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探偵たちの冬 ―終わらないミステリの終わり― 第一部【まとめ読み版(約40500字)】


プロローグ ~prologue~


 きょう、雪が降らなかったら、彼は来なかっただろう。


 しんしんと降りつむ雪の音は雨のそれよりも小さく、かつての私であれば耳をそばだてたとしても聞こえない程度の、しかし鋭敏になった聴覚に、それはやけに印象的な音となって響いた。

「久し振りだな。俗世から離れるなんて言っていたから、世界の端にでもいるんだと思っていたら、まさか、こんな近くにいるとはな。探し損とまでは言わないが、もっと早く見つけられたんじゃないか、なんて思ってしまうな」

「本当に来るとは思っていなかった……」

「探偵らしくない言葉だな。論理はもう頭から離れてしまったか」

「懐かしい言葉だ」

「あぁ本当に、な。あの頃、それを使っていたのはお前だったけどな」

「もう私には不似合いな言葉になってしまったみたいだ」

「何度も諦めようと思ったさ。雪の降る季節にまた会いましょう、なんて気取った手紙を残して消えたやつのことなんて、探すほうが無理のある話だ。だけど探し当てたよ。別に雪の降りつむ、こんな日を狙ったわけじゃない。タイミングは、ただの偶然だ。それに……、しかし、お前はこんな大きな屋敷にひとりで住んでるのか?」

「雑務をこなしてくれるひとがいるんだ」あの一件の後、私の怪我の状態とふたたびの危険を案じた父から貰い受けたこの屋敷に、私はずっと住んでいた。「そして私はもう探偵ではない。あの事件で、私という探偵は死んだのだ」

「それは本心からの言葉か?」

 高校時代からの友人で、かつて私の助手だった男の言葉はさすがに鋭い。

「あの日、私は探偵としてのアイデンティティを失ったんだよ。真実を暴くのが探偵の存在意義ならば、吐いたその嘘によって真実を捻じ曲げた私は探偵であってはならない。他者がどれだけ許そうとも、私だけはその事実を許してはいけないのだ。あの手紙にも、そう書いたはずだ」

「誰もお前を許したりなんてしていない」突き放した言葉に反して、その声音は思いの外、優しい。「事件が終わっているならその論理も成り立つかもしれないな。だけどまだ終わってないのに、勝手に終わらせるのは探偵の傲慢でしかなく、事件が続く限りお前は探偵から逃れられないんだよ。お前は知らないだろうが、雪白村で、あの後ふたたび殺人事件があった。殺されたのは、奏くんだ。これが過去と地続きとなっていない、と思うか? だとしたら本当に探偵としての脳は失われたと判断して、俺はここから出て行くよ」

「何故……、いや、私にはもう関係ない」

「昔の俺でもあるまいし、いつまで、まごついているんだ。助手がいなくても探偵は成り立つが、探偵がいなくて成り立つ助手など、いてたまるものか。俺がその役を降りていない以上、お前はまだ探偵のままだ。その見えなくなった目が不安なら俺が代わりの目となる。お前は謎に耳を澄ますだけでいい」

「私が退場した後、何があったのか教えてくれ」

「助手を待たせすぎだ」

「どうでもいいけれど、その口調は君に似合わない」

「そうか……、お前はもう俺の顔を見ることなんてできないだろうが、これが板に付く顔になっていると自分では思っているんだがな」

 私はかつての、そして今も続く友人の、服の裾を掴むと、ゆっくりと立ち上がった。眼を瞑ったまま、私は彼の顔のある付近を見てみることにした。記憶の中の彼から、十年ぶんの老いを創ってみる。

 そこに白の混じった髪が見えた気がした。

 私、梶井和已は、かつて探偵と呼ばれていた。そして確かに彼と探偵と助手という関係を結んだ時代があった。

 探偵に戻る気は今もない。

 ただそれでも……、もしも私が対峙した最後のあの事件が終わっていないなら、私にはその謎の終わりまで付き合う責務がある。

 私のあの日の嘘は悲劇を生み、代償として私は両目に大きな傷を負った。

 私は揉むように、目じりを指で触れる。



 ぼくが雪白村の村名と同じ姓を持つ、雪白楓と出会ったのは、1999年のはじめ、まだ当時のぼくと同じ世代の小学生たちがノストラダムスの大予言を頑なに信じ、ほろびゆく世界に怯え、あるいは変わりゆく世界に想いを馳せていた頃のことだ。結果がどうなったかなんて説明の必要もないだろう。

 雪白村は今も人口減少の一途をたどり、当時は村民が500人程度の東北の小村で、そこは母の生まれ故郷だった。母は自身の出自でもある雪白村を憎んでいて、その村を初めて知ったのも母の口からではなかった。

 きっかけはスクールカウンセラーの言葉だ。

 ぼくの通っていた小学校は、いわゆるマンモス校と呼ばれる生徒数の非常に多い学校で、一年経つと、クラスメートの顔ぶれが大きく変わり、学校生活が激変する。その前年のクラス環境がどれだけ良かったとしても悪かったとしても、ほぼ必ずその環境はリセットされる。

 五年生の時、ぼくはどうもそのクラスに馴染めずにいたこともあって、休みがちになってしまったことがあった。

 両親の、学校に馴染めない理由を知りたい、学校に行かせたい、と思いつつも、直接聞くことをためらう様子は肌で感じ取ることができた。

 母が、担任の先生から「スクールカウンセラーに相談してみてはどうか?」と薦められたらしく、ぼくがカウンセラーの朝野さんと会ったのはそんな経緯だったはずだ。朝野さんはふちの細い眼鏡を掛けた背の高い女性で、友達のような砕けた口調が印象的なひとだった。その頃はまだスクールカウンセラーという役職は一般的ではなく、ぼくはその言葉のイメージから冷たく怖い雰囲気のひとを想像していたので、気さく、というか、その軽い口調に驚いてしまった記憶がある。

「冬休みにどっか旅行でも行くと、気晴らしにでもなるんじゃないかな」

 十一月の中頃から朝野さんのところに通うようになったのだけれど、漠然と頭に浮かべていたカウンセリングらしいことを、朝野さんは一度もしなくて、ぼくはそのことにほっとしていた。もし想像していた通りのカウンセリングが行われていた、としたら、ぼくの現状はもっと悪化していたのではないだろうか。だってクラスに馴染めないことにはっきりとした理由なんてなく、ぼく自身、何となく、としか答えようがなかったからだ。それなのに質問攻めにでもあっていたら、もやもやだけが風船のように膨れ上がっていくぼくの感情は破裂してしまったはずだ。

 旅行を薦められても、たったひとりで旅行なんて不安だし、両親は許してくれないだろう。ただ朝野さんと話したことを、両親には話したくはなかった。悩みつつ家に帰ると、頻繁に我が家を訪れる叔母さんの姿があり、すこし離れた関係だからこそより話しやすかった叔母さんに、スクールカウンセラーのひとから旅行を薦められた話をしてみると、

「うーん。あぁそうだ。じゃあ、私とあなたのお母さんの生まれ故郷、雪白村に、私が連れて行ってあげようか?」

 と言われて、それがぼくが初めて雪白村の名を耳にした時だった。

 大反対したのは、母だった。

 それはぼくと叔母さんがふたりで旅行へ行くことではなく、ぼくが雪白村へ行くことに対する嫌悪感が強いように思えた。

「あなた、何考えてるの?」と母が叔母さんに言うと、「大丈夫、大丈夫。お姉ちゃんが気にしすぎなんだよ。もうあんなの昔の話じゃない。それに私もいるから、ね」

「旅行なら、別に他のところだって……」

「お姉ちゃんはそう言うけど、私はあの村、好きだよ。自然も多いし。ここじゃあ、あんまり積もった雪も見れないじゃない。たまに懐かしくなったりしない」

「私は嫌いよ。あの雪を見なくてすんで、せいせいしてる」

 結局、叔母さんが母を押し切る形になり、ぼくと叔母さんはふたりで雪白村へと行くことになった。実は一緒に母も付いて来ようとしたのだが、家族とすこし離れてみるほうがより良い気晴らしになりそうな気がして、ぼく

「叔母さんとふたりで行きたい」とお願いしたのだ。家族を嫌っていたわけじゃなく、一緒に居すぎると、離れることが気分転換になったりするのだ。

 絶対に危ないことはしない。そう母と約束をして、ぼくが初めて訪れた母と叔母さんの生まれ故郷は、ぼくの住む街では一生見られないほどの雪が降り積もり、異界にでも足を踏み入れてしまったのではないか、と思ってしまうようなその光景に、はっと息を呑んだのを覚えている。

 ぼくは約束通り一度も自分から危ないことはしなかった。

 だけど大きな危険と遭遇したのも確かだった。それが未来へと地続きとなり、十年後、ぼくはふたたび雪白村へと赴くことになる。立場も違えば、隣にいる人間も違う。だけど自称探偵の同級生と再訪したその村で起こった事件が、あの日の災厄を抜きにしては語りえぬものだったのは間違いない、

