会った日から、二週間ほど経っていた。水責めの一件からは一ヶ月近く経っていたわけで、確かにいまの彼らは鳴りを潜めているが、そんな一時の平穏で僕の憎しみは消えない。それどころか、あんなひどいことまでしておいて、見た目には何事もなかったかのように振る舞える彼らの様子に、僕の中にある憎しみは強まる一方だった。
その過程で何度も、
「憎しみは心の奥底に秘めておきなさい」
という先生の言葉が頭に浮かんだ。
でもそれは僕の怒りや憎しみを減らすためではなく、その逆、背中を押すような役割を果たしていたように思う。
僕が先生と初めて会った日から半月が経つその間、先生が僕の家に頻繁に訪れていることは母の口を通して知っていたのだが、僕が先生と顔を合わせたのは、あの初対面の一度だけだった。
もう一度、会いたい……。
彼女の存在には、僕を変えてくれる何かがあるような気がした。なぜそんな風に思ったのかはうまく言葉にできないのだが、彼女の印象がそれほどに強烈だったことは間違いない。そしてふたたび彼女と出会ったのは、僕の家ではなく、家までの帰り道の途中で、彼女と一緒にいたのは岩肩だった。
僕はふたりの姿を見て、とっさに隠れたくなったが、時すでに遅し、というか、
「あらっ、こんにちは――」
と先生が僕の姿に気付き、その声で僕の存在を認識した岩肩が僕に冷たいまなざしを向けていた。
「こんにちは……」
岩肩が近くにいるので、どうも緊張感を覚えてしまい、僕の挨拶の言葉はひどく音量の小さいものになってしまった。岩肩はそれが気に入らなかったのか、わざとらしい舌打ちをして、ふんっ、と僕と先生に背を向けて遠ざかっていった。
「あらら、怒っちゃったね」
あらら、というわりに困惑ひとつしていないような口調で先生が言った。
「いいの?」
「何が?」
「だってしゃべってたんじゃ……」
「もう話は終わったみたいなものだったから、大丈夫」
「岩肩くんと知り合いだったの?」
「いやぁ、今日初めて見た子だね。あの子は面白いね。見どころがある、というか、そういう意味では、あなたにすこし似ているところがあるかもしれないね――」
「そんなことない」
とさえぎるように、僕は先生の言葉を否定した。その言葉に、僕はふたつの意味で嫌な気持ちになり、ひとつの意味ですこしだけ嬉しい気持ちになった。
見どころがある、と岩肩を評価していることと、その岩肩に似ていると思われたことは不愉快だったが、ただ彼女の言葉は、僕にもなんらかの見どころを感じている、という意味にも取れる言い方だったので、それは純粋に嬉しかった。
「ごめんごめん」僕の反撥する言葉に、先生は謝る気のない謝罪を二度繰り返す。「私は仕事の合間を使って、ちょっと探しもの……、というか探している相手がいるの。まぁその一環としてあの子には声を掛けていたんだけど、やきもちを妬かせてしまったかな」
「違う」と返した僕の顔は赤くなっていただろう。それを隠すために、僕はすぐに言葉を続けた。「どんなひとを探してるの?」
「怪物。私は怪物をずっと探しているの」
「怪物……?」
「そう、怪物。もしも見つけたら、私に教えてね」
そう言って先生が、ふふ、と意味ありげに笑って、じゃあね、と僕に別れを告げた。
その時の僕にはまったく意味の分からないものだった。最初に、怪物、という言葉を聞いて僕の頭に浮かんだイメージは、当時テレビで偶然見たビッグフットの姿だった。インチキなのか本物なのか、と口論しているクラスメートがいたのを覚えていて、僕自身は本物だったら夢があって楽しいなぁくらいに思っていた怪しさ満点の獣こそ、まさに、怪物、という呼び方にふさわしい存在に思えた。ただもちろんいまとなっては先生の言う怪物が、そんなUMAの類でないことなど知っている。もっと身近で、怖いもので、僕はこの後すぐに先生の求める怪物と対峙することになる。
三日後の、それもこの日のように学校からの帰り道だった。
※
岩肩が休みで、その日は朝から穏やかだった。
リーダーの岩肩がおとなしいと自然と三人組の残りの二人も静かになり、僕にとっては落ち着いた環境だったにも関わらず、岩肩の休みを知ってから、何故か胸のざわつきを抑えることができなかった。
委員会の仕事があって、放課後にすこし残っていたこともあり、学校が終わって外に出ると、まだ夜、と言える時間ではなかったが、細かな降り続く雨が景色を薄暗くしていた。
「三日前、みんなが帰るくらいの時間に、急に変なおじさんに話しかけられた女子生徒がいたそうです。別の学年の子で、特に何かされたわけではないとのことですが、とはいえ、いつ、誰が、危ない目に遭うか分かりません。学校が終わったら特に理由もなく残らずに、ひとりでの下校はなるべくしないようにお願いします」
と、ホームルーム時に担任の先生が普段よりも感情を殺した口調で言っていた。残念ながら僕には一緒に帰る相手なんていなくて、クリーム色のレインコートを身に纏って、ひとり家までの道のりをぼんやりと歩いていた。
こんな雨の日に変なおじさんに話し掛けられたら、どうしよう……?
