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探偵たちの冬 ―終わらないミステリの終わり― 第一部「1999年」④


(第一部「1999年」③)



「他に怪我とかはない?」

「だ、大丈夫」

 その時のぼくは本来いるはずではなかった雪白家の居間にいて、雪を踏み抜いた際に挫いた足を温めていた。痛みはあったけれど、それは、すこし経てば治る程度のものだった。楓が心配そうに「うちに来る」と言った時も、ぼくは「大丈夫だよ」と断ったのだけれど、思ったよりも強引に、ぼくは楓の住む家へと連れて行かれてしまったのだ。その平屋は琴吹さんの家から歩いて五分くらいの距離にある。当時の楓の身長はぼくよりすこし高く、肩を貸してくれて、大人びたその雰囲気に頼りっぱなしだった。

 細身だけれど、その身体の細さに似合わない力強さがあったように思う。雪白村は、女性の比率が多いだけに、力仕事にも積極的になるのかもしれない、と当時のぼくとしては、ちょっと悔しかったのも事実だ。

 楓は淡く白と黄の中間のような綺麗な肌をしていて、大きな目に映える長い睫毛が印象的だった。美人と言って異を唱えるひとはすくないだろう。

 楓以外の家のひとは全員出払っていて、ぼくと楓のふたりしかその場にいなかった。その状況が、楓の髪からかおるシャンプーのにおいをよりあまく感じさせた。

「織江ばあのところの子なんだよね。お孫さん。ここに来たの、初めて?」

 ばあ、という言葉を付けて織江さんのことを呼んだ楓の自然な口調はぼくよりも本当の肉親の間柄を思わせた。

「う、うん」

「へぇ。ふぅん」

 楓はちいさな微笑を浮かべて、ぼくの顔をじっと見つめる。その目にはめずらしいものを見るかのような色も感じられて、本来なら嫌な気持ちになりそうなものだけれど、楓の表情にはそういう感情を抱かせない雰囲気もあった。

「ねぇ、一緒にいたひと……、最近村のことを調べている古泉さんっていうひとだよね。何をどこまで聞いたかは知らないけど、あんまりあのひとには関わらないほうがいいよ。言い伝えなんて、大抵、嘘か尾ひれが付いているだけなんだから」

「信じてないよ」

「嘘を吐く時は、もっと真実っぽく言いなさい。ふぅ。ねぇもう足の痛みは引いた? ちょっと外に出ようよ」

 楓は返事も待たずに、ぼくの手を引いて立たせて、着替えを急かした。外に出ると、暖房のある温かい場所からの寒暖差により風が冷たく感じられた。

「どこ行くの?」

「まぁとにかく付いてきて。あっ、また怪我しないように、足もとには気を付けてよ」

 地面の不安定さを何も感じさせないような足取りで歩く楓を、ぼくは見失わないようにしながら、ゆっくりとした歩調で追い掛けた。

「ここ、ここ」と立ち止まった楓は、そこにある看板を指した。「ここは村のちょうど中央部に当たる場所になるんだけど、昔、理瑛さんの銅像が建てられていたの」

 楓は、理瑛様ではなく、理瑛さん、と呼んだ。

「様、を付けなくていいの」

「知ってる? 尊敬してないひとに、様、なんていらないんだよ。ねぇ琴吹ばあや古泉さんからどこまで聞いたの? ふたりが家に入っていくところはちゃんと見たから。他にきみたちが琴吹ばあに聞くことなんてないでしょ。きみ――」きみ、って呼びにくいね。名前は、と聞かれたので、ぼくが自分の名前を告げると楓はまた続けた。「波瑠は嘘の吐けない子みたいだから、最初から本当のことを話したほうがいいよ」

 この時はまだ楓を同い年か年下くらいに考えていたので、なんか偉そうに、と不満にも思っていた。

 とはいえ別に隠す必要もない気がしたので、ぼくがそれまでの知っている話を伝えると、楓は静かに相槌を打ちながら聞いてくれた。古泉さんから聞いていた話の一部は直感的に言うべきではない、と思ったので、その部分だけは意識的に隠した。楓も気付いていただろうが、そこは掘り下げなかった。

「あんまりそういう話は信じすぎないほうがいいよ。噂ってどこかで誰かを傷付けるんだから」楓が意味ありげに寂しい笑みを浮かべる。「それに、そういうのがない関係のほうが友達になりやすい、と思うんだ」

 ねっ、と握手を求めるように差し出した手を、あの日、ぼくは握った。その手は思いのほか柔らかかった。

「この看板に何も書いてないでしょ。看板だけ残して、文字は当時の村人が消したんだけど、理瑛さんの銅像が建てられていたの。波瑠の話には続きがあるの。それはこの銅像を怒りとともに、村の男たちが壊した、ということ。確かに今でも理瑛さんを知るひとで敬い続けるひとはすくなくない。例えば私の母なんかが、そう。悪いひとじゃないけれど、思い込んだら一直線、というか。だけど同じくらい憎んでいるひともすくなくない。特に男性は。こんな話を知ったって、波瑠には何ひとつ得になることなんてないんだから、忘れなさい。その顔は納得してないね」

