探偵たちの冬 ―終わらないミステリの終わり― 第一部「1999年」①
第一章 1999年 ~one thousand nine hundred ninety-nine~
ぼくと叔母さんが雪白村へと出立したのは、正月の三が日を終えた翌日、ぼくたちは特急からその途中で各駅列車に乗り換えて岩手県相澤市まで向かい、そこから一日に二本しかないバスに乗った。凍結した路面をバスはゆるやかに走行する。乗客はぼくたちふたり以外には、年嵩の夫婦らしき男女が一組いるくらいで、運転手と合わせてその広い車内には五人しかいなかった。ぼくたちはバスの最後部の席に座り、夫婦らしき二人組がそこから三つほど空白の座席を挟んで、前方の席に並んで腰かけていた。
「緊張する?」と叔母さんが穏やかな笑みをぼくに向けるので、ぼくは小さく頷いた。「大丈夫。別にそんな怖い場所じゃないから。どうせ亜紀姉さんにおどされたんでしょ。あそこは、外も寒けりゃ、ひとも冷たい、って。まぁ全部が嘘とは言わないけど」
亜紀姉さん、と叔母さんが呼んだのは、当然ぼくの母のことで、秋に生まれたから亜紀になったらしい。ちなみに叔母さんは冬に生まれたから優希で、ぼくはなぜか夏に生まれたのに波瑠と名付けられた。こんな名前だからよく字面だけで女の子と間違われるけれど、ぼくは男だ。
「聞いてたの?」
と、ぼくがびっくりとして聞くと、優希叔母さんはぼくの顔の前で、手をひらひらと振って、「まさかぁ。全然聞いてないよ。まぁ姉さんならきっとそう言うだろうな、って思っただけ」
「そんな嫌なところなの?」
「姉さんが言うほど、私は別にそうは思わないけど、やっぱりまぁ結構な田舎だからねぇ。人間関係は密になりやすいし、私たちが、いま住んでいる場所とは勝手が違うのも、確か。良くも悪くも、ね」
バスが市内から離れたのか、窓越しに見える家屋の数が明らかに減り、それに比例するように晴れてはいたけれど道の端に避けられた雪の量は多くなっていった。
「もう、後、二十分くらいで着くかな。事前におばあちゃんに連絡したら、すごい喜んでたよ。初めて孫の顔を見れる、って」
優希叔母さんから聞かされるまで雪白村について存在さえ知らなかったように、ぼくは母方の祖母が生きていることも知らなかった。母からもうすでに死んだと聞かされていて、いまになって思えば、母の口調に違和感を覚える部分もあった気はするけれど、母が明言している以上、疑え、と言うほうが無理がある。
「おばあちゃんの家か……」
「初めての家だし、そりゃ緊張するか。でもおばあちゃんの家は民宿も兼ねているから、結構、住み心地もいいよ。たった三日だけど、すぐに慣れるよ」
「うん……、おぉ聞き覚えのある声がすると思ったら……」
前方から、夫婦らしき二人組の内の、その女性のほうがぼくたちに振り返ると、にこりとほほ笑んだ。
「あ、佐野さん。私も乗り合わせた時から見覚えあるなぁ、って思ってたんだけど。自信がなくて」
「良いのよ。それより久し振りじゃない。あ、……優希ちゃん」
「あ! 今、お姉ちゃんと間違えそうになったでしょ」
「あなたたちふたりは昔から似てるからね。……というか、こまめに帰って来ないあなたたちが悪い」
優希叔母さんが、佐野さん、と呼んだその老婦人は、すこしふっくらとした体型で白の混じった髪がとても印象的だった。
「本当にうちの村の若者たちは一度離れると、みんな例外なく戻って来ないんだから……、ところでそっちの子は向こうで作ったあなたの子?」
佐野さんの目がこちらに向き、緊張を覚えて、ぼくはどきりとする。
「ううん。私じゃなくて、亜紀姉の息子よ。姉さんに似て、格好いいでしょ」と優希叔母さんは冗談か本気か分からないような口調で言った。「冬休みだから、せっかくだし、ふたりで旅行に来たの」
「なんで優希ちゃんが……? 亜紀ちゃんは、ちゃんと母親の役目も果たせないひとなのかしら、そんなことしてたら織江さんが寝込んじゃうわよ。それに濫造さんだって草葉の陰で泣いちゃうわ」
佐野さんはぼくをじっと見ながらそんなことを言う。
言葉の端々に嫌なものを感じたが、それを口にもできず、ぼくは軽く目を逸らしただけだった。こういう役割のひとはこうであるべき、という凝り固まった先入観に悪気はないのだろうけれど、その悪気のなさが、余計に当時のぼくに不快感を与えたのだろう。他人のことでも聞きたくない言葉が、自分の周囲の人間に向けられる、というのは気持ちのいいものではない。
