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探偵たちの冬 ―終わらないミステリの終わり― 第一部「1999年」⑤

(第一部「1999年」④)



 尊敬を集める一方で、男を喰らう女神と裏で揶揄された理瑛さんを、楓はエロババアと呼んだ。

 村長として、大きな屋敷に住むようになった理瑛さんだったが、家族は持たず、生涯、独身を貫いた。夜な夜な、そのお屋敷を何人もの若い男が交代して訪れていて、そこで何が行われているのかを理瑛さん自身も若い男たちも一切口にはしなかったけれど、彼らは理瑛さんの夜の相手、有り体に言えば理瑛さんは彼らと性交を繰り返していた、というのが、村人にとっての暗黙の共有事項になっていた。

 古泉さんから初めてその話を聞かされた時、その立ち上がる淫靡なイメージに、どきり、としてしまった。

 ながく村長の座に君臨してきた理瑛さんだったけれど、村の政治にほとんど関わることはなかったらしく、病魔や厄災を村から追い払うための象徴として村人からは扱われていた、という印象が強い。病気を治す能力を持つ、というだけで、村の繁栄を考えてもこれ以上、特別な能力はないのだから、それだけでも絶対的な権力を有するに値するのかもしれない。

 理瑛さんは1980年に入ってすぐに鬼籍に入ったけれど、六十年代から七十年代にかけては一度も別の人物に代わることなく村長の役職に就き、ではこの間、村に医者が要らなかったか、というと、もちろんそんなことはなく、まず男性の病気を治すことができず、そして晩年は特に病の回復を願って彼女のもとを訪れる女性の住民たちさえも拒絶する傾向にあった、という。

「理瑛の死後、彼女に関わった男たちが見舞われた悲劇。俺が何よりも調べたいのは、それだ」

 初日に古泉さんはそんなことを言っていた。

 それが二日目に楓から聞かされた壊された銅像の話に直結していくわけだけれど、古泉さんは銅像の話までは知らなかったみたいだ。いや、もしかしたら知っていたけれどぼくには言わなかったという可能性もある。ただそんなことをする理由が浮かばないので、知らなかったと考えたほうが、ぼくとしては、しっくりと来る。だから古泉さんが話を聞いたひとたちは、意識的なのか偶然なのか、までは分からないけれど、古泉さんにその銅像の話を伝えなかったわけだ。

 この頃のぼくは、どこか非日常の冒険を楽しんでいる面が大きく、そこにひとの心が介在していることに対してあまりにも無頓着だったような気がする。だけどこの話はぼくが考えていたよりも、村に塗りつけられた憎しみの色はずっと濃かった。それは危険なことだ、と楓は警告してくれていたのだ。

 たぶんぼくが本当の意味で真剣に過去に起こったその事件と向き合おうと決めたのは、楓の死後、この時から十年もあとのことだった。ぼくと雪白村の過去の事件はまったくと言っていいほど関わりがなく、そして現在の事件との繋がりがどれほどあるのかはいまのところ分かっていないけれど、まったく関係ないとは考えられない。ほんのすこしのことで、未来は簡単に変わる。ぼくが最初から関わろうとしなければ、いやそもそも雪白村に行きたい、という意志を示さなかったら、元を辿ればカウンセリングに通わなければ、もしかしたら楓の死だけでも防げたのではないか、とそんな考えが何度も脳裏をよぎったりもする。

 翌日も、古泉さんはぼくに、一緒に行かないか、と誘ってくれたけれど、ぼくはそれを断った。楓との約束があったことが一番の理由だったけれど、古泉さんと険悪になった祖母の目が気になったのも事実だ。

 古泉さんとだけじゃない。母と祖母の間にも微妙な距離を感じて、ぼくは昨晩に聞いた口論のような声を思い出していた。

 このまま古泉さんと行動をともにしたい、という好奇心もあった。だけどその一方で、織江さんの咎める視線に、そのぴりぴりとした空気に、あなたはどっちの味方なの、と責められているような気分にもなった。

 楓との待ち合わせを選んだのは、先に約束したのが楓だった、というのもあるけれど、トラブル避けたい気持ちも大きかった。

 だけど……、

「わたしが中学生くらいの時だったかな。亜紀姉さんはもう高校に行っていて、姉さんの通っている高校はこの村はここからすごく遠くて、部活もしてて帰って来るのも遅かったから、すれ違いが多かったんだけど、その話はよくふたりでした覚えがあるの。亜紀姉さんはあの頃、反抗期真っただ中って感じで、家にいる時は全然話してくれなかったんだけど、その話をしてきたのは姉さんのほうからだった」

