探偵たちの冬 ―終わらないミステリの終わり― 第一部「1999年」②
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「よろしく、古泉と言います」と、その時の彼は笑顔でそれだけ言った後、織江さんに目を向けて、「すこし外に出てますね」と続けた。
たった三日の我慢だし、できる限り関わらないようにしよう、と彼に対して敬遠したい感情が先に立ったのを覚えている。
何がそれほど怖かったか、というと、ぼく自身とても曖昧な感情で、はっきりと言葉にはできない。ただ嘘の色を宿したような瞳の奥とは不似合いに笑いを貼り付けた表情が、ぼくに不信感を与えたような気がする。一口に言えば、なんか胡散臭くて、気に食わない、というのが第一印象だったのだろう。
「もしかしてまた琴吹さんのところに行くの? もうやめときなよ。みんなから睨まれると、私としてもあなたを泊め続けづらくなるんだから」
「いやぁ、申し訳ない。悪いとは思っているのですが、こう……好奇心の虫がうずくと、こらえられなくなっちゃうんですよ」
「まぁ止めても、勝手に行くだろうから、これ以上は言わないけど……。確かに私は一言注意したってことは忘れないでね」
「もちろん。迷惑は掛けないので安心してください」
作業用に使うのではないか、と思ってしまうほど、大きな黒の長靴を履き、古泉さんは外へ出て行き、その背を見ながら、
織江さんが、
「まったく子どもよりも自制心の足りない大人ほど厄介なものはないね」
と、溜め息を吐いた。
「彼は、市内のひと?」
と、優希叔母さんが、織江さんに聞く。
「いや……東京のひとらしい」
「へぇ東京からひとが来るなんて、めずらしいこともあるんだね」
「みんな警戒してるよ。特に琴吹さんなんて……あぁ、まぁそんなことより、いったん荷物を置きに部屋に行くといい。優希、波瑠に部屋を案内してあげて」
古泉さんとの出会いはこんな感じだった。だけど苦手な雰囲気で、遠ざけたかったその相手は、結局ぼくが雪白村にいる間、もっとも大きく関わるひととなってしまうのだけれど……。
荷物を置いてから、すこしの間、織江さんや優希叔母さんと雑談――話題は特に母に関することが多かった――を交わしている内に、窓越しの、その先で舞う雪の粒が弱まっていることに気付いた。
「雪、止みそうだね」
と、ぼくが言うと、
「良かった。これ以上、積もられると、もう雪かきがね。幸い今は古泉くんに優希に、と人手は足りてるけどね」
と、織江さんが答えた。
「ちょ、ちょっと母ちゃん。私はまだしも、お客さんに手伝わせるのは、どうなの?」
「その代わり、値段は割安にしてるから。それに古泉くんは変わり者だけど、そういう雑用に本当に協力的で、ありがたい限り」
「まぁふたりが良いなら、別に何も言わないけど……でもこの雪くらいなら、まだ明るいし、波瑠もちょっと外に出てみたら。遠くまでは行かないでね。それに、ちゃんと道が出来ているところ以外は駄目。下が畑で、身体がすっぽりなんてこともあるからね。それで死んだひとだ、っているんだから」
「あぁそう言えば、優希も子どもの時、そんなことあったね。『凍え死ぬー』って泣いてた、っけ。まぁ昔ほど雪も多くないから、いまはこの近辺で、あんまりそんな話は聞かないけど、ね」
「やめてよ。そんな昔の話」
「優希も付いて行ってあげたらいいじゃない」
「それもそうなんだけど、ちょっと私は母ちゃんと話したいことがあって……」
この時のぼくは全然知らなかったのだけど、当時の優希叔母さんは勤めていた会社を辞めるかどうかで迷っていた時期で、ぼくがいない隙を狙って実家に帰る相談をしていたらしい。冷静に考えれば、叔母が甥っ子を気晴らしの旅行に、しかも自分の生まれ故郷に連れていく、というのは不思議な話だ。相談事を穏やかなものにするための雰囲気づくり、緩衝材として、ぼくを必要としたのだろう。
純粋な善意よりも、そういう理由のほうが、ぼくとしても腑に落ちる。
あとで申し訳なさそうに優希叔母さんが語ってくれたのだけれど、そのことで腹が立ったり、というのはなかった。確かに雪白村で起こった出来事に関わり、嫌な目にも遭ったわけだけど、それに叔母はひとつも関係なく