変質者だって僕なんかは狙わないだろう、とは思いつつ、すこし強まりだした雨に重くなる足取りと、思ったよりもはやい勢いで暗さが増していく空の景色を見ていると、不安な気持ちが顔を出し、無理にでも誰かに、一緒に帰ろう、と頼めば良かったな、と思ってしまった。
変なおじさんがどんな外見をしているのかはまったく分からないのだが、不審者の話を聞いた時、僕は何故か三日前の先生から聞いた話を思い出していた。この、先生、というのは、もちろん担任の先生のことではない。ひどくややこしいのは分かっているし、確かにいまの僕は先生のフルネームを知っている。それでも、先生に本名を当て嵌めることが、どうもしっくりとこないのだ。
怪物……、と先生が表現した存在の正体も僕が知っていたわけではないが、同じ時期に聞いてしまったせいで、僕は勝手に怪物と不審者を繋げて考えていた。だから僕の想像する不審者は、その頃にちょうどびくびくしながらも見入っていたジェイソンやレザーフェイスみたいな人間離れした凶悪殺人鬼のイメージだった。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと背後に違和感を覚えて、後ろを振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。
まぁ、いるわけないか……、
と怖がっている自分に情けなくなりながら、また歩きはじめ、そしてふたたび違和感を覚えたのは、ほんの数分後、帰り道の途中にある公園の前を通り過ぎようとした時だった。
ぱちゃぱちゃぱちゃ、と背後から駆けるような足音が聞こえ、慌てて振り返ろうとした僕の頭に強烈な痛みが走った。
「殺してやる――」
意識を手放す瞬間、僕の耳に届いたのは声変わりもまだ終えていないような幼さの残る声だった。
気付くと僕は公園のトイレに座らされていた。
「起きたか」
と、見上げた先で岩肩が笑みを浮かべていた。
※
酷薄な笑みを浮かべて僕を見下ろす岩肩の表情は、いままで想像してきたどんな怪物よりも僕に怪物を思わせた。彼は頭の中に描いていたどんな怪物よりも、小柄だったにも関わらず、巨大な化け物よりもずっと恐ろしかった。
「俺が怖い?」
「え、あ」
と僕の口からは漏れるような音しか出てこなくて、首を横に振るしかできなかった。
「答えろよ……。いっつも、お前はそうだよな。俺の前だと、びくびくして。なぁ初めて話したの、覚えてる? 確か一年の時だよ。友達を作る自由時間でさ、俺が友達になろう、って手を出したら、すごい冷たい目で見てきて、どっかに行ったんだよな。お前みたいなやつが、俺に話し掛けるな、って感じだったよな。覚えてる?」
「お、覚えてない」
そんなこと、あっただろうか、という以前に一年生の時の自由時間なんて何も覚えていなかった。
「そうだよ。やられたほうはいつまでも覚えてるもんさ。たとえばこの前の水のやつだって俺たちはたぶんすぐに忘れるけど、お前はずっと覚えてるだろう? それと同じだよ」本当にこれは岩肩なのだろうか、と思うほど、その時の彼は大人びて見えた。「あの頃、誰よりも偉そうにしてたのは、お前だったよな。三年くらいまではお前はいつも誰かを攻撃する側だった。俺は身長もでかかったから、標的にはならなかったけど、特に大木なんか――」
「やめてくれ!」
僕のクラスにはひとり、不登校になっている生徒がいる。
「別にあれはお前だけが原因じゃないさ。でも、さ……。立場が変わった瞬間、いままでのことはなかったことにする。それって、ずるくないか。俺もお前も、大木も、立場が変わった瞬間、前の立場のことを忘れるか、忘れた振りをするんだ。卑怯だよな。俺にも腹が立つが、お前にはもっと腹が立つ。あぁ殺してやりたい、って」
本当にあれは岩肩自身の言葉だったのだろうか。まるで誰かに操られていて、どこかで聞いた受け売りをそのまま口にしているようだった。
誰か?