 と、初恋のひとはあの日憧れた美しさを残したまま大人となり、そして命を落とした雪白楓の死体を見ながら、ぼくは漠然とそんなことを考えていた。

 雪白村には、人を喰らって生き永らえる女神が棲む、という……。

 あの言い伝えをはじめて聞いたのも、少年時代のあの時だった。あの夜、別の選択を取っていたら、違う結末になっていただろうか。そんなことを考えても今さらすべてが遅すぎる。そう分かってはいても、楓の死に顔を見ていると、そんな後悔が頭から離れなくなる。



第一章 1999年 ~one thousand nine hundred ninety-nine~



 ぼくと叔母さんが雪白村へと出立したのは、正月の三が日を終えた翌日、ぼくたちは特急からその途中で各駅列車に乗り換えて岩手県相澤市まで向かい、そこから一日に二本しかないバスに乗った。凍結した路面をバスはゆるやかに走行する。乗客はぼくたちふたり以外には、年嵩の夫婦らしき男女が一組いるくらいで、運転手と合わせてその広い車内には五人しかいなかった。ぼくたちはバスの最後部の席に座り、夫婦らしき二人組がそこから三つほど空白の座席を挟んで、前方の席に並んで腰かけていた。

「緊張する?」と叔母さんが穏やかな笑みをぼくに向けるので、ぼくは小さく頷いた。「大丈夫。別にそんな怖い場所じゃないから。どうせ亜紀姉さんにおどされたんでしょ。あそこは、外も寒けりゃ、ひとも冷たい、って。まぁ全部が嘘とは言わないけど」

 亜紀姉さん、と叔母さんが呼んだのは、当然ぼくの母のことで、秋に生まれたから亜紀になったらしい。ちなみに叔母さんは冬に生まれたから優希で、ぼくはなぜか夏に生まれたのに波瑠と名付けられた。こんな名前だからよく字面だけで女の子と間違われるけれど、ぼくは男だ。

「聞いてたの?」

 と、ぼくがびっくりとして聞くと、優希叔母さんはぼくの顔の前で、手をひらひらと振って、「まさかぁ。全然聞いてないよ。まぁ姉さんならきっとそう言うだろうな、って思っただけ」

「そんな嫌なところなの?」

「姉さんが言うほど、私は別にそうは思わないけど、やっぱりまぁ結構な田舎だからねぇ。人間関係は密になりやすいし、私たちが、いま住んでいる場所とは勝手が違うのも、確か。良くも悪くも、ね」

 バスが市内から離れたのか、窓越しに見える家屋の数が明らかに減り、それに比例するように晴れてはいたけれど道の端に避けられた雪の量は多くなっていった。

「もう、後、二十分くらいで着くかな。事前におばあちゃんに連絡したら、すごい喜んでたよ。初めて孫の顔を見れる、って」

 優希叔母さんから聞かされるまで雪白村について存在さえ知らなかったように、ぼくは母方の祖母が生きていることも知らなかった。母からもうすでに死んだと聞かされていて、いまになって思えば、母の口調に違和感を覚える部分もあった気はするけれど、母が明言している以上、疑え、と言うほうが無理がある。

「おばあちゃんの家か……」

「初めての家だし、そりゃ緊張するか。でもおばあちゃんの家は民宿も兼ねているから、結構、住み心地もいいよ。たった三日だけど、すぐに慣れるよ」

「うん……、おぉ聞き覚えのある声がすると思ったら……」

 前方から、夫婦らしき二人組の内の、その女性のほうがぼくたちに振り返ると、にこりとほほ笑んだ。

「あ、佐野さん。私も乗り合わせた時から見覚えあるなぁ、って思ってたんだけど。自信がなくて」

「良いのよ。それより久し振りじゃない。あ、……優希ちゃん」

「あ! 今、お姉ちゃんと間違えそうになったでしょ」

「あなたたちふたりは昔から似てるからね。……というか、こまめに帰って来ないあなたたちが悪い」

 優希叔母さんが、佐野さん、と呼んだその老婦人は、すこしふっくらとした体型で白の混じった髪がとても印象的だった。

「本当にうちの村の若者たちは一度離れると、みんな例外なく戻って来ないんだから……、ところでそっちの子は向こうで作ったあなたの子?」

 佐野さんの目がこちらに向き、緊張を覚えて、ぼくはどきりとする。

「ううん。私じゃなくて、亜紀姉の息子よ。姉さんに似て、格好いいでしょ」と優希叔母さんは冗談か本気か分からないような口調で言った。「冬休みだから、せっかくだし、ふたりで旅行に来たの」

「なんで優希ちゃんが……? 亜紀ちゃんは、ちゃんと母親の役目も果たせないひとなのかしら、そんなことしてたら織江さんが寝込んじゃうわよ。それに濫造さんだって草葉の陰で泣いちゃうわ」

 佐野さんはぼくをじっと見ながらそんなことを言う。

 言葉の端々に嫌なものを感じたが、それを口にもできず、ぼくは軽く目を逸らしただけだった。こういう役割のひとはこうであるべき、という凝り固まった先入観に悪気はないのだろうけれど、その悪気のなさが、余計に当時のぼくに不快感を与えたのだろう。他人のことでも聞きたくない言葉が、自分の周囲の人間に向けられる、というのは気持ちのいいものではない。

「そんなわけないでしょ。あのしっかり者の亜紀姉だよ。私ならまだしも。ちゃんと母親やってるよ。ちょうど私の暇と合ったから、波瑠……、あぁこの子、波瑠って言うんだけど、私に白羽の矢が立っただけ」

 ぼくの心の内に気付いたのかどうか分からないけれど、優希叔母さんがそう否定してくれたので、ほっとする。

「ごめん、ごめん。分かってるわ。別に疑ってたわけじゃないのよ」

「あっ波瑠、ちなみにおばあちゃんの名前が、織江、って言うの。そしてもうずっと前に死んじゃったんだけど、おじいちゃんの名前は濫造」

「でも波瑠くん……か。確かに亜紀ちゃんに似てるかもしれんね。それにすこし濫造さんの面影もある」

「さっき私と亜紀姉の顔の区別もできないくらい、忘れてたくせに?」

「まぁ、いいじゃない、いいじゃない。そもそも似てるって言い出したのは、あなたでしょ。それに濫造さんにも似てるね。やっぱり。そう思わない、あなた」と佐野さんは隣に座る男性に声を掛ける。

 振り向いたのは細い眼に角刈りの強面の男性だった。

「んっ、まぁ……」

 男はそれだけ言って、また元の前方を向いてしまった。

「あぁこのひと、いつもこうだから気にしないで」

「朔治さんは相変わらずですね。ねぇ波瑠、佐野さんは夫妻で小料理屋を営んでいて、私たちがこれから泊まる家のすぐ近くにあるの。奥さんが夕子さんで、旦那さんが朔治さん。覚えた? 朔治さんは見た目こんなんで、無口で不愛想だけど、料理は絶品だから、波瑠がいる間に一回連れて行ってあげるね」

「えっ、あの……」

 本人がいる前で、こんなんで、なんて、そんな失礼なことを言っていいのだろうか。怒っちゃうんじゃ……、と、ぼくの不安な表情を察したのか、奥さんである夕子さんが快活に笑う。

「気にしなくていいのよ。そんなことで怒ったりしないから。うちの村は昔から、女が男より圧倒的に強いんだから、そんな態度を取ろうもんなら、縛り付けて川にでも放り投げてやるわよ」

「さすがに殺人はやめて」と、優希叔母さんが笑って、夕子さんの言葉に続く。「でも、女が強いのは間違いね」

 昔から母がことあるごとに口喧嘩で父を負かしていたように、母は強し、みたいな意味合いで使っているのだとばかり思っていた。しかしぼくのその考えは根底から間違っていて、その時はまだ気付けずにいた。

 その後は夕子さんが一方的にしゃべって、ぼくと優希叔母さんがそれをただ聞くだけという形になり、その形が崩れることのないまま、バスは終点、雪白村へと辿り着く。バスから降りると、先ほど晴れていた空が大粒の雪を落としていた。

「こんな雪、中々、向こうじゃ見れないでしょ」

 佐野さん夫妻と別れると、ぼくは優希叔母さんの後を付き従うように、初めて会う祖母の家を目指した。

「母ちゃん、ただいま」

 祖母の家は二階建ての木造家屋で、外壁の塗装がところどころ剥げていた。広い家ではあったけれど、外側から受ける印象では、優希叔母さんの言う、住み心地の良さは何ひとつ感じられない。

「おお、おかえり……そして久し振り。もう帰って来ない、と思っていたよ」

 と玄関の戸を開けて出てきた和柄の洋服を身に纏った女性が、ぼくの祖母に当たる織江さんだった。こういう呼び方をすると、とても他人行儀な気もするけれど、織江さん、とは結局この村でしか会わないままで、祖母、という印象は最後まで稀薄だった。だからぼくにとっての彼女は、おばあちゃんではなく、ずっと織江のままだった。

「姉ちゃんじゃないんだから……、私はたまに帰って来てるじゃない」

「ふむ……そしてくだんの姉は、男の子になって戻ってきた、と」織江さんが冗談めかした口調で、ぼくに目を向けた。ぼくが母の息子であることはもうすでに優希叔母さんから聞かされているのだろう。「亜紀と違って、垢抜けてはいるが、精悍な顔の良い男になりそうな子、だね」