「こんなところに連れて来なかったら」と恨むのはあまりにも筋違いだ。
ジャンパーを羽織り、長靴を履いて外に出ると、降る雪の強さが弱まっていたおかげで、来た時よりもゆっくりと落ち着いた気持ちでその風景を眺めることができた。その時は現実的な雪の問題を頭では分かっていても実感としてわくことはなく、ただ雪で覆われ、どこまでも白の続くその村の姿が幻想的に感じられた。自分はいま、世俗から離れたような場所にいるのでは、という非日常的な感覚が、学校生活のような日常を些末なものに感じさせた。
ぼくは、織江さんの民宿を離れ、当てもなく民宿の近くを歩いた。踏む雪はやわらかく、足もとは不安定だった。
すこし歩くと、織江さんの民宿よりひと回りほどの大きさの家屋があり、雪が地面の草を覆い隠した庭を挟んで、『琴吹』と書かれた表札が見えた。あぁ、ここがさっき織江さんの話していた、琴吹さんの家かぁ、とその軒下に成した、つららをぼんやりと見ながら、ぼくがそんなことを考えていると、玄関の先、扉を挟んだぼくには見えない場所から怒りの色がいくぶん強く感じられる鋭い声が聞こえてきて、その声音に重なるように、その家の屋根に降り積もった雪のひとかたまりが崩れ落ちて、元の形を失った。
怒鳴り声というほどのものではなく、はっきりとした内容までは聞き取れなかったけれど、ふいに届いたその声にぼくはびっくりとして、先ほどの織江さんと古泉さんの交わしていたやり取りを思い出し、不安になってしまう。
誰かと喧嘩でもしているのではないか、と。
引き戸の玄関が、がらがら、と音を立てながら開き、外に出てきた古泉さんと目が合う。頬を掻くその表情からいまいち感情は読めなかった。悪いことをしているわけではないのだけれど、何となく見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、ぼくはその場を慌てて離れようとしたが、かぽん、と雪深い場所を踏み抜いた長靴から出る音は思いのほか大きく鳴り、その音に気付いた古泉さんと目が合う。
「うん? あぁきみはさっきの――」
結局、ぼくは古泉さんと織江さんの民宿まで一緒に帰ることになってしまった。瞳の奥に笑っていないような感じは、ぼくが受けた印象に過ぎず、くだけた口調の柔らかさや、穏やかな笑顔など、その瞳の奥のほかにはっきりと嫌な感じを受けるものはなかった。
すこしだけ警戒を解きつつ、ふたりで並んで歩く道すがら、
「織江さんのお孫さん、と言っても、きみがこの村に初めてかめったに来ないわけだよね。生まれは、どこなんだい?」
と、古泉さんがぼくに聞くので、
「なんで、ぼくが初めて来たって分かるの?」と返すと、
「それは相手をしっかりと観察してるからだよ」と古泉さんが薄く笑みを浮かべる。「きみの履いているその傷みの激しくなった長靴は、きみのではなく、借り物だろう? サイズが全然合っていなくて、歩きにくそうだ。この村の子か、もしくはここに頻繁に訪れる人間なら、自分専用の長靴を一足くらい持っていなければ不便で仕方ないだろう。あとはまぁ、靴のせいだけじゃなくて、雪に慣れていないような歩き方をしていたからな」
確かにぼくの履いていた長靴は借り物ではないが、父方の親戚のお下がりを貰ったもので、雪を舐め切っていた父とぼくが、すこし合わないけれど、この長靴で問題ないだろう、と母と優希叔母さんの反対を押し切ったものだ。雪国の生活を知らない者に、この雪深い景色を実感として持つことは難しい。もっと強く反対してくれれば良かったのに、と母に対しての理不尽な文句が心の内で出てしまったくらいだ。
「そんな細かいところ……」
「別に細かくもないんだけどな。自分ではたいしたことに思えないものが、他人の目から見ると、やけに気になる、なんてのはよくあることさ。特に俺は昔からそういった部分に敏感だから」
ぼくたちふたりが一緒になって帰ってきたのを、優希叔母さんは不思議そうに見ていたけれど、織江さんはそれほど驚いてはいないような様子だった。古泉さんが他者とのコミュニケーションに積極的なひとだという印象が織江さんの中で根付いていたからだろう。