それは、きっと……。
なんとか立ち上がろうとする僕に、
岩肩が飛び掛かってきて、レインコートごと僕の首を掴んだ彼の両手に絞められ、激痛とともに全身が熱くなる。その手に込められた力の強さに、僕は死の恐怖を感じた。怖い怖い怖い。それは水責めなんかとは比べものにならない。その手は明らかに僕を殺すために動いていて、どんどん力は強まっていく。
嫌だ、死にたくない……。
「い、いわ、岩肩……!」
嫌だ、嫌だ。……死ぬくらいなら。
殺して……殺してやる――!
僕は岩肩の股間めがけて、思いっ切り足を振り上げる。靴の先が掠めた程度でさほど痛みはなかったはずだが、予想外の反撃に彼の手の力が弱まったのに気付いて、僕は岩肩の顔面……目の辺りを思いっきり殴った。顔を手で押さえる岩肩を見ながら、自分の中に残る冷静な部分が、逃げるにはこれでじゅうぶんだ、と告げていたが、そんな冷静さなど、ほとんどわずかしかなく、僕の感情を支配する怒りと憎しみに抗えるようなものではなかった。殺せ殺せ殺せ。
僕は岩肩の髪を掴むと、洗面所の鏡に向かって、彼の頭部を叩きつけた。
鈍い音が響き、岩肩だったものが倒れ込む。
だったもの、とその時点で判断してしまっていいほど、生きている気配がなかった。
ひとはひとが思うよりも簡単に死ぬ。人間は勝手に自分だけは死なない、と思っているから、自然と他者もしぶとく生きられるものだ、と勘違いしてしまうが、死ぬときなんて、恐ろしく呆気ない。先生のそばで死が隣り合わせになった世界に身を置いた僕には、当たり前のことでしかないが、この時の僕はその事実が信じられなかった。
殺しちゃった……。
それが内心の呟きだったか、本当に口から出ていたかさえ分からない。死んだことが分かった瞬間、冷静さが増していき、現実的な恐怖に支配されるようになる。レインコートからは雨雫が垂れ、額からは汗がとめどなく流れ落ちてくる。
僕はその場から逃げ出した。家を目指して、とにかく走った。その途中、僕は道端を歩くひとりの少年とすれ違った、それは久し振りに見る大木のような気がしたが、その場から逃げることにも精一杯で、顔をじろじろ見る余裕なんてひとつもなく、さらに雨の降る中、レインコートのフードをまぶかに被った状態では、どうもはっきりとしない。
ただそれが誰にせよ、僕はすれ違いざま、その少年に、
人殺し、
と言われた気がして振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。多分、幻覚で、幻聴だ。僕が人殺しだって、誰もまだ知るはずがないのだから。
「人殺し」
と、僕は僕自身に呟いてみた。
母が来るまで僕は、ただいま、も言わず、汚れたレインコートも脱がずに玄関で突っ立っているままだった。僕の顔を見た母は驚いた表情を浮かべていて、鏡を確認していないから分からないが、想像する限りよっぽどひどい顔をしていたのだろう。
「どうしたの?」
「何もないよ。本当に何も。ただ、転んだだけだよ」
いつも通りの母への返事だ。だけど僕の声はいつもと違って、震えていた。
※
その日を終えると、それまでの日常が崩れ、地続きではない非日常の明日が待ち構えていると思っていた。
だけど翌朝になっても、僕の家に警察が訪ねてくることはなかった。いつもと同じように、母が、おはよう、と言って、父はもう仕事に出ていて、窓越しに見える家の前の通りには、足早に、学校や仕事へと向かうひとの姿がぽつぽつとある。
何も変わらない、朝だ。
いや昨夜の遅く僕が眠るまで降り続けていた雨は、すでに上がっていて、僕を見下ろす太陽はいつもより鮮やかに見えた。とても綺麗な空は昨日の出来事を嘘のように思わせるが、もちろんそんな都合の良いことはない。
太陽は僕のためにあるのではなく、僕の想いや状況など関係なく、美しい時は美しい。