 織江さんが言うように、ぼくがいわゆる都会的な垢抜けた顔の持ち主だったか、というと、自分自身に疑問符を付けてしまうが、すくなくとも織江さんにとって評価の低い男性が洗練された佇まいであることは間違いなさそうだ。と言っても、洗練された顔がどういうものなのか、いまいち分かっていないのだけれど……。

「まぁ仕方ないじゃない。逆に聞くけど、姉ちゃんがここに帰って来ると思う?」

「二度と顔を合わせることはないだろうね。父ちゃんが死んだ時に、私はもう諦めたよ。私は亜紀らしいな、といっそ清々しかったけど、周りのひとは結構言ってたよ。あんたんとこの上の子は、薄情者じゃ、とか、人でなしじゃ、とか」

「ごめんね。あの時、説得はしてみたんだけど……」

「いいよいいよ。どうせ来るとは思っていなかったし、どっかで元気に生きてれば、それで、ね」

 ほほ笑みながらも、織江さんの言葉尻はわずかに寂しげだった。

 当時は断片的過ぎて、あまりぴんと来ずにこの話を聞いていたのだけど、よくよく考えれば、すぐに分かることだった。母は父の葬儀に出なかったのだ。特に田舎でのこういう態度に対する周囲の視線は冷たいのだろう、というのは、簡単に想像が付く。

 織江さんは不思議な雰囲気なひとだった。先ほどの佐野さんの奥さんのように、こうあるべき、のような根強い先入観が稀薄で、それは放任主義と悪く捉えることもできなくはないけれど、家族を大切に想っているのは感じ取れるし、ぼくにとっては織江さんの態度のほうが安心する。ただ排他的な村社会の名残りをとどめる雪白村では、織江さんのようなひとは歓迎されない。織江さんが民宿をやっていることに対しても、快く思っていないひとは多い、と知ったのはだいぶ後になって、優希叔母さんから聞かされることになる。

「こんな話は、波瑠がせっかく来たすぐにするような話じゃないね。とりあえず、疲れただろうから、部屋に荷物を置いて。あっ、優希。優希の部屋を、波瑠に使わせてやって、優希は私の部屋で一緒に寝て欲しいんだけど、いいかい?」

「いやまぁ、いいけど、どうしたの? 姉ちゃんの部屋、使えばいいじゃない。前に電話した時、いま誰も泊まってないって……」

 かつて母と優希叔母さんの部屋だったふたつの部屋が宿泊客の寝泊まりする主な部屋となっているらしく、ぼくは祖母の自宅であるとはいえ、その民宿という言葉の響きにすこし緊張感を覚えていた。

「あなたから電話を貰った後、実は急に泊まらせて欲しい、って変わり者が来てね」

「変わり者、って……。お客さんにそんな失礼なこと」

 と、優希叔母さんが呆れたような苦笑いを浮かべる。

「ああ、多分あのひとはそんなの気にしないわ。良い意味で、変わり者、なのよ。まぁそもそも、雪白に興味を持つ時点で……」

 良い意味、と言いながらも、その言葉に含みを感じた。

「民宿の矜持くらい持ってよ。こんな村に宿泊客なんて全然来ないってのは、知ってるけど、みんなの反対を押し切って、ここをはじめたんだから。それに……、気にしない、って本当に? 母ちゃん、良い意味、って付ければいいと思ってるところあるでしょ。どんなひとなの?」

「うーん……――」

 考える仕草をする織江さんの言葉を待っていると、階段を下りる足音が聞こえてきて、織江さんが「あっ、ちょうど下りてきた」と言った。

 そのひとが織江さんの言う、変わり者、だということは聞かなくても分かった。眼鏡を掛けた、背の高い男性だった。人懐っこい笑顔を浮かべているけれど、ぼくが最初に抱いた第一印象は、すこし怖い、だった。すこし話してみると、その印象は大きく変わるのだけど、良い人、だったか、と言われると首を傾げてしまう。

 ただ織江さんの変わり者という言葉が腑に落ちる人物であることは間違いなさそうだった。

 今も実家のぼくの部屋には、一冊のミステリ小説がある。それは表紙もなく、日に焼け傷み切った文庫本で、ぼくが人生で初めて読んだミステリだった。

『オリエント急行の殺人』というタイトルの作品だ。

 ミステリという言葉の知名度と同じくらいに有名な作家のひとりであるミステリの女王、アガサ・クリスティが描いた名作だけど、ぼくはそれまで、ミステリもアガサ・クリスティも知らなかった。

 その本をぼくに貸してくれたのが、彼だった。いつか返したいと部屋に残してあるけれど、ふたたび彼と会うことはないような気がしている。

 彼から聞かされた彼の名は、古泉弥蜘蛛。

 コイズミ・ヤクモ、と呼ぶ。

 もちろん本名ではなく、ペンネームだ。作家、民俗学者などとして有名な小泉八雲から取ったらしい。本当の名前は知らない。



「よろしく、古泉と言います」と、その時の彼は笑顔でそれだけ言った後、織江さんに目を向けて、「すこし外に出てますね」と続けた。

 たった三日の我慢だし、できる限り関わらないようにしよう、と彼に対して敬遠したい感情が先に立ったのを覚えている。

 何がそれほど怖かったか、というと、ぼく自身とても曖昧な感情で、はっきりと言葉にはできない。ただ嘘の色を宿したような瞳の奥とは不似合いに笑いを貼り付けた表情が、ぼくに不信感を与えたような気がする。一口に言えば、なんか胡散臭くて、気に食わない、というのが第一印象だったのだろう。

「もしかしてまた琴吹さんのところに行くの? もうやめときなよ。みんなから睨まれると、私としてもあなたを泊め続けづらくなるんだから」

「いやぁ、申し訳ない。悪いとは思っているのですが、こう……好奇心の虫がうずくと、こらえられなくなっちゃうんですよ」

「まぁ止めても、勝手に行くだろうから、これ以上は言わないけど……。確かに私は一言注意したってことは忘れないでね」

「もちろん。迷惑は掛けないので安心してください」

 作業用に使うのではないか、と思ってしまうほど、大きな黒の長靴を履き、古泉さんは外へ出て行き、その背を見ながら、

 織江さんが、

「まったく子どもよりも自制心の足りない大人ほど厄介なものはないね」

 と、溜め息を吐いた。

「彼は、市内のひと?」

 と、優希叔母さんが、織江さんに聞く。

「いや……東京のひとらしい」

「へぇ東京からひとが来るなんて、めずらしいこともあるんだね」

「みんな警戒してるよ。特に琴吹さんなんて……あぁ、まぁそんなことより、いったん荷物を置きに部屋に行くといい。優希、波瑠に部屋を案内してあげて」

 古泉さんとの出会いはこんな感じだった。だけど苦手な雰囲気で、遠ざけたかったその相手は、結局ぼくが雪白村にいる間、もっとも大きく関わるひととなってしまうのだけれど……。

 荷物を置いてから、すこしの間、織江さんや優希叔母さんと雑談――話題は特に母に関することが多かった――を交わしている内に、窓越しの、その先で舞う雪の粒が弱まっていることに気付いた。

「雪、止みそうだね」

 と、ぼくが言うと、

「良かった。これ以上、積もられると、もう雪かきがね。幸い今は古泉くんに優希に、と人手は足りてるけどね」

 と、織江さんが答えた。

「ちょ、ちょっと母ちゃん。私はまだしも、お客さんに手伝わせるのは、どうなの?」

「その代わり、値段は割安にしてるから。それに古泉くんは変わり者だけど、そういう雑用に本当に協力的で、ありがたい限り」

「まぁふたりが良いなら、別に何も言わないけど……でもこの雪くらいなら、まだ明るいし、波瑠もちょっと外に出てみたら。遠くまでは行かないでね。それに、ちゃんと道が出来ているところ以外は駄目。下が畑で、身体がすっぽりなんてこともあるからね。それで死んだひとだ、っているんだから」

「あぁそう言えば、優希も子どもの時、そんなことあったね。『凍え死ぬー』って泣いてた、っけ。まぁ昔ほど雪も多くないから、いまはこの近辺で、あんまりそんな話は聞かないけど、ね」

「やめてよ。そんな昔の話」

「優希も付いて行ってあげたらいいじゃない」

「それもそうなんだけど、ちょっと私は母ちゃんと話したいことがあって……」

 この時のぼくは全然知らなかったのだけど、当時の優希叔母さんは勤めていた会社を辞めるかどうかで迷っていた時期で、ぼくがいない隙を狙って実家に帰る相談をしていたらしい。冷静に考えれば、叔母が甥っ子を気晴らしの旅行に、しかも自分の生まれ故郷に連れていく、というのは不思議な話だ。相談事を穏やかなものにするための雰囲気づくり、緩衝材として、ぼくを必要としたのだろう。

 純粋な善意よりも、そういう理由のほうが、ぼくとしても腑に落ちる。

 あとで申し訳なさそうに優希叔母さんが語ってくれたのだけれど、そのことで腹が立ったり、というのはなかった。確かに雪白村で起こった出来事に関わり、嫌な目にも遭ったわけだけど、それに叔母はひとつも関係なく