「気に入られたみたいだね」
と、ぼくたちの姿を見て、笑みを浮かべていた。
この時点でぼくという対象を古泉さんが気に入っていたかどうか、というと、もちろんそんなことはないはずだ。ただすこしの間、会話を交わしただけの関係に過ぎない。ただ彼がぼくに対して、外から来た人間だ、ということで多少なりとも興味を持ったのは間違いなそうだ。
織江さんの作った夕食を終え、窓越しに見える陽の沈んだ空は街灯のすくない冬の村では、ぼくの知る夜よりもさらに濃い黒で染められていた。冬の雪白村の夜空に瞬く星々はとても綺麗で、それだけがあの村の取り柄なの、と家を発つ寸前、村へと向かうぼくを諦めたような表情で見送った母から聞いた言葉が耳に残っていて、見上げた夜空に映える星々が淡く黄色に発光し、確かに母の言葉通りの美しい風景を成していた。
ぼくはかつて母が使っていた部屋の戸をノックした。
古泉さんから「遊びに来ないか。この村の面白い話を教えてあげるよ」と言われて、断りづらかったのもあるけれど、面白い話、という言葉に惹かれたところもあった。
「ようこそ」
と戸を開けた古泉さんに招かれて部屋に入ると、そこはリュックサックなどの古泉さんの荷物がすこし置かれているだけの殺風景な空間が広がっていた。ぼくが使うことになった優希叔母さんの部屋には、優希叔母さんの私物と思われるものが多少あって、生活感の名残りのようなものがあったけれど、こちらの部屋には母の名残りらしきものがひとつも感じられなかった。
いま思えば、織江さんの中で、優希叔母さんは戻ってきて、母はもう帰っては来ない、という想いがあり、それが部屋の様子として表れていたのかもしれない。ぼくの考え過ぎかもしれないが、それから十年の年月を経た今も、母はぼくの知る限り一度も雪白村の地を踏んではいないし、優希叔母さんは今やもう雪白村の住民に戻っている。そして村に帰ることを決めた時に母と大喧嘩して、絶縁状態にもなっていた。
「し、失礼します」
緊張しながら、辺りをきょろきょろとさせていると、
「そんなに緊張しなくてもいいじゃないか。別に誰も取って食いやしないさ」
と古泉さんが笑った。
古泉さんは白のよれたトレーナーにスウェットパンツという、もう外に出る気のない様子が身に纏うものにはっきりと表れているようなラフな格好をしていた。
「すみません……」
「あぁ、そう言えばちゃんと自己紹介をしていなかったな。うーん、と」古泉さんが履いていたスウェットパンツのポケットから名刺入れを取り出し、そこから出した一枚の名刺をぼくに手渡した。「ちなみに織江さんからはどんな風に、俺のこと聞いてる?」
「え、っと、いや、特には……」
さすがに、変わり者、と言っていたなんて本人には伝えられないので、ぼくはほおを掻いて、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「うん? まぁいいさ。どうせ、変わり者だ、変人だ、なんて言ってたんだろ。別に気にしないさ。この村にとって俺は招かれざる客だからな」
ぼくはそれにははっきりと答えず、名刺の文面に目を向けた。
ぼくが、古泉弥蜘蛛、というペンネームを初めて知ったのは、この時だった。職業はライターと書かれている。
「コイズミ・ヤクモ……」
その語感には何となく聞き覚えがあったけれど、どこで聞いたのか思い出せずにいると、古泉さんが乾いた笑いを混ぜて、
「もちろん本名じゃない。いわゆるペンネーム……筆名ってやつだ。小泉八雲っていう、昔、すごい作家で民俗学者の先生がいてな。その名前にあやかって付けたんだ。俺もこの名前を付けてからは、在野の民俗学者を自称してみたりもするが、まっ、残念ながら、本物の先生の足もとにも及ばないどころか、その踏んだ足跡の先の地中深くにいるような存在だが、な。しがないライターだよ。『ヌー』っていう雑誌でたまに文章を書いたりしてる、怪談や都市伝説専門のライター」
「『ヌー』って聞いたことある」