僕は確かに岩肩を殺した、とこの手が覚えている。外へ行くのが怖い。学校が怖い。目に入る人間、すべてが怖い。いつもと同じ日常はもう壊れる時を待っているだけで、あとはそれがどのタイミングで訪れるか、という話でしかない。いっそ早くその瞬間が来てくれ、と思いながらも、自分から罪を家族に告白する度胸もなく、ただ待つことしかできなかった。
その瞬間がやってきたのは、学校に着いてすぐのことだ。
だけど僕を迎えた非日常は想像していたよりも、もっと歪なものだった。
「岩肩が行方不明になった、らしい」
教室に入ると、岩肩の話題で持ち切りになっていて、だけどそれは岩肩が死んだ、という話ではなかった。行方不明になった、と聞かされた時、僕は自分の頭がおかしくなったのか、とまず自分自身の頭を疑い、次に考えたのが、彼が実は生きていた、という可能性だが、あの様子で生きているとは思えないし、仮に生きていたとしても病院に行くか、途中でまた倒れるか、僕に復讐しに来るか……、どんな形にしても行方不明にはならないだろう。
トイレの死体がまだ見つかっていないのか、とも思ったが、この時間まで誰も公園のトイレを利用しないなんてあるだろうか。朝に、あそこを利用しているひとは意外と多い。僕は敢えていつもの通学路を避けて、公園を通らずにきたのだが、それを後悔するほど、いまの公園の様子が気になりはじめた。
放課後になっても、僕を、人殺し、と糾弾する声はひとつもないままだった。
僕は学校が終わると、誰よりも早く教室を出て、僕は岩肩を殺したあのトイレに向かう。公園には親子連れが二組、ベンチの辺りでのんびりと話しているだけだった。
男子トイレに入ると、そこには誰もいなかった。死体もない。
「どうしたの?」
と僕の肩が叩かれ、心臓がびくりと強く音を立てた。
先生、だった。
「どうして……、ここ男子トイレ……」
無理やり絞り出した声は震えていた。
「死体なら、私がもう片付けた」
と先生は何でもないことのように僕に言って、ちいさく口の端を上げた。
「なんで……」
「なんで? でも私が片付けないと捕まってたでしょ。捕まりたかったのかな?」
僕は首を横に振ることしかできなかった。なんで、彼女が僕の罪を知っている。なんで、彼女が死体を片付けた。なんで、トイレに僕が来るのと同じタイミングで現れることができた。この、なんで、には色々な意味が含まれていたが、先生を前にして具体的に説明する余裕なんて僕にはなかった。
「まぁ説明してあげるから、ちょっと付いてきなさいな」
※
先生に連れられて、入った時とは反対の出入り口から公園の外に出ると、そこには黒いワゴン車が停めてあり、先生がまず運転席に乗り込むと、あなたも乗りなさい、と言うように運転席から僕に手招きをした。助手席のドアを開けて中に入ると、車内にただよう甘いにおいに僕は気持ち悪くなってしまった。
「吐かないでね」不快感で口に手を当てた僕に、彼女がそう言った。「このにおいは、あなたが原因なんだから」
「それって……」
「車に死体を乗せれば、そりゃ、臭くもなる。死の残り香が誰かに気付かれるようなことが万が一にでもあったら大変だもの」
「岩肩は……」
「川に捨てた」と、先生がその時の僕には本気か冗談か分からないような口調で言う。「物になってしまった以上、不要ならば取る手段はそれしかない、と思わない? 彼だ、と私は考えていたのだけれど、あなた、だったのね」
車がゆっくりと動き出す。僕はこれからどこへ行くのだろうか、と不安に思いながら、逃げようという気持ちにはならなかった。それは彼女の威圧的な雰囲気に呑まれていたのもあるが、何よりも僕は先生以上に、この地から逃れたい、とずっと思っていたからだ。
「どういう意味?」
「言ったでしょ。私は、怪物、を探してる、って。彼のほうに素質を感じていたけれど、怪物になったのは、あなたのほうだった」