「こんなところに連れて来なかったら」と恨むのはあまりにも筋違いだ。

 ジャンパーを羽織り、長靴を履いて外に出ると、降る雪の強さが弱まっていたおかげで、来た時よりもゆっくりと落ち着いた気持ちでその風景を眺めることができた。その時は現実的な雪の問題を頭では分かっていても実感としてわくことはなく、ただ雪で覆われ、どこまでも白の続くその村の姿が幻想的に感じられた。自分はいま、世俗から離れたような場所にいるのでは、という非日常的な感覚が、学校生活のような日常を些末なものに感じさせた。

 ぼくは、織江さんの民宿を離れ、当てもなく民宿の近くを歩いた。踏む雪はやわらかく、足もとは不安定だった。

 すこし歩くと、織江さんの民宿よりひと回りほどの大きさの家屋があり、雪が地面の草を覆い隠した庭を挟んで、『琴吹』と書かれた表札が見えた。あぁ、ここがさっき織江さんの話していた、琴吹さんの家かぁ、とその軒下に成した、つららをぼんやりと見ながら、ぼくがそんなことを考えていると、玄関の先、扉を挟んだぼくには見えない場所から怒りの色がいくぶん強く感じられる鋭い声が聞こえてきて、その声音に重なるように、その家の屋根に降り積もった雪のひとかたまりが崩れ落ちて、元の形を失った。

 怒鳴り声というほどのものではなく、はっきりとした内容までは聞き取れなかったけれど、ふいに届いたその声にぼくはびっくりとして、先ほどの織江さんと古泉さんの交わしていたやり取りを思い出し、不安になってしまう。

 誰かと喧嘩でもしているのではないか、と。

 引き戸の玄関が、がらがら、と音を立てながら開き、外に出てきた古泉さんと目が合う。頬を掻くその表情からいまいち感情は読めなかった。悪いことをしているわけではないのだけれど、何となく見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、ぼくはその場を慌てて離れようとしたが、かぽん、と雪深い場所を踏み抜いた長靴から出る音は思いのほか大きく鳴り、その音に気付いた古泉さんと目が合う。

「うん? あぁきみはさっきの――」

 結局、ぼくは古泉さんと織江さんの民宿まで一緒に帰ることになってしまった。瞳の奥に笑っていないような感じは、ぼくが受けた印象に過ぎず、くだけた口調の柔らかさや、穏やかな笑顔など、その瞳の奥のほかにはっきりと嫌な感じを受けるものはなかった。

 すこしだけ警戒を解きつつ、ふたりで並んで歩く道すがら、

「織江さんのお孫さん、と言っても、きみがこの村に初めてかめったに来ないわけだよね。生まれは、どこなんだい?」

 と、古泉さんがぼくに聞くので、

「なんで、ぼくが初めて来たって分かるの?」と返すと、

「それは相手をしっかりと観察してるからだよ」と古泉さんが薄く笑みを浮かべる。「きみの履いているその傷みの激しくなった長靴は、きみのではなく、借り物だろう? サイズが全然合っていなくて、歩きにくそうだ。この村の子か、もしくはここに頻繁に訪れる人間なら、自分専用の長靴を一足くらい持っていなければ不便で仕方ないだろう。あとはまぁ、靴のせいだけじゃなくて、雪に慣れていないような歩き方をしていたからな」

 確かにぼくの履いていた長靴は借り物ではないが、父方の親戚のお下がりを貰ったもので、雪を舐め切っていた父とぼくが、すこし合わないけれど、この長靴で問題ないだろう、と母と優希叔母さんの反対を押し切ったものだ。雪国の生活を知らない者に、この雪深い景色を実感として持つことは難しい。もっと強く反対してくれれば良かったのに、と母に対しての理不尽な文句が心の内で出てしまったくらいだ。

「そんな細かいところ……」

「別に細かくもないんだけどな。自分ではたいしたことに思えないものが、他人の目から見ると、やけに気になる、なんてのはよくあることさ。特に俺は昔からそういった部分に敏感だから」

 ぼくたちふたりが一緒になって帰ってきたのを、優希叔母さんは不思議そうに見ていたけれど、織江さんはそれほど驚いてはいないような様子だった。古泉さんが他者とのコミュニケーションに積極的なひとだという印象が織江さんの中で根付いていたからだろう。

「気に入られたみたいだね」

 と、ぼくたちの姿を見て、笑みを浮かべていた。

 この時点でぼくという対象を古泉さんが気に入っていたかどうか、というと、もちろんそんなことはないはずだ。ただすこしの間、会話を交わしただけの関係に過ぎない。ただ彼がぼくに対して、外から来た人間だ、ということで多少なりとも興味を持ったのは間違いなそうだ。

 織江さんの作った夕食を終え、窓越しに見える陽の沈んだ空は街灯のすくない冬の村では、ぼくの知る夜よりもさらに濃い黒で染められていた。冬の雪白村の夜空に瞬く星々はとても綺麗で、それだけがあの村の取り柄なの、と家を発つ寸前、村へと向かうぼくを諦めたような表情で見送った母から聞いた言葉が耳に残っていて、見上げた夜空に映える星々が淡く黄色に発光し、確かに母の言葉通りの美しい風景を成していた。

 ぼくはかつて母が使っていた部屋の戸をノックした。

 古泉さんから「遊びに来ないか。この村の面白い話を教えてあげるよ」と言われて、断りづらかったのもあるけれど、面白い話、という言葉に惹かれたところもあった。

「ようこそ」

 と戸を開けた古泉さんに招かれて部屋に入ると、そこはリュックサックなどの古泉さんの荷物がすこし置かれているだけの殺風景な空間が広がっていた。ぼくが使うことになった優希叔母さんの部屋には、優希叔母さんの私物と思われるものが多少あって、生活感の名残りのようなものがあったけれど、こちらの部屋には母の名残りらしきものがひとつも感じられなかった。

 いま思えば、織江さんの中で、優希叔母さんは戻ってきて、母はもう帰っては来ない、という想いがあり、それが部屋の様子として表れていたのかもしれない。ぼくの考え過ぎかもしれないが、それから十年の年月を経た今も、母はぼくの知る限り一度も雪白村の地を踏んではいないし、優希叔母さんは今やもう雪白村の住民に戻っている。そして村に帰ることを決めた時に母と大喧嘩して、絶縁状態にもなっていた。

「し、失礼します」

 緊張しながら、辺りをきょろきょろとさせていると、

「そんなに緊張しなくてもいいじゃないか。別に誰も取って食いやしないさ」

 と古泉さんが笑った。

 古泉さんは白のよれたトレーナーにスウェットパンツという、もう外に出る気のない様子が身に纏うものにはっきりと表れているようなラフな格好をしていた。

「すみません……」

「あぁ、そう言えばちゃんと自己紹介をしていなかったな。うーん、と」古泉さんが履いていたスウェットパンツのポケットから名刺入れを取り出し、そこから出した一枚の名刺をぼくに手渡した。「ちなみに織江さんからはどんな風に、俺のこと聞いてる?」

「え、っと、いや、特には……」

 さすがに、変わり者、と言っていたなんて本人には伝えられないので、ぼくはほおを掻いて、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「うん? まぁいいさ。どうせ、変わり者だ、変人だ、なんて言ってたんだろ。別に気にしないさ。この村にとって俺は招かれざる客だからな」

 ぼくはそれにははっきりと答えず、名刺の文面に目を向けた。

 ぼくが、古泉弥蜘蛛、というペンネームを初めて知ったのは、この時だった。職業はライターと書かれている。

「コイズミ・ヤクモ……」

 その語感には何となく聞き覚えがあったけれど、どこで聞いたのか思い出せずにいると、古泉さんが乾いた笑いを混ぜて、

「もちろん本名じゃない。いわゆるペンネーム……筆名ってやつだ。小泉八雲っていう、昔、すごい作家で民俗学者の先生がいてな。その名前にあやかって付けたんだ。俺もこの名前を付けてからは、在野の民俗学者を自称してみたりもするが、まっ、残念ながら、本物の先生の足もとにも及ばないどころか、その踏んだ足跡の先の地中深くにいるような存在だが、な。しがないライターだよ。『ヌー』っていう雑誌でたまに文章を書いたりしてる、怪談や都市伝説専門のライター」

「『ヌー』って聞いたことある」

「それは有名な似た名前の雑誌と勘違いしてるな。俺がいるのは、もっと紛い物の誰が読んでいるかも分からない三流雑誌だよ。ただまぁ内容は意外と硬派なところもあって、俺は嫌いじゃないんだけどな。明らかな嘘の捏造はしないし、証拠探しもしっかりとする。趣味の延長線上にいる人間たちが集まったサークルみたいな雑誌だから、素人っぽさが強いけれど、熱もあって」

 結局この『ヌー』という有名なオカルト雑誌の紛い物のような月刊誌はぼくが中学生だった頃に、廃刊してしまった。なぜ知っているか、というと、古泉さんと出会ったことが頭に残り、購読していた時期があったからだ。外見のうさん臭さに比して、意外と内容はしっかりしたものだと記憶している。1990年代後半のこの時期は、テレビでオカルト番組もよく放映していて、その流行に乗っかった形で創刊されたけれど、ブームの終息とともに消えていった短命な雑誌だったみたいだ。