「それは有名な似た名前の雑誌と勘違いしてるな。俺がいるのは、もっと紛い物の誰が読んでいるかも分からない三流雑誌だよ。ただまぁ内容は意外と硬派なところもあって、俺は嫌いじゃないんだけどな。明らかな嘘の捏造はしないし、証拠探しもしっかりとする。趣味の延長線上にいる人間たちが集まったサークルみたいな雑誌だから、素人っぽさが強いけれど、熱もあって」
結局この『ヌー』という有名なオカルト雑誌の紛い物のような月刊誌はぼくが中学生だった頃に、廃刊してしまった。なぜ知っているか、というと、古泉さんと出会ったことが頭に残り、購読していた時期があったからだ。外見のうさん臭さに比して、意外と内容はしっかりしたものだと記憶している。1990年代後半のこの時期は、テレビでオカルト番組もよく放映していて、その流行に乗っかった形で創刊されたけれど、ブームの終息とともに消えていった短命な雑誌だったみたいだ。
ただぼくが読み始めた頃のその雑誌には、古泉弥蜘蛛という名前をどこにもなかったのだけれど。いまとなれば、もしかしたらすべてが嘘だったのでは、と思わないわけでもないけれど、調べるために過去の雑誌に当たってみたことは一度もない。
「それの取材?」
「まぁ取材だな」
「すごい……」
「別に何もすごくなんてないし、そもそもこれが記事として使われるかどうかも分からない。噂を聞いたら、記事になろうとなるまいと、まずそこへ足を運ぶんだ。そこに謎があったら別に解けても解けなくてもいいんだ。その謎と対峙して、解き明かそうとする過程が楽しい」
「解けなくてもいいんだ」
「昔から俺はミステリが好きなんだけど、でも一番好きなのは解決篇じゃなくて、導入なんだ。魅力的な謎を見ると、わくわくするんだ。きみぐらいの頃、俺はミステリ作家になりたかったけど、今はこの都市伝説ライターが天職だと思っている。でもそれも当時のミステリ好きだった時代があってのことだ」
「ミステリ……」
「ところできみはミステリが好きかい」
「多分読んだことない」
「そうか……。今は活字離れなんてのが、進んでいるそうだからな。良かったら。これを読んでみるといい」
なぜか古泉さんはぼくが小説を読まないと決めつけていたみたいだけれど、正しくはミステリを読まなかっただけで、小説自体はよく読むほうだったはずだ。ただ、わざわざ訂正するようなことでもなかったので、ぼくは彼のその言葉に頷くだけだった。
そう言ってぼくに渡してくれたのが、一冊の表紙のない文庫本だった。それはその佇まいだけで何度も繰り返し読まれたのが分かり、ぼくは『オリエント急行の殺人』を受け取ってから、
「帰るまでに、返しますね」
と答えた。
「まぁもう内容も覚えているから無理に返さなくても大丈夫だよ」
「いえ、ちゃんと返します」
実際のところがどうだったのかを本人から聞いたわけではないので分からないけれど、大事にしている本でつねに携帯しているものだ、とその文庫本をひと目見た時から感じていたので、すぐに読んで返さなければいけない、という気持ちになっていた。
しかしそれを返す機会は今になっても訪れてはいない。
「ミステリを読むと、何がいいか、って言うと、今まで目を向けていたものから離れて物事が考えられるようになる。ひとつの見方に別の見方を加えられるようになるんだ」
古泉さんへの恐怖心が消えたのは、この時だった、と思う。確かに彼は変わり者だったのかもしれないけど、あぁこのひとともうちょっと話してみたいな、という感覚を抱いたのも事実だった。
「……と本題を全然話してなかったな。そう面白い話というか、この村の伝説、というか事件というか、そういうものがあってな。その出来事についての話が、編集部に届いて、俺に調べて欲しい、と白羽の矢が立ったんだ。どんな出来事だと思う?」
仕事の話を無関係なぼくにぺらぺらとしゃべってしまっていいのだろうか。子どもらしくないと言われればそれまでだけど、その話を聞かされて最初に浮かんだのは、そんな感情だった。子どもだから別にいいだろう、という軽率な理由にも思えなかった。
なぜぼくに話したのか。その理由、彼の目的を知るのは、もうすこし後のことになる。
「この村には女神信仰があるらしくてな」
「女神信仰?」