「怪物……。僕は怪物なんかじゃ」
「何を言ってるの? あなたはもう人間じゃなくて、怪物よ。だってあなたは理性を失ったのだから。ほら、昨日のことを思い返してみなさい。人を殺した時、あなたは人間だった? いいえ違うわ。人を殺したいのと、実際に殺すのはまったく違うことで、なんでひとが殺意から殺人にいたらないか、というと、それは理性があるからよ。人間は本質的に理性の皮を被った怪物で、ほとんどの人間は死ぬまで皮を脱ぎ捨てることなく死んでいくけれど、たまにね……その皮を自ら剥ぎ取っちゃうひともいるし、後は脱ぎたくて仕方なくなっている人間もいる。あの岩肩くん、って子も脱ぎたいけど脱げずにもがいている気がしたから、そっと背中を押してあげようと思ってね」早口でしゃべる彼女の言葉はほとんど理解できなかったが、ただ分からないながらも彼女の言葉を不愉快だと感じ取ることはできた。「不満そうね。それは自分が怪物って言われたから? それとも私があの子をけしかけたこと? まぁ好きに恨みなさいな。ただ私が背中を押すのは、悪意からじゃなくて、そのほうが幸せだと思うから。人間でいられる者と人間でいられない者が共に生きるなんて、無理な話でしかないのだから、早めに気付かせてあげたほうがいいの。お互いのためにも、ね」
「僕は、人間だ」
「いいえ怪物よ。残念ながら人間は、あんな風にひとを殺さない。あなた自身が一番よく分かっているはずよ」僕はあの時、留まる機会があったにも関わらず、岩肩を殺した。僕自身が誰よりも知っている。「もうあなたは人間ではいられない。死体は私が処分したから、罪に問われることは確かにないし、私は別に誰かに話す気もない。この一件を無かったことにして人間の振りを続けようとするのは自由よ。そう選択するなら、私は口を噤んでいてあげる。だけど……」
あぁそうだ……。
「僕は……」
「もう自分の正体に気付くと、駄目よね」
僕の、怪物の心を見透かすように、彼女が言った。もう僕は、僕自身の心に嘘をつくことができない。僕は人を殺した。そしてまた同じことがあった時、また僕は人を殺すかもしれない。一度の過ちは未来に、絶対、を作れなくなる。
「どうしたら……?」
「私はこのまま村を出るつもりよ。あなたは自分で選べばいい。このまま私と来てもいいし、車から降りても構わない」
すこしずつスピードを上げていく車が、僕の家から遠ざかり、嫌気が差していた村を飛び出そうとしていた。なのに新たな世界へと向かっていくようなわくわくした気持ちはひとかけらもない。
「なんで、こんなことしているの?」
「趣味と……人助け。もう怪物でいるしかないのに、それでもまだ人間であることにしがみつこう、と苦しんでいるひとを見るとね。耐えられなくなるの。あなたは人間社会では生きられないんだから、いっそ怪物になってしまいなさい、って助けてあげたくなる」
本当だろうか? そう思いながらも、僕の返事はすでに決まっていた。
「一緒に行きます」
先生が向かっている場所さえも分からない。でも僕の存在を受け入れてくれる、と僕が信じられるのは、彼女しかいないのだ。この危ういひとしか、僕はよすがにするものがなく、そしてそれが二十年以上続いた、というのは間違いのない事実だ。
「じゃあ行きましょうか。あっ、あといままで使っていた名前は捨ててもらうね。新しく生まれ変わるんだから。名前は、コウ、で良い?」
「大丈夫。……でも、なんで?」
「怪物になれずに死んだ息子の名前よ」
そして僕は、彼女の助手となった。
この時はまだ先生が何をしている人間かはっきりと分かっていなかったし、長い月日が流れたいまも、実のところたいして知っているとは言えないほどに彼女は謎めいた存在として在り続けている。
第二話「怪物のいた村、1997」まとめ読み版(終)