 ただぼくが読み始めた頃のその雑誌には、古泉弥蜘蛛という名前をどこにもなかったのだけれど。いまとなれば、もしかしたらすべてが嘘だったのでは、と思わないわけでもないけれど、調べるために過去の雑誌に当たってみたことは一度もない。

「それの取材?」

「まぁ取材だな」

「すごい……」

「別に何もすごくなんてないし、そもそもこれが記事として使われるかどうかも分からない。噂を聞いたら、記事になろうとなるまいと、まずそこへ足を運ぶんだ。そこに謎があったら別に解けても解けなくてもいいんだ。その謎と対峙して、解き明かそうとする過程が楽しい」

「解けなくてもいいんだ」

「昔から俺はミステリが好きなんだけど、でも一番好きなのは解決篇じゃなくて、導入なんだ。魅力的な謎を見ると、わくわくするんだ。きみぐらいの頃、俺はミステリ作家になりたかったけど、今はこの都市伝説ライターが天職だと思っている。でもそれも当時のミステリ好きだった時代があってのことだ」

「ミステリ……」

「ところできみはミステリが好きかい」

「多分読んだことない」

「そうか……。今は活字離れなんてのが、進んでいるそうだからな。良かったら。これを読んでみるといい」

 なぜか古泉さんはぼくが小説を読まないと決めつけていたみたいだけれど、正しくはミステリを読まなかっただけで、小説自体はよく読むほうだったはずだ。ただ、わざわざ訂正するようなことでもなかったので、ぼくは彼のその言葉に頷くだけだった。

 そう言ってぼくに渡してくれたのが、一冊の表紙のない文庫本だった。それはその佇まいだけで何度も繰り返し読まれたのが分かり、ぼくは『オリエント急行の殺人』を受け取ってから、

「帰るまでに、返しますね」

 と答えた。

「まぁもう内容も覚えているから無理に返さなくても大丈夫だよ」

「いえ、ちゃんと返します」

 実際のところがどうだったのかを本人から聞いたわけではないので分からないけれど、大事にしている本でつねに携帯しているものだ、とその文庫本をひと目見た時から感じていたので、すぐに読んで返さなければいけない、という気持ちになっていた。

 しかしそれを返す機会は今になっても訪れてはいない。

「ミステリを読むと、何がいいか、って言うと、今まで目を向けていたものから離れて物事が考えられるようになる。ひとつの見方に別の見方を加えられるようになるんだ」

 古泉さんへの恐怖心が消えたのは、この時だった、と思う。確かに彼は変わり者だったのかもしれないけど、あぁこのひとともうちょっと話してみたいな、という感覚を抱いたのも事実だった。

「……と本題を全然話してなかったな。そう面白い話というか、この村の伝説、というか事件というか、そういうものがあってな。その出来事についての話が、編集部に届いて、俺に調べて欲しい、と白羽の矢が立ったんだ。どんな出来事だと思う?」

 仕事の話を無関係なぼくにぺらぺらとしゃべってしまっていいのだろうか。子どもらしくないと言われればそれまでだけど、その話を聞かされて最初に浮かんだのは、そんな感情だった。子どもだから別にいいだろう、という軽率な理由にも思えなかった。

 なぜぼくに話したのか。その理由、彼の目的を知るのは、もうすこし後のことになる。

「この村には女神信仰があるらしくてな」

「女神信仰?」

「女神と言っても、本当に天からやってきた女神がこの村にいて、とか、そんな童話みたいな話じゃない。すこし難しい話に感じるかもしれないから、分からないところがあったら、止めて質問してくれ」

「うん」

「厳密には女神のように、敬われている女性がいる……というより、敬われていた女性がいたんだ。その女性は1950年代の中頃から60年代の終わり頃までこの村の村長をしていて、実際に敬われていたのかどうかは知らないが、その時期、村を牛耳っていたのが、彼女だったのは間違いない。この辺のことをもっと詳しく聞きたいとは思っているんだけど、ここの住民はなかなか口が堅くてな」

「だからさっきの家にも……」

 琴吹さんの玄関での一件は、こういう村にとってデリケートな部分を古泉さんが根掘り葉掘り聞こう、とした結果だったのだろう。住民が嫌な顔をして、そのしわ寄せが本人以上に、織江さんに向かうのも無理のない話だった。

「琴吹さんは、この村の最長老と呼ばれているひとだからな。頭もしっかりとしているし、実りの多い話を聞けると思ったんだけど、手強くて、な。若いひとたちはそれなりにただの言い伝えくらいに思ってるからか、意外と話してくれるんだけど、当時を知るような高齢者たちの口は堅い堅い。まだ俺も断片的な情報を推測込みで繋ぎ合わせている段階なんだけど、この謎めいた物語は、俺を予想もしていない場所へと連れて行ってくれる。そんな気がして、わくわくが止まらないんだ」

 その時の彼の眼差しは子どものぼくよりも、無邪気な子どものような目をしていた気がする。好奇心の強い大人が当時ぼくの周りにはすくなかったので、その姿は不思議な魅力として、その頃のぼくには映ったけれど、いま思えば、それは裏返すと、未熟さの表れで、危ういものでもある。好奇心は猫をも殺す、という言葉もあるくらいだ。

「もし、きみが協力してくれるなら、分かっている段階の話を教えてあげるよ」

 餌を垂らすように、古泉さんの言葉には甘美な響きがあった。

 ぼくが生まれて初めて誰かと探偵と助手の関係を結んだのは、きっと梶井和已ではなく、古泉さんなのだろう。

 謎の魅力に抗えなかったのは古泉さんだけではなく、ぼくも同様だったみたいだ。

「教えてください」

 その言葉を、待ってました、とばかりに、古泉さんは長い長い話をぼくに語って聞かせてくれた。目的があってのこととはいえ、楽しそうに話す彼の表情は、本当に誰かに話したくて仕方のなかったひとのものだった。

 話は深夜過ぎまで続き、ぼくは疲れていつもよりも強かったはずの睡魔さえも忘れて聞き入ってしまった。それだけ古泉さんの話術が長けていた、ということでもあり、もしも彼が詐欺師だったなら大金持ちにでもなっていたかもしれない。

 結局ぼくたちの話し声に気付いた織江さんが、ぼくたちのいる部屋へと来て、早く寝るように、と窘めるように言って、そこで会話は中断してしまったけれど、その時には聞きたい話自体はほとんど終えてしまったあとだった。

 ここで古泉さんから聞いたことをくどくど説明する必要はないだろう。それ以降のぼくが雪白村で出会った色々なひとたちとのやり取りの中で、おのずと明らかに分かっていくことだからだ。ぼくの言葉だけで詳らかにしていくのは、あまりにもつまらない。

 ただ留意しておかなければならないのは、語る人間によって同じ話をしていてもすこしずつ内容が違う、ということだ。当たり前のことかもしれないけれど、この事実をぼくたちは蔑ろにしてはいけない。

 それは事の真相をすべて把握してるものは誰もいない、とも言えるのではないだろうか。各自が部分的に知った事実に推測を加えて話しているので、仮に意識的に嘘を吐いたわけではなかったとしても、間違った事実としてぼくの耳に伝わることはある。

 雪白村での一件の後、ミステリが身近になり、高校時代に梶井和已と出会ったぼくにとって、これはわざわざ言葉にするほどのことでもないけれど、あの頃のぼくにもうすこし思慮深さがあったなら、この謎はもっと単純なものになり、そしてこの悲劇はもしかしたら起こらなかったのではないか。

 後悔しても、もう遅い。分かってはいても、その悔いが頭から離れることはなかった。



 翌朝、ぼくと古泉さんのふたりは琴吹さんの家に上がり、居間に並んで座るぼくたちは、お茶を淹れてくる、と険しい表情を変えずに言ってその場から離れた琴吹さんが戻って来るのを待っていた。

 はじめてその顔を見た琴吹さんは覚束ない足もとが心配になる高齢の女性だった。ひとりで暮らしているそうで、頭のほうはしっかりとしているようだった。本質的に気位の高さがかいま見える上品そうな佇まいをした女性だけれど、普段は隠そうと押し込めているのだろうその気位の高さがぼくたちへの怒りのせいか剥き出しになっていたように思う。

「うまく言ったな」

「だけど……。絶対に怒ってましたよ」

 居間から台所は見えないので、わざわざ大きな声でしゃべらなければ、普通の音量でもぼくたちの会話は琴吹さんの耳に入らないだろうけれど、不安もあり、会話は自然と声を潜めるような形になった。

「まぁ、そりゃそうだろうな。こんなに何回も訪ねてきて、果てには子どもを出汁に使うんだから。特にああいうひとたちは体裁をやけに気にするからな。内心は嫌でも、いつもほど強く拒絶はできないんじゃないかな、と思ったんだよ。正解だったな。協力、感謝するよ、パートナー」