「女神と言っても、本当に天からやってきた女神がこの村にいて、とか、そんな童話みたいな話じゃない。すこし難しい話に感じるかもしれないから、分からないところがあったら、止めて質問してくれ」
「うん」
「厳密には女神のように、敬われている女性がいる……というより、敬われていた女性がいたんだ。その女性は1950年代の中頃から60年代の終わり頃までこの村の村長をしていて、実際に敬われていたのかどうかは知らないが、その時期、村を牛耳っていたのが、彼女だったのは間違いない。この辺のことをもっと詳しく聞きたいとは思っているんだけど、ここの住民はなかなか口が堅くてな」
「だからさっきの家にも……」
琴吹さんの玄関での一件は、こういう村にとってデリケートな部分を古泉さんが根掘り葉掘り聞こう、とした結果だったのだろう。住民が嫌な顔をして、そのしわ寄せが本人以上に、織江さんに向かうのも無理のない話だった。
「琴吹さんは、この村の最長老と呼ばれているひとだからな。頭もしっかりとしているし、実りの多い話を聞けると思ったんだけど、手強くて、な。若いひとたちはそれなりにただの言い伝えくらいに思ってるからか、意外と話してくれるんだけど、当時を知るような高齢者たちの口は堅い堅い。まだ俺も断片的な情報を推測込みで繋ぎ合わせている段階なんだけど、この謎めいた物語は、俺を予想もしていない場所へと連れて行ってくれる。そんな気がして、わくわくが止まらないんだ」
その時の彼の眼差しは子どものぼくよりも、無邪気な子どものような目をしていた気がする。好奇心の強い大人が当時ぼくの周りにはすくなかったので、その姿は不思議な魅力として、その頃のぼくには映ったけれど、いま思えば、それは裏返すと、未熟さの表れで、危ういものでもある。好奇心は猫をも殺す、という言葉もあるくらいだ。
「もし、きみが協力してくれるなら、分かっている段階の話を教えてあげるよ」
餌を垂らすように、古泉さんの言葉には甘美な響きがあった。
ぼくが生まれて初めて誰かと探偵と助手の関係を結んだのは、きっと梶井和已ではなく、古泉さんなのだろう。
謎の魅力に抗えなかったのは古泉さんだけではなく、ぼくも同様だったみたいだ。
「教えてください」
その言葉を、待ってました、とばかりに、古泉さんは長い長い話をぼくに語って聞かせてくれた。目的があってのこととはいえ、楽しそうに話す彼の表情は、本当に誰かに話したくて仕方のなかったひとのものだった。
話は深夜過ぎまで続き、ぼくは疲れていつもよりも強かったはずの睡魔さえも忘れて聞き入ってしまった。それだけ古泉さんの話術が長けていた、ということでもあり、もしも彼が詐欺師だったなら大金持ちにでもなっていたかもしれない。
結局ぼくたちの話し声に気付いた織江さんが、ぼくたちのいる部屋へと来て、早く寝るように、と窘めるように言って、そこで会話は中断してしまったけれど、その時には聞きたい話自体はほとんど終えてしまったあとだった。
ここで古泉さんから聞いたことをくどくど説明する必要はないだろう。それ以降のぼくが雪白村で出会った色々なひとたちとのやり取りの中で、おのずと明らかに分かっていくことだからだ。ぼくの言葉だけで詳らかにしていくのは、あまりにもつまらない。
ただ留意しておかなければならないのは、語る人間によって同じ話をしていてもすこしずつ内容が違う、ということだ。当たり前のことかもしれないけれど、この事実をぼくたちは蔑ろにしてはいけない。
それは事の真相をすべて把握してるものは誰もいない、とも言えるのではないだろうか。各自が部分的に知った事実に推測を加えて話しているので、仮に意識的に嘘を吐いたわけではなかったとしても、間違った事実としてぼくの耳に伝わることはある。
雪白村での一件の後、ミステリが身近になり、高校時代に梶井和已と出会ったぼくにとって、これはわざわざ言葉にするほどのことでもないけれど、あの頃のぼくにもうすこし思慮深さがあったなら、この謎はもっと単純なものになり、そしてこの悲劇はもしかしたら起こらなかったのではないか。
後悔しても、もう遅い。分かってはいても、その悔いが頭から離れることはなかった。