 望もうと望むまいと、ぼくはこの一件から逃れられなくなってしまったみたいだ。

 結局、その日、待ち合わせ場所に楓は現れず、ぼくは佐野さん夫妻が営んでいる小料理屋のカウンターで酔った優希叔母さんから、かつての事件の話を聞かされることになったのだ。

 優希叔母さんたちに会ったのは偶然だった。

 約束の昼過ぎに、ぼくは〈理瑛様 銅像跡〉と記された看板のある待ち合わせ場所に向かうと、そこには誰もいなかった。すこしの間、待ってみると、遠目に見覚えのある顔があり、目を凝らすとそれが楓の弟の奏くんだ、と分かった。焦りを隠さず口調も強かった昨日とは違い、その日の奏くんはとても落ち着いた表情をしていて、初めて話した奏くんは声変わりを終えていないのか高く澄んだ声をしていて、それはとても小さくもあり、本来の奏くんはおとなしい性格なんだろうな、という印象を持ったのを覚えている。

「ごめんなさい。実は姉ちゃんに頼まれて来たんですけど……」

「どうしたの?」

 奏くんの年齢はぼくよりもひとつ年下だった。だけどこの時はまだ実際の年齢も知らず、ただ外見の雰囲気や口調などから多分ぼくよりも年下だろう、と決めつけて自然とぼくの口調は年上としてのものになっていた。

「実は……お母さんと喧嘩して、ちょっと来られなくなっちゃって……」

「喧嘩?」

「はい……」

 奏くんの口調は申し訳なさそうだった。

「それって、やっぱり昨日の」

「いやいや、姉ちゃんもお母さんに対してだ、とすごく口が悪くなることがあるから、自業自得かも。……それで、今日は来れないって伝えて欲しい、って」

 と、奏くんに言われて、それ以上、深く聞くこともできなかったので、

「ありがとう」

 と、奏くんにお礼を言うと、奏くんは照れくさそうな表情をして帰っていった。楓と同様、奏くんにとっても同世代の子どもはめずらしい存在なのかもしれない。ぼくはその表情に、奏くんの気恥ずかしさを受け取ったような気がした。

 民宿へと戻る、帰り道だった。

 優希叔母さんと初日のバスの中で会った佐野さんの旦那さん、朔治さんが立ち話をしているのを遠目に見つけて、ぼくは慌ててすこし隠れてしまった。なぜ隠れてしまったのかは、この時のぼくには分からなかったのだけれど、いまになってみると、理解できる。

 優希叔母さんと朔治さんは二十以上年齢の離れた間柄だとは思うけれど、朔治さんは比較的、若く見える外見をしているので、並ぶ姿は兄妹のように見えなくもなかった。

 だけどしっかりと隠れ切れずに、優希叔母さんと目が合ってしまい、その近くにある佐野さんの小料理屋へと誘われて、ぼくはふたりのあとを付いていくことになった。朔治さんは初日のバスの時と変わらず、不愛想な表情だったけれど、ただ心なしかその時のぼくを見る朔治さんの目にはかすかに嫌悪の色が含まれているような気がした。

 小料理屋で、カウンター席に優希叔母さんと隣り合ったぼくは、日本酒に酔っていく叔母さんを横目に、ホッケの塩焼きを箸でつついていた。確かに優希叔母さんが絶品と太鼓判を押すだけあって、料理はとても美味しい。

「ねぇ波瑠。古泉さんとふたりで琴吹さんのところ行った、って小耳に挟んだんだけど、本当?」

「あ、……うん」

 アルコールで頬を赤くした優希叔母さんが、咎める口調半分、面白がる口調半分といった感じで、理瑛さんの死後起こった事件について話し始めてくれたのだ。すれ違いの多かった当時の姉妹さえも会話せずにはいられなかった、その事件は、複数の男性が神隠しに遭ったように突然姿を消す、というもので、それも二、三人というレベルの話ではなく、行方不明になった男性は十人を超える。

「まぁ、私たちは女性だけれど、それでもやっぱり同じ村に住むひとたちが急にいなくなる、って不安だったんだと思う。お互いに、ね。最初にいなくなったのは、原さんだったよね?」

 と優希叔母さんが朔治さんに問い掛けた。

 朔治さんの表情は事件の話以降、明らかに険しくなっていた。この村の人間にとっては触れられたくない話題なのは間違いないだろう。ただそれでも優希叔母さんの言葉にはしっかりと応えて、頷く。