 協力というのは、こういうことだったのか……。

 それを知った時、がっかりした気持ちはあったけれど、それでも古泉さんと一緒に行動していた時間は良く悪くも刺激的だった。

「なんか、すごく悪いことをしている気がする」

「まぁ村の年寄り連中にしてみれば、悪いこと、だろうな。過去を掘り返す俺たちは、災厄みたいなものさ。なぁそう言えば、さっきの女の子は知り合いか?」

「ううん……初めて見ました」

 ぼくは首を横に振った。古泉さんが言っているのは、先ほど織江さんの民宿の前で見掛けた子どものことだった。そのひとこそが件の雪白楓なのだけれど、その時点では、ぼくも古泉さんも、楓の名前すら知らなかった。この段階では不思議な印象を持った、はっと目を惹く中性的な美少女で、その容姿にぼくがどきりと高鳴る心臓を意識してしまったくらいだ。年齢はぼくとそれほど変わらなく見えたけれど、あとで話すようになってぼくよりもふたつほど年上だと知り、緊張がさらに増したのを覚えている。

 ぼくたちの姿に目を留めた楓の、めずらしいものを見るような眼差しは、ぼくがここにいてはいけないような気持ちにさせた。楓の視線に、悪意や敵意を感じた、というわけではなく、おそらく楓の中にそう言った感情はなかったはずだ。

 疎外感に近いのかもしれない。

 村人たちか、そうではないか。それは、そのほとんどが顔見知りという田舎の小村においてどこまでも重要なものなのだ、と同世代の子どもの瞳の奥にある感情を通して改めて実感してしまったからなのかもしれない。あっ、なんか違うひとがいる、と不思議そうにぼくを見る眼差しに疎外感を覚えて、ちくり、と胸が痛んだのだろう、と、あの時の曖昧だった感情を、今になって整理して考えると、そんな風に思う。

「まぁ知ってたら、どっちかが声を掛けてるか……」

 と、古泉さんは勝手にひとり納得したように頷く。

「琴吹さん、遅いですね」

 話を戻すようにぼくが言うと、古泉さんが薄い笑みを浮かべた。

「便所の水でお湯でも沸かしてるんじゃないか? なんたって俺たちは招かれざる客だからな」

「やめてよ……」

 冗談めかして言っているのは分かったけれど、その言葉とともに琴吹さんがしわを刻んだ手で持ったコップがトイレの水を掬う映像が浮かんだ。

「悪い悪い」

 古泉さんの意地の悪い笑みに重なるように、琴吹さんが居間に戻ってきた。お盆に湯呑みを三つ乗せて。湯気と茶柱が立った薄い褐色の番茶は、冬の寒さにとても合っていたけれど、緊張しているふりをして手を付けなかったのは許して欲しい。

「はい。……子どもを使うなんて感心しないわね」

「なんのことでしょうか。波瑠くんはまだこの村に慣れていないみたいなので。行動するひとも一緒にいたほうが安心でしょう」

「ふぅん。他人のあなたが? それをするなら優希がすべきでしょう」

 近くに住んでいるのだから何もおかしくはないのだけれど、優希叔母さんがこの村に帰って来てることやぼくがその甥っ子であることを当たり前のように知っている、その情報の伝わる早さに改めて驚いてしまう。

「波瑠くんが優希さんの甥っ子だと、もう知っていたのですね」

「変かしら? 見たことのない顔があればすぐに気付くし、それに昨日の夜、佐野さんのところに行ったら、朔治さんと優希が話をしていてね。その時に知ったのよ」

 確かに昨晩の夕食のあと、優希叔母さんが、すこし出掛ける、と言っていた。あの無口で不愛想な雰囲気を外に放っていた朔治さんと優希叔母さんが、どんな話をしていたのか気になったけれど、琴吹さんは詳しい話を何もしてくれなかった。

「いえいえ、全然。この村はひと付き合いが密接ですからね」

「含みのある言い方ね。……それで聞きたい話っていうのは、……まぁ分かってるけど」

「えぇ、かつてこの村の村長をしていた理瑛さんの件です」

「はぁ」と琴吹さんが露骨な溜め息を吐く。「今回が最初で最後。絶対に嘘は書かない、と約束してくれる?」

「もちろんです」

 と、古泉さんがにこやかな笑みを浮かべた。その笑みが信用できないものだ、ということは、琴吹さんも気付いていたはずだ。もう家に入れた時点で諦めていたのかもしれない。

 ゆっくりと過去を懐かしむように、あるいは嫌悪するように、あるいは恐れるようにして、琴吹さんは語り始める。

「理瑛様は――」

 名前の後に付けられた、様、という敬称にぼくは違和感を覚えた。確かに古泉さんから事前に聞かされていた話から、どれだけその女性がこの村において影響力を持っていたかは知っていたけれど、村の一村長に、様、を付けるのはやはり異様な感がある。ぼくからすれば会ったことのない女性なので、あくまで理瑛さん、とするに留めておく。

 理瑛さんが雪白村を訪れたのは戦後間もない頃のことだ。誰かを伴うこともなく、たったひとりで。ぼくたちが村を訪れた、いまみたいな時期よりはすこし遅く、だけど同じく冬の時期に雪白村に現れた理瑛さんは、雪の白い粒をまぶした冬枯れの草を踏みながら、何を思っていたのだろうか。

 その名残りはいまもあるけれど、その当時は比べ物にならないほど、排他的なムラ社会を形成していた雪白村の村民にとって、これと言った理由もなくいきなりやってきた理瑛さんは、敵意を向けるべき闖入者だったそうだ。

「理瑛様は、私よりすこし年上だったけれど、年齢よりも若く見えて、とても綺麗なひとだった。だけどその美しさが、男性たち以上に村の女性からも嫌われる要因になったんじゃないかな」

「琴吹さんの印象としては、どうだったんですか?」

「まぁわたしだって、この場所の水をずっと飲んできた人間だから、最初は同じく嫌な顔をしていただろうね。でも別にこれは言い訳でもなんでもなく、事実として、わたしなんかはずっとましなほうだった、と思うけどね。口さがない連中は東京で非合法な商売していて、そこに住み続けられなくなったから、ここしか寄る辺がなくなったんだ。病気が感染るぞ、感染るぞ、なんてひどい噂を流していたくせに、理瑛様の力を知ると、前までのことなんて何もなかったように懐きだして。見ているこっちのほうが、うちの者がすみません、って感じで穴に入りたくなったよ」

 理瑛さんの力がどういうものかは、この時点でぼくは古泉さんから聞かされていたので、驚きもしなかったけれど、緊張は覚えた。ずっと理瑛さんという人間を間近に見てきた琴吹さんにとって、その能力はどのように映ったのだろうか。

 眉に唾を付けて聞いたほうがいい、とこの能力の存在が理瑛さんの村での地位を高めたことは疑いの余地が一切ないけれど、古泉さんは彼女の能力の存在の有無に対しては半信半疑だった。

 ぼくは、というと、当時のノストラダムスの大予言が流行るような世相にも大きく影響を受けていたのだ、とは思うが、彼女の能力を信じてしまっていた。いや厳密に言えば、信じていた、というよりは、あって欲しいなぁ、と感じていたのかもしれない。

「それを村人たちが知った経緯はどんな?」

「もう知ってるだろう。そのくらいは」

「過去は、語るひとによって、すこしずつ変わってきますから。ぜひ琴吹さんの口からお願いしたいです」

「ふぅん」とその言葉に、琴吹さんが気のない表情で答えた。「まぁいいけど。もうそこの血縁者は誰もここにいないから名前は省くけど、わりと当時から外の人間にも優しくしていた、とある家族がいてね。村のひとたちからはあまりよく思われていなかったけれど、気にも留めない、っていう家族で、理瑛様はそこの家のひと部屋を間借りして住んでいたんだけど、わたしの知っている限りで、最初に理瑛様の力と接したのは、そこの娘さん、だった、と思う……あぁそう言えば……」ふと何かを思い出したように、ぼくの顔をじっと見つめた。「あの子は確か、織江さん……そうあなたのお祖母さんと仲が良くて、織江さんのお兄さんとあそこの娘さんは恋仲だった時期もあったはずだよ」

「ふむ」と古泉さんがあごを撫でた。「織江さんはそんなこと一言も。というか理瑛様の件については何も」

 古泉さんはぼくに話す時は、理瑛、と呼び捨てだったけれど、琴吹さんの前だからか、しっかりと、様、を付けていた。

「理瑛様の話なんてしたくないだろうさ。彼女はあのひとに複雑な想いを抱えているだろうから」

「どういうことですか?」

「それは本人に直接聞くといいよ。多分、わたしより口が堅くなるだろうけど、ね。織江さんのことだから、きっと」そこで視線をぼくから古泉さんに変える。「織江さんのことだから、きっと、村のことを調べようとするあなたに穏やかな表情を浮かべているだろうけれど、内心はまったく穏やかじゃないと思うよ。親切にしてくれたひとを傷付けたくなかったら、わたしの話くらいで我慢して、もう帰るといいよ」