 楓が苦笑いを浮かべる。

「そんなことない」

「本当に嘘が下手だね。まったくあんな、エロババアのことなんて知ったところで、どうにもならないのに」爽やかな憎しみもないような表情で、エロババア、と言った後、楓は、「まぁ、母にこんなの聞かれたら、殺されちゃうかもしれないけどね」と続けた。

「あの……」

「私は波瑠の知ってることくらい、全部知ってる。だから別に私が女性だからって隠さなくてもいいよ」

 能力とともに村内で成り上がっていった理瑛さんは、その権力が絶頂にいたった時代において、村の若い男を取り替えながら自宅に呼び続けた。そこで何があったのかをその男たちの誰も語らなかったけれど、容易に想像がつき、公然の秘密として扱われるようになった。

 古泉さんはそこに起因する、とされる、その後の怪事件を調べていた。

「別に隠していたわけじゃ」

 と、ぼくは嘘を吐いた。

「初めて会った私の言葉なんて信じられないかもしれないけれど、本当に波瑠のことを思って言ってるんだよ。この村のことなんて知らないほうがいい。ねぇ波瑠はどのくらい、ここにいるの?」

「三日後の予定」

「だったら、さ。明日は暇なわけだ。私、ね。学校も通えなくて、この村しか知らないんだ。明日、この村を案内するから、波瑠の住んでる町のことを教えてよ」

 聞くと、楓は親から勉強を教えてもらい、学校には通っていないらしい。市内にある学校に通わせることに楓の両親は消極的らしく、はっきり言ってぼくとは、学校に行っていない、という言葉の意味が全然違っていて、同じものとして捉えられたら楓としても不満だろうけれど、その言葉に親近感を覚えなかったか、と言えば、それは嘘になる。単純な性格と思わないでもないけれど、見た目や雰囲気も合わさって、この一回のやり取りで、友情か恋心か、それに近いような感情まで抱いていたような気さえする。

「いいよ。ぼくも自分の町のことなんて全然知らないけど」

「波瑠自身のことを話してくれれば、それはそのまま、その町についての話になるよ」

「そんなこと言っても……」

「明日の昼過ぎの一時に、ここに落ち合おうよ」

 基本的にぼくはこの村でしないといけないことは、ひとつもなく、断る理由はなかったけれど、気恥ずかしさが先行して中々頷くことができなかった。だけど楓はぼくの答えを待つこともなく、約束したことになってしまった。

「あんまり外にいる、と風邪を引いちゃうね。特に波瑠はこういう寒さに慣れていないだろうし……。織江ばあのところまで――」

「姉ちゃん!」

 楓の言葉をさえぎるように、遠くから言葉が聞こえた。それはぼくよりもずっと幼い顔立ちの男の子だった。

「奏」と、その男の子を見て、楓はそうつぶやいた。「弟。どうしたんだろう」

「お母さんが怒ってるよ」ぼくたちに近付いてきた奏は、楓に向けて言った。

「なんで? ……というか、母さん、今日は帰って来ないんじゃ」

「用事が早く終わったんだって。……それに、なんで、って、そりゃ」とぼくをちらりと見た後、すぐに視線を楓に戻した。その目でぼくは察した

「……まぁとにかく、姉ちゃんが帰って来ないと、俺が八つ当たりされるんだから」

「あぁ、しまったなぁ」

 その時はまだ楓の母親の怒りが、ぼくのせいだ、と察することはできたけれど、この村でも特によそ者……というよりも、自分と一部のひと以外の他者を極度に嫌う人物だということまでは知らなかった。

「ごめんね、波瑠。私すぐに帰らなきゃ。そんなに遠くないし、そこを、ね」と楓は指の先を北に向けて、言った。「ずっと真っすぐ歩いたら織江ばあの家に着くから。夜道は危ないから気を付けてね。今度は雪に埋もれても助けてあげられないから」

 そう言うと、もう駆け出していた奏を追いつこうと小走りになった楓は、ぼくから離れていった。

 織江さんの家は、その銅像跡付近から歩いて五分くらいだった。

 楓とぼくが関わった時間はとても短かった。知り合いだったと言ってしまっていいのか分からないほどに。だけど短かったからこそ、もしかしたらその印象が鮮烈に残っているのかもしれない。

 民宿に戻ると、優希叔母さんと織江さんに叱られるかも、と思ったけれど、ぼくに注意したのは織江さんだけだった。何故なら優希叔母さんはまだ帰って来ていなかったからだ。織江さんに、どこに行っているのか聞いてみたけれど、教えてくれなかった。理瑛さんの話も織江さんから聞いてみたい欲求にも駆られたけれど、さすがにそれは聞けなかった。

 おそらく古泉さんは織江さんに話を聞こうとしたのだろう。ふたりの間に険悪な空気が流れていたからだ。織江さんにも古泉さんにも、その夜は、あまり話しかけられる雰囲気ではなかった。

 だからぼくは部屋でのんびりと『オリエント急行の殺人』を読み進めることにした。

 途中、睡魔が襲ってきた頃に、優希叔母さんが帰宅したのだろう。

 一階のほうからかすかに口論するようなやり取りが聞こえてきたからだ。

 気になりはしたけれど、睡魔と疲れには勝てず、ぼくは気付けば眠りに落ちていた。


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