 最初に姿を消したのは、大工をしていた原恵蔵という当時四十歳を過ぎたばかりの男だった。喧嘩っ早いことでも有名で、年齢とともに多少落ち着きを持ち出したものの、若い頃は相澤市内の歓楽街に悪い仲間たちと足繁く通ったり、ヤクザ事務所に出入りしていたなんてこともあって、家族からは親不孝者と何度も罵られたりする人物だったらしい。

 彼が姿を消した時には、ヤクザに海にでも沈められたんじゃないか、と噂が立ち、悲しむような者はほとんどおらず、まぁあいつならいなくなってもおかしくないか、と腑に落ちるような空気が住民たちの間で蔓延していたらしい、というのは朔治さんの言葉だ。

 優希叔母さんは当時、中学生で恵蔵とは、これと言って関わりがなく、名前以外は全然知らない、とのことだった。

 姿を消したことはその当時の駐在さんの耳にも入っていたのだけれど、その駐在さんでさえ、金でも盗んでどこかの若い女と逃げたんじゃねぇか、と真面目に取り合わなかったくらいの人物のようだ。

「原さんは怖くて私も避けてたから、最初いなくなった、って聞いて、すこしほっとしてたんだ。この村は女性のほうに発言権の強さがある、って言っても、腕っぷしのある暴力に訴えかけてくる男は怖いからね」

「その感情は村人の総意だよ。若い頃ほど落ち着いた、って言っても、短気な性格は相変わらずだったよ。そう言えば琴吹さんとは折り合いも悪くて、大喧嘩になったこともあって仲裁に入ったこともある」

 と、朔治さんが補足するみたいに付け加えてくれた。

 ぼくはその話を聞きながら、琴吹さんの負けん気の強そうな表情を思い出していた。確かに琴吹さんなら、怒鳴り合いになっても絶対に引かなさそうだ。

 それまでは行方不明になった男性たち、とひとくくりにして古泉さんから聞かされていたので、個人個人の情報に踏み込んだ話がぼくの耳に入ってきたのは、その時が初めてだった。実際のところ、今回の一件を調べるうえで、被害者のパーソナルにこだわる必要はないような気もする。すくなくとも古泉さんはそう思ったからこそ、ぼくにはいちいち話さなかったに違いない。

 ただ被害者の姿を想像できるようになることは、ぼくの心情に大きな変化をもたらした。ただ不思議なことを知りたい、という好奇心のみが原動力になっていたぼくに、血の通う人々の営みの中で起こった現実なのだと自覚させ、慎重さを与えたのは間違いない。優希叔母さんには、そんなつもりなんてひとつもなかっただろうけれど。

「騒ぎになりはじめたのは、次だったよね?」

「あぁ、太田さんのところの、息子さんだろ。あれはびっくりしたな。だって原さんとは逆に、自ら望んでの失踪なんて全然考えられないようなひとだったから。事件としか思えない」

 次に被害者となったのは、太田和道という、これも五十手前の中年男性で、若い頃から整った顔立ちをしていて頭も良く相澤市内の中学校で教師をしていたらしい。市内で働く者は交通の不便さもあり、市内に住むのが一般的だったけれど、彼は通いで自身の働く学校に通っていた。どちらかと言えば、一人目の被害者の原とは真逆の、線の細く、気弱な雰囲気だったが、その物腰の柔らかさと、整った顔から多くの女性に好意を寄せられていて、それにも関わらず独身を貫いていたことから、変わり者扱いを受けることも多かったそうだ。

 通いの理由は、母子ふたり暮らしで、母親の介護が必要だったためだ。結婚もしておらず、職業としてホームヘルパーなんていないような村で、近所のひとに頼めることなんて限られている。そんな状況では、母親をひとり置いていくのは難しかったのだろう。

「和道さんは私も知っているけど、原さんとは違って、そんな急に家出するようなひとじゃないし、それにお母さんひとり残して出て行けるようなひとなら、もっと早く出て行くと思うのよ。書き置きも残さず、なんて考えられない、というか」

「それに原さんのことがあってから、すぐだったから余計に、な」

 まったく正反対のふたりが、ほぼ同時期に姿を消した。人口の多い都会ならまだしも、人口のすくない雪白村では考えにくいことで、村全体がざわつきだしたそうだ。

「そして夢竹さんの行方不明で確信に変わった感じかな」

 三人目の被害者は、もともと雪白村の出自ではない夢竹王司という本名なのかどうか、近隣の住民さえも知らない男だった。太田和道と同世代くらいの外見の雰囲気らしいけれど、実際の年齢はふたりとも知らないそうだ。