「考えてみます」

 と古泉さんが神妙な顔をして答えたけれど、このくらいのおどし文句で帰るくらいならはじめから、雪白村には来ていないだろう。

「……ふぅ」と琴吹さんは古泉さんをまったく信用していない表情のまま、ひとつ溜め息を吐いた「まぁいいや続けるよ。そこの娘さんが二十歳そこそこの頃だったかな、妊娠中の時期に体調を崩したの。……あぁ、相手は織江さんのお兄さんではないよ。その頃にはふたりはもう別れていて、お互いに別の相手と結婚していたからね。好きなひとと簡単に一緒になれるような時代でもなかったし、ね。まぁそんな話はどうでもいいか。自宅近くの道端でうずくまっているのを見つけたの、わたしなの。診療所もそんなに遠くなかったから肩を貸して、そこまで連れて行こうと思ったんだけど……、えっ、確かにあまりよくは思っていなかったけれど、だからって道端で苦しんでいるひとを見捨てたりはしないわよ。そう……それで、肩を貸して立ち上がった時に、彼女に『家に行きたい。お願い……』って言われて、駄目っていうわたしの言葉を聞いてくれなくて、仕方なく彼女を、彼女の家まで運んだら、家族も大慌てだった。だけど診療所へ行くと言ってくれるひとは誰もいなくて、『町の病院まで車で運ぼう』と誰かが言い出して、それにみんな納得してる様子で、でもどう考えても、そんなに時間の余裕がある感じじゃなかったから、『まずは診療所に……』って我慢できず口を挟んだんだけど、お前は関係ないだろ、って冷たい目で見られたのを、今でも覚えてるわ」

「なんかよく分からない話ですね。家族の一大事なのに」

「わたしはだいぶ後に知ったんだけど、診療所の院長とそこの家は特に犬猿の仲だったみたいで……。だけど仮にも医者なんだから、たとえ嫌いな相手だったとしても母子のどちらかの、あるいは両方の命に関わりかねない患者を無下に扱ったりしない、とわたしはそう思うけど、彼らは院長を医者である前に人間だ、と考えたんだろうね。人間だから、自身の感情を優先しかねない、と」

「まぁ大切な家族の命が関わっている状況ですから、焦りと慎重さの狭間で揺れていたでしょうね」

 自分ならすぐに判断できるだろうか。もしかしたら答えが出せないまま時間だけが過ぎていくのではないか、と、そんな思いがよぎったのを覚えている。

「まぁね。そうやって全員がばたばたしている時に、ちょうど理瑛様が家に戻ってきて、娘さんの周囲にいたわたしたちをかき分けて、苦しむ彼女の身体に触れたの。そうしたらね……、治ったの。それまでの苦しそうな表情が嘘のように……」

 雪白村に住む多くの女性の病を不思議な力で治し、理瑛さんは特に女性を中心に村人からの尊敬を一心に集めた。この能力の存在は、自然と女性の長寿や地位の向上に繋がり、男女の人口比率も大きく変わり、この村は現在では一対九の割合で、男性が圧倒的にすくない村になってしまった。

 老衰や末期癌のような、いわゆる不治の病はどうしようもなかったそうだけれど、それ以外の病はあらゆるものを治したらしい。確かに今となっては古泉さんの、眉に唾を、という言葉がよく分かるような内容だけれど、子ども心には、信じたくなるような不思議な話だった。それに、女性の比率が男性を大きく上回っている、という事実もある。

「最初に見た時、どう思いましたか?」

「偶然だ、と思った。だって触っただけで病気を治せるひとなんて、いるとも思わないじゃない」

「それは、まぁ……」

 と、同意するような相槌を打ちながら、古泉さんは意外だ、というような表情を浮かべていた。

「そんなに意外? 不思議なものを見て、最初からそれを盲目的に信じるひとのほうが、少数派だと思うけど……。別に最初はわたしもそうだし、他のひとたちも疑いの目で、理瑛様のことを見ていたわ。その娘さん以外にも、いくつかそういう感じで救われる女性がいてね。でも治してもらった女性はみんなもともと理瑛様に、どちらかと言えば好意的なひとたちだったから、何か裏でやり取りがあるんじゃないか、なんて勘ぐるひとも多かった」

「でもそんなことをして何のメリットがあるんです?」

「メリットがあろうとなかろうと、自分の都合の良いように考えるのが、噂だよ……。だから、最初にその力を見た時から、『ははぁ、理瑛様』みたいに村人全員が頭を下げだしたわけじゃない、ってことはしっかりと頭に留めておいて欲しいわね。数年に一度くらい、あなたのようなひとがこの村の歴史を調べに来るんだけど、たまにここを狂信的な村に仕立てあげようとするひとがいるから」

「他にも、そんな奇特なひとが……?」

「奇特、というか、わたしからすれば感心しないひとだけどね。変人ばかりだったけれど、すくなくとも一番しつこいのはあなたね。そして失礼なのも。あなたは慇懃無礼という言葉を知らないのかしら。……うん。なんかあなたと話していると、いつも以上に、話が脱線してしまって良くないわ。もうこれで終わりでいいかしら」

「いえ、一番聞きたいのは、ここからなんです」

「まぁそうでしょうね。だけどわたしがそこまで言うと思った。ここで本当に終わり。じゃあ、帰ってくださいな」

 終わりを宣言した時、その日、ぼくの見た中で琴吹さんはもっとも穏やかな表情をしていた。

「そうですか……」

 と、古泉さんは言って、ずずっと湯呑みに入ったお茶を啜った。

「美味しいかい?」

「美味しいですね。ただもうすこし綺麗な水を使えば、さらに良くなると思いますよ」

 かすかに琴吹さんの表情が変わり、「ふふ」とちいさく嫌な笑みを浮かべた。その表情を見た時、飲まなくて良かった、と心底思ったのを覚えている。

「食えないばあさんだったな」

 琴吹さんの家を出ると、古泉さんの言葉が辛辣なものになった。

「食べる話は聞けませんでしたね……」

「おっ、うまいこと言うな」

 時刻は正午を過ぎていて、降ったと表現するほどでもないような小雪がちらつく天気だった。

「仕方ない。戻ろうか。織江さんが昼飯を作っているだろうし、それにお兄さんの話も聞きたいし、な」

「ぼくは……。もうちょっとだけ、ぶらぶらしてから、戻ろうかな、って」

「そうか……。まぁそれは別に構わないが」

 古泉さんは気付いてなかったようだけれど、ぼくは遠目に見えるその姿に気付いていた。自分と同じ年頃くらいの子どもがいたことに。ぼくは古泉さんが見えなくなると、じっとぼくたちのほうを見ていた雪白楓のいるほうへと歩いた。

 その途中――、

 足もとをしっかり見ていなかったぼくは、道の端の雪の溜まりを踏んでしまい、ぼくの身体は腰のあたりまで雪で埋まってしまった。

「大丈夫!」

 その声とともに、その子はぼくの手を握ってくれた。こんな寒い日に手袋も付けないその裸の手は赤くなっていて、とても冷たそうだったけれど、実際にそれがどれだけ冷たい手だったのか、手袋を付けていたぼくには分からなかった。



「他に怪我とかはない?」

「だ、大丈夫」

 その時のぼくは本来いるはずではなかった雪白家の居間にいて、雪を踏み抜いた際に挫いた足を温めていた。痛みはあったけれど、それは、すこし経てば治る程度のものだった。楓が心配そうに「うちに来る」と言った時も、ぼくは「大丈夫だよ」と断ったのだけれど、思ったよりも強引に、ぼくは楓の住む家へと連れて行かれてしまったのだ。その平屋は琴吹さんの家から歩いて五分くらいの距離にある。当時の楓の身長はぼくよりすこし高く、肩を貸してくれて、大人びたその雰囲気に頼りっぱなしだった。

 細身だけれど、その身体の細さに似合わない力強さがあったように思う。雪白村は、女性の比率が多いだけに、力仕事にも積極的になるのかもしれない、と当時のぼくとしては、ちょっと悔しかったのも事実だ。

 楓は淡く白と黄の中間のような綺麗な肌をしていて、大きな目に映える長い睫毛が印象的だった。美人と言って異を唱えるひとはすくないだろう。

 楓以外の家のひとは全員出払っていて、ぼくと楓のふたりしかその場にいなかった。その状況が、楓の髪からかおるシャンプーのにおいをよりあまく感じさせた。

「織江ばあのところの子なんだよね。お孫さん。ここに来たの、初めて?」

 ばあ、という言葉を付けて織江さんのことを呼んだ楓の自然な口調はぼくよりも本当の肉親の間柄を思わせた。

「う、うん」

「へぇ。ふぅん」

 楓はちいさな微笑を浮かべて、ぼくの顔をじっと見つめる。その目にはめずらしいものを見るかのような色も感じられて、本来なら嫌な気持ちになりそうなものだけれど、楓の表情にはそういう感情を抱かせない雰囲気もあった。

「ねぇ、一緒にいたひと……、最近村のことを調べている古泉さんっていうひとだよね。何をどこまで聞いたかは知らないけど、あんまりあのひとには関わらないほうがいいよ。言い伝えなんて、大抵、嘘か尾ひれが付いているだけなんだから」