「そんなわけないでしょ。あのしっかり者の亜紀姉だよ。私ならまだしも。ちゃんと母親やってるよ。ちょうど私の暇と合ったから、波瑠……、あぁこの子、波瑠って言うんだけど、私に白羽の矢が立っただけ」
ぼくの心の内に気付いたのかどうか分からないけれど、優希叔母さんがそう否定してくれたので、ほっとする。
「ごめん、ごめん。分かってるわ。別に疑ってたわけじゃないのよ」
「あっ波瑠、ちなみにおばあちゃんの名前が、織江、って言うの。そしてもうずっと前に死んじゃったんだけど、おじいちゃんの名前は濫造」
「でも波瑠くん……か。確かに亜紀ちゃんに似てるかもしれんね。それにすこし濫造さんの面影もある」
「さっき私と亜紀姉の顔の区別もできないくらい、忘れてたくせに?」
「まぁ、いいじゃない、いいじゃない。そもそも似てるって言い出したのは、あなたでしょ。それに濫造さんにも似てるね。やっぱり。そう思わない、あなた」と佐野さんは隣に座る男性に声を掛ける。
振り向いたのは細い眼に角刈りの強面の男性だった。
「んっ、まぁ……」
男はそれだけ言って、また元の前方を向いてしまった。
「あぁこのひと、いつもこうだから気にしないで」
「朔治さんは相変わらずですね。ねぇ波瑠、佐野さんは夫妻で小料理屋を営んでいて、私たちがこれから泊まる家のすぐ近くにあるの。奥さんが夕子さんで、旦那さんが朔治さん。覚えた? 朔治さんは見た目こんなんで、無口で不愛想だけど、料理は絶品だから、波瑠がいる間に一回連れて行ってあげるね」
「えっ、あの……」
本人がいる前で、こんなんで、なんて、そんな失礼なことを言っていいのだろうか。怒っちゃうんじゃ……、と、ぼくの不安な表情を察したのか、奥さんである夕子さんが快活に笑う。
「気にしなくていいのよ。そんなことで怒ったりしないから。うちの村は昔から、女が男より圧倒的に強いんだから、そんな態度を取ろうもんなら、縛り付けて川にでも放り投げてやるわよ」
「さすがに殺人はやめて」と、優希叔母さんが笑って、夕子さんの言葉に続く。「でも、女が強いのは間違いね」
昔から母がことあるごとに口喧嘩で父を負かしていたように、母は強し、みたいな意味合いで使っているのだとばかり思っていた。しかしぼくのその考えは根底から間違っていて、その時はまだ気付けずにいた。
その後は夕子さんが一方的にしゃべって、ぼくと優希叔母さんがそれをただ聞くだけという形になり、その形が崩れることのないまま、バスは終点、雪白村へと辿り着く。バスから降りると、先ほど晴れていた空が大粒の雪を落としていた。
「こんな雪、中々、向こうじゃ見れないでしょ」
佐野さん夫妻と別れると、ぼくは優希叔母さんの後を付き従うように、初めて会う祖母の家を目指した。
「母ちゃん、ただいま」
祖母の家は二階建ての木造家屋で、外壁の塗装がところどころ剥げていた。広い家ではあったけれど、外側から受ける印象では、優希叔母さんの言う、住み心地の良さは何ひとつ感じられない。
「おお、おかえり……そして久し振り。もう帰って来ない、と思っていたよ」
と玄関の戸を開けて出てきた和柄の洋服を身に纏った女性が、ぼくの祖母に当たる織江さんだった。こういう呼び方をすると、とても他人行儀な気もするけれど、織江さん、とは結局この村でしか会わないままで、祖母、という印象は最後まで稀薄だった。だからぼくにとっての彼女は、おばあちゃんではなく、ずっと織江のままだった。
「姉ちゃんじゃないんだから……、私はたまに帰って来てるじゃない」
「ふむ……そしてくだんの姉は、男の子になって戻ってきた、と」織江さんが冗談めかした口調で、ぼくに目を向けた。ぼくが母の息子であることはもうすでに優希叔母さんから聞かされているのだろう。「亜紀と違って、垢抜けてはいるが、精悍な顔の良い男になりそうな子、だね」
織江さんが言うように、ぼくがいわゆる都会的な垢抜けた顔の持ち主だったか、というと、自分自身に疑問符を付けてしまうが、すくなくとも織江さんにとって評価の低い男性が洗練された佇まいであることは間違いなさそうだ。と言っても、洗練された顔がどういうものなのか、いまいち分かっていないのだけれど……。