「不思議なひとだったな。なんというか、村の人間っぽくない、というよりも、そもそも同じ人間じゃないみたいなひとだった」

「私だけじゃなくて、あのひとのこと、誰も知らないんじゃないかな。風景画家をしている、っていうのは聞いてて、確かに外で絵を描いてる夢竹さんの顔を見たりすることはあったんだけど、別に売れてる画家さんでも無さそうだし、そもそも売れてる画家さんがこんな辺鄙な村にいるとも思えない。でもお金に困っている様子もなかったから、本当に不思議な感じだった」

「でも絵は何度か見たことあるが、かなりうまいんだろうな、って素人でも分かるような出来だったな」

「あぁ確かに」

 その三人が行方不明になって、共通点を住民たちが探し出した時、浮かび上がってきたのが三人とも理瑛さんの性交の相手として選ばれた男性だ、ということだった。逆に言えば、それ以外に共通点が見つからないほど、まったく共通点の見つからない三者の行方不明だったらしい。

 それに気づいてもっとも怯えたのは、同じく理瑛さんの相手をしたことがある男性たちだった。次は自分かも、と毎日のように恐怖を抱きながらも、行方不明者は増えていく一方だった。

「『こんな村、もう出よう』って、もともとそれが亜紀姉さんの望みだったことは知っているけど、口癖みたいになったのは、確かこの頃だった、と思う。私たちは女性だから関係ない、なんて別に女性だから思えるようなものじゃなくて、身近なひとたちがどんどんいなくなるのは、本当に怖かった。いつ矛先が向くだろう、って感じで」

「お母さんが……」

「いまほどじゃないけど、当時もここって同世代の子どもたち、ってすごくすくなかったし、小学校はあるけど、中学校からは相澤市内の学校まで通うことになるから、私たちの知らなかった普通の子どもたちを見ると、みんな多かれすくなかれ、こんな村なんてもう出て行きたい、って思うようになるんだけど、姉さんは特にその想いが強かったから。……と、もうこんな時間。波瑠も、最近はテレビもオカルト番組が多いから、不思議な事件に興味を持ちたくなるのも分かるけど、あんまり首を突っ込み過ぎたら、だめよ。危ないことはしない、って姉さんと約束もしたんでしょ」

「うん……」

「じゃあ、この話もおしまい」

 そう言って優希叔母さんは両の手のひらを合わせて、ぱん、とちいさな音を鳴らした。

「ただいま」

 引き戸を開ける音とともに、佐野さんの奥さん、夕子さんが帰ってきた。白髪に、雪の白い粒が混じっていた。ぼくと優希叔母さんは、ふたりに別れを告げて、店を出て、織江さんの民宿へと戻った。

 織江さんと優希叔母さんが顔を合わせた時、昨夜の口論の声を思い出して不安になったけれど、やり取りは意外にも穏やかだった。

「あれ、古泉さんは?」

「さぁ、また色んなひとに聞き込みにでも行ってるんじゃないの」

 と、織江さんが溜め息を吐く。

 古泉さんと織江さんのふたりが一緒の空間にいる状況を想像した時の、ぴりぴりとした空気は想像するだけでも怖かったので、古泉さんが帰って来ていないことにほっとした。とはいえ、そのうち戻ってくるわけだけれど、とにかくそれまでには部屋にひとりになりたい、と思っていた。

 結局、その夜、古泉さんが民宿に帰って来ることはなかった。

 その代わり、と表現していいのかどうかは分からないが、深夜になっても寝付けず、古泉さんから借りた本を読んでいて、ふとトイレに行こうと立ち上がった時、偶然ぼくは窓越しに、ひとの姿を見掛けて、それが知っている人物だったことに驚いてしまった。

 楓だった。

 ゆっくりとした足取りだった。こんな遅くにどうしたんだろう。どこへ行くつもりなのか。疑問は色々とあったけれど、こんな幸運はない、と思った。ぼくはできる限り足音を鳴らさないように階段を下りて、外に出た。

 雪白村の冬の夜は、想像以上に寒い。

「波瑠」

 ぼくの顔を見て、楓は驚いた表情を浮かべる。

 ぼくが雪白村に滞在できる時間は、あと一日しかない。ぼくのせいで、母子喧嘩に発展してしまった、としたら……。申し訳なさでいっぱいで、謝れる機会を逃してしまったら、ずっと後悔してしまいそうな気がしたからだ。


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