「信じてないよ」

「嘘を吐く時は、もっと真実っぽく言いなさい。ふぅ。ねぇもう足の痛みは引いた? ちょっと外に出ようよ」

 楓は返事も待たずに、ぼくの手を引いて立たせて、着替えを急かした。外に出ると、暖房のある温かい場所からの寒暖差により風が冷たく感じられた。

「どこ行くの?」

「まぁとにかく付いてきて。あっ、また怪我しないように、足もとには気を付けてよ」

 地面の不安定さを何も感じさせないような足取りで歩く楓を、ぼくは見失わないようにしながら、ゆっくりとした歩調で追い掛けた。

「ここ、ここ」と立ち止まった楓は、そこにある看板を指した。「ここは村のちょうど中央部に当たる場所になるんだけど、昔、理瑛さんの銅像が建てられていたの」

 楓は、理瑛様ではなく、理瑛さん、と呼んだ。

「様、を付けなくていいの」

「知ってる? 尊敬してないひとに、様、なんていらないんだよ。ねぇ琴吹ばあや古泉さんからどこまで聞いたの? ふたりが家に入っていくところはちゃんと見たから。他にきみたちが琴吹ばあに聞くことなんてないでしょ。きみ――」きみ、って呼びにくいね。名前は、と聞かれたので、ぼくが自分の名前を告げると楓はまた続けた。「波瑠は嘘の吐けない子みたいだから、最初から本当のことを話したほうがいいよ」

 この時はまだ楓を同い年か年下くらいに考えていたので、なんか偉そうに、と不満にも思っていた。

 とはいえ別に隠す必要もない気がしたので、ぼくがそれまでの知っている話を伝えると、楓は静かに相槌を打ちながら聞いてくれた。古泉さんから聞いていた話の一部は直感的に言うべきではない、と思ったので、その部分だけは意識的に隠した。楓も気付いていただろうが、そこは掘り下げなかった。

「あんまりそういう話は信じすぎないほうがいいよ。噂ってどこかで誰かを傷付けるんだから」楓が意味ありげに寂しい笑みを浮かべる。「それに、そういうのがない関係のほうが友達になりやすい、と思うんだ」

 ねっ、と握手を求めるように差し出した手を、あの日、ぼくは握った。その手は思いのほか柔らかかった。

「この看板に何も書いてないでしょ。看板だけ残して、文字は当時の村人が消したんだけど、理瑛さんの銅像が建てられていたの。波瑠の話には続きがあるの。それはこの銅像を怒りとともに、村の男たちが壊した、ということ。確かに今でも理瑛さんを知るひとで敬い続けるひとはすくなくない。例えば私の母なんかが、そう。悪いひとじゃないけれど、思い込んだら一直線、というか。だけど同じくらい憎んでいるひともすくなくない。特に男性は。こんな話を知ったって、波瑠には何ひとつ得になることなんてないんだから、忘れなさい。その顔は納得してないね」

 楓が苦笑いを浮かべる。

「そんなことない」

「本当に嘘が下手だね。まったくあんな、エロババアのことなんて知ったところで、どうにもならないのに」爽やかな憎しみもないような表情で、エロババア、と言った後、楓は、「まぁ、母にこんなの聞かれたら、殺されちゃうかもしれないけどね」と続けた。

「あの……」

「私は波瑠の知ってることくらい、全部知ってる。だから別に私が女性だからって隠さなくてもいいよ」

 能力とともに村内で成り上がっていった理瑛さんは、その権力が絶頂にいたった時代において、村の若い男を取り替えながら自宅に呼び続けた。そこで何があったのかをその男たちの誰も語らなかったけれど、容易に想像がつき、公然の秘密として扱われるようになった。

 古泉さんはそこに起因する、とされる、その後の怪事件を調べていた。

「別に隠していたわけじゃ」

 と、ぼくは嘘を吐いた。

「初めて会った私の言葉なんて信じられないかもしれないけれど、本当に波瑠のことを思って言ってるんだよ。この村のことなんて知らないほうがいい。ねぇ波瑠はどのくらい、ここにいるの?」

「三日後の予定」

「だったら、さ。明日は暇なわけだ。私、ね。学校も通えなくて、この村しか知らないんだ。明日、この村を案内するから、波瑠の住んでる町のことを教えてよ」

 聞くと、楓は親から勉強を教えてもらい、学校には通っていないらしい。市内にある学校に通わせることに楓の両親は消極的らしく、はっきり言ってぼくとは、学校に行っていない、という言葉の意味が全然違っていて、同じものとして捉えられたら楓としても不満だろうけれど、その言葉に親近感を覚えなかったか、と言えば、それは嘘になる。単純な性格と思わないでもないけれど、見た目や雰囲気も合わさって、この一回のやり取りで、友情か恋心か、それに近いような感情まで抱いていたような気さえする。

「いいよ。ぼくも自分の町のことなんて全然知らないけど」

「波瑠自身のことを話してくれれば、それはそのまま、その町についての話になるよ」

「そんなこと言っても……」

「明日の昼過ぎの一時に、ここに落ち合おうよ」

 基本的にぼくはこの村でしないといけないことは、ひとつもなく、断る理由はなかったけれど、気恥ずかしさが先行して中々頷くことができなかった。だけど楓はぼくの答えを待つこともなく、約束したことになってしまった。

「あんまり外にいる、と風邪を引いちゃうね。特に波瑠はこういう寒さに慣れていないだろうし……。織江ばあのところまで――」

「姉ちゃん!」

 楓の言葉をさえぎるように、遠くから言葉が聞こえた。それはぼくよりもずっと幼い顔立ちの男の子だった。

「奏」と、その男の子を見て、楓はそうつぶやいた。「弟。どうしたんだろう」

「お母さんが怒ってるよ」ぼくたちに近付いてきた奏は、楓に向けて言った。

「なんで? ……というか、母さん、今日は帰って来ないんじゃ」

「用事が早く終わったんだって。……それに、なんで、って、そりゃ」とぼくをちらりと見た後、すぐに視線を楓に戻した。その目でぼくは察した

「……まぁとにかく、姉ちゃんが帰って来ないと、俺が八つ当たりされるんだから」

「あぁ、しまったなぁ」

 その時はまだ楓の母親の怒りが、ぼくのせいだ、と察することはできたけれど、この村でも特によそ者……というよりも、自分と一部のひと以外の他者を極度に嫌う人物だということまでは知らなかった。

「ごめんね、波瑠。私すぐに帰らなきゃ。そんなに遠くないし、そこを、ね」と楓は指の先を北に向けて、言った。「ずっと真っすぐ歩いたら織江ばあの家に着くから。夜道は危ないから気を付けてね。今度は雪に埋もれても助けてあげられないから」

 そう言うと、もう駆け出していた奏を追いつこうと小走りになった楓は、ぼくから離れていった。

 織江さんの家は、その銅像跡付近から歩いて五分くらいだった。

 楓とぼくが関わった時間はとても短かった。知り合いだったと言ってしまっていいのか分からないほどに。だけど短かったからこそ、もしかしたらその印象が鮮烈に残っているのかもしれない。

 民宿に戻ると、優希叔母さんと織江さんに叱られるかも、と思ったけれど、ぼくに注意したのは織江さんだけだった。何故なら優希叔母さんはまだ帰って来ていなかったからだ。織江さんに、どこに行っているのか聞いてみたけれど、教えてくれなかった。理瑛さんの話も織江さんから聞いてみたい欲求にも駆られたけれど、さすがにそれは聞けなかった。

 おそらく古泉さんは織江さんに話を聞こうとしたのだろう。ふたりの間に険悪な空気が流れていたからだ。織江さんにも古泉さんにも、その夜は、あまり話しかけられる雰囲気ではなかった。

 だからぼくは部屋でのんびりと『オリエント急行の殺人』を読み進めることにした。

 途中、睡魔が襲ってきた頃に、優希叔母さんが帰宅したのだろう。

 一階のほうからかすかに口論するようなやり取りが聞こえてきたからだ。

 気になりはしたけれど、睡魔と疲れには勝てず、ぼくは気付けば眠りに落ちていた。



 尊敬を集める一方で、男を喰らう女神と裏で揶揄された理瑛さんを、楓はエロババアと呼んだ。

 村長として、大きな屋敷に住むようになった理瑛さんだったが、家族は持たず、生涯、独身を貫いた。夜な夜な、そのお屋敷を何人もの若い男が交代して訪れていて、そこで何が行われているのかを理瑛さん自身も若い男たちも一切口にはしなかったけれど、彼らは理瑛さんの夜の相手、有り体に言えば理瑛さんは彼らと性交を繰り返していた、というのが、村人にとっての暗黙の共有事項になっていた。

 古泉さんから初めてその話を聞かされた時、その立ち上がる淫靡なイメージに、どきり、としてしまった。

 ながく村長の座に君臨してきた理瑛さんだったけれど、村の政治にほとんど関わることはなかったらしく、病魔や厄災を村から追い払うための象徴として村人からは扱われていた、という印象が強い。病気を治す能力を持つ、というだけで、村の繁栄を考えてもこれ以上、特別な能力はないのだから、それだけでも絶対的な権力を有するに値するのかもしれない。

 理瑛さんは1980年に入ってすぐに鬼籍に入ったけれど、六十年代から七十年代にかけては一度も別の人物に代わることなく村長の役職に就き、ではこの間、村に医者が要らなかったか、というと、もちろんそんなことはなく、まず男性の病気を治すことができず、そして晩年は特に病の回復を願って彼女のもとを訪れる女性の住民たちさえも拒絶する傾向にあった、という。

「理瑛の死後、彼女に関わった男たちが見舞われた悲劇。俺が何よりも調べたいのは、それだ」

 初日に古泉さんはそんなことを言っていた