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優しい街
優しい街。この街はそんな風に呼ばれています。
青年は生まれてから一度もこの街を出たことがなかったので、他の街のことを知らないのですが、みんなは口を揃えてこう言います。
この街のひとはみんな優しい、と。
判断基準を持たない青年は、別に疑う理由もなく、幼い頃からそういうもんなのかな、と思いながら育ちました。
この街で生まれたひとのほぼすべてはこの街で暮らしたまま、その人生を終えます。
「こんなに優しい街なんて、他にないんだから、出る意味なんてないよ」
みんな口を揃えて言います。
青年もずっとそう思って暮らしてきたのですが、何故か最近、他のひとと話していると、「うん?」と首を傾げたくなることが多くなりました。
でも、その違和感の正体が分かりませんでした。誰かに聞きたくても、どう聞けばいいのか分かりませんでした。
さっきも、
「隣町では殺人事件が多発しているらしいよ」
「いやー、怖い怖い。うちはみんな優しいからそんな犯罪をするひとなんて、どこにもいない。変なところに住まなくて良かったな。まぁ後は変な奴がこっちに逃げ込んで来ないことを願うだけだ」
「嫌だ。お父さん。冗談ばっかり。この街の入り口は厳重に封鎖されているから、誰も来たりしないわよ」
「ははは。それもそうだな」
と、父と母が話していて違和感を覚えてしまいました。今までこんなことなかったのに……、なんで違和感を覚えたのかは全然分かりません。
おかしいのは自分だ、と青年は自身の心に言い聞かせることにしました。みんな優しいのに、自分だけが優しくない感じがして、とても不安になったからです。
青年は会社へ向かうためのバスに乗りました。
青年が座ったことで、バスの座席は埋まってしまいました。
その後、ひとりの年配の女性がバスに乗り込みました。すると座っていた若者のひとりが立ち上がって、「おばあさん。良かったら。どうぞ」と言いました。
「ありがとう。でも、大丈夫ですよ」
と、女性がにこりとほほ笑みました。
「いえいえ。お気になさらず」
「では、お言葉に甘えて」
今まで何度も見たような会話です。でも、そんな会話を見ながら、また心の奥に封じ込めていた違和感が顔を出します。
会社に着くと、青年の隣のデスクの女性社員がまだ来ていませんでした。
五分、十分……と待ってもなかなか来ず、到着したのは始業の五分後でした。
遅刻した女性社員が「すみません!」と焦ったように室内に入ってきました。
青年は一応、その女性社員の上司に当たるので、一言注意しなければいけない、という気持ちになりました。
「あの、さ――」
と青年が申し訳なさそうな表情を浮かべる女性社員に声を掛けようとするのをさえぎるように、
「Nくん、きみ、遅刻じゃないか」と部長が野太い声とともに近付いてきました。
部長直々に注意するのかな、と思っていたら、
「まぁ済んだことは仕方ない。まぁちょっとくらい遅刻できるやつのほうが、将来大物になれるぞ。ははは」
と笑って終わらせてしまいました。
あぁそうか……。注意するのは、優しくない行動だったのか……。やっぱり青年は、その優しさに、違和感を覚えてしまいます。
仕事を終わらせて会社を出た青年は家に帰りたくない気分でした。特別な理由でもない限り夜道を歩くことは推奨されていませんでしたが、会社の帰り道と言えば許してもらえるでしょう。
青年は街の入り口付近まで足を延ばすことにしました。
そこには外界との関係を断ち切るような厳重で巨大な仕切りがあります。
外へ出た人間を青年は知りません。そもそも仕切りの外へと出ることは禁じられているので、逃げる以外に外へ出る方法はありません。
こんな優しい街にも脱走者がいます。
なんで逃げるのでしょう。かつての青年にとっては不思議で仕方のないことでしたが、今ならその気持ちがすこし分かるような気がします。
その優しさは、誰にとっての優しさなのでしょうか。
そう考えた時、近くで大きな怒鳴り声が聞こえました。
「お前らの優しさなんて、もううんざりだよ!」
青年が茂みに隠れてその様子をうかがうと、ひとりの中年男性がふたりの男に取り押さえられていました。
「俺の優しさは、お前らの優しさとは違うんだ。押し付けるな!」
中年男性を取り押さえているふたりの男は、何度か顔を合わせたことのある街の門番でした。いつも侵入者と脱走者の監視をしているとは聞いていましたが、実際に仕事をしているのを見るのは初めてでした。
そして中年男性のほうも見覚えがあることに青年はようやく気付きました。
近所に住んでいる昔からの知り合いのTさんでした。Tさんはふたりの男に連れられ、三人は夜の闇に消えていきます。
あれから数ヶ月の月日が経ちました。
あの日以降、Tさんを一度も見ていませんが、誰もTさんについて言及しません。まるでみんなの記憶が書き換えられてしまったかのように、Tさんをいないものとして扱うのです。
違和感はどんどんと強くなっていくばかりで、
青年は優しい街の優しさに窮屈なものしか感じなくなっていました。
だから、青年はせっせと準備を始めました。
(了)