「まぁ仕方ないじゃない。逆に聞くけど、姉ちゃんがここに帰って来ると思う?」
「二度と顔を合わせることはないだろうね。父ちゃんが死んだ時に、私はもう諦めたよ。私は亜紀らしいな、といっそ清々しかったけど、周りのひとは結構言ってたよ。あんたんとこの上の子は、薄情者じゃ、とか、人でなしじゃ、とか」
「ごめんね。あの時、説得はしてみたんだけど……」
「いいよいいよ。どうせ来るとは思っていなかったし、どっかで元気に生きてれば、それで、ね」
ほほ笑みながらも、織江さんの言葉尻はわずかに寂しげだった。
当時は断片的過ぎて、あまりぴんと来ずにこの話を聞いていたのだけど、よくよく考えれば、すぐに分かることだった。母は父の葬儀に出なかったのだ。特に田舎でのこういう態度に対する周囲の視線は冷たいのだろう、というのは、簡単に想像が付く。
織江さんは不思議な雰囲気なひとだった。先ほどの佐野さんの奥さんのように、こうあるべき、のような根強い先入観が稀薄で、それは放任主義と悪く捉えることもできなくはないけれど、家族を大切に想っているのは感じ取れるし、ぼくにとっては織江さんの態度のほうが安心する。ただ排他的な村社会の名残りをとどめる雪白村では、織江さんのようなひとは歓迎されない。織江さんが民宿をやっていることに対しても、快く思っていないひとは多い、と知ったのはだいぶ後になって、優希叔母さんから聞かされることになる。
「こんな話は、波瑠がせっかく来たすぐにするような話じゃないね。とりあえず、疲れただろうから、部屋に荷物を置いて。あっ、優希。優希の部屋を、波瑠に使わせてやって、優希は私の部屋で一緒に寝て欲しいんだけど、いいかい?」
「いやまぁ、いいけど、どうしたの? 亜紀の部屋、使えばいいじゃない。前に電話した時、いま誰も泊まってないって……」
かつて母と優希叔母さんの部屋だったふたつの部屋が宿泊客の寝泊まりする主な部屋となっているらしく、ぼくは祖母の自宅であるとはいえ、その民宿という言葉の響きにすこし緊張感を覚えていた。
「あなたから電話を貰った後、実は急に泊まらせて欲しい、って変わり者が来てね」
「変わり者、って……。お客さんにそんな失礼なこと」
と、優希叔母さんが呆れたような苦笑いを浮かべる。
「ああ、多分あのひとはそんなの気にしないわ。良い意味で、変わり者、なのよ。まぁそもそも、雪白に興味を持つ時点で……」
良い意味、と言いながらも、その言葉に含みを感じた。
「民宿の矜持くらい持ってよ。こんな村に宿泊客なんて全然来ないってのは、知ってるけど、みんなの反対を押し切って、ここをはじめたんだから。それに……、気にしない、って本当に? 母ちゃん、良い意味、って付ければいいと思ってるところあるでしょ。どんなひとなの?」
「うーん……――」
考える仕草をする織江さんの言葉を待っていると、階段を下りる足音が聞こえてきて、織江さんが「あっ、ちょうど下りてきた」と言った。
そのひとが織江さんの言う、変わり者、だということは聞かなくても分かった。眼鏡を掛けた、背の高い男性だった。人懐っこい笑顔を浮かべているけれど、ぼくが最初に抱いた第一印象は、すこし怖い、だった。すこし話してみると、その印象は大きく変わるのだけど、良い人、だったか、と言われると首を傾げてしまう。
ただ織江さんの変わり者という言葉が腑に落ちる人物であることは間違いなさそうだった。
今も実家のぼくの部屋には、一冊のミステリ小説がある。それは表紙もなく、日に焼け傷み切った文庫本で、ぼくが人生で初めて読んだミステリだった。
『オリエント急行の殺人』というタイトルの作品だ。
ミステリという言葉の知名度と同じくらいに有名な作家のひとりであるミステリの女王、アガサ・クリスティが描いた名作だけど、ぼくはそれまで、ミステリもアガサ・クリスティも知らなかった。
その本をぼくに貸してくれたのが、彼だった。いつか返したいと部屋に残してあるけれど、ふたたび彼と会うことはないような気がしている。
彼から聞かされた彼の名は、古泉弥蜘蛛。
コイズミ・ヤクモ、と呼ぶ。
もちろん本名ではなく、ペンネームだ。作家、民俗学者などとして有名な小泉八雲から取ったらしい。本当の名前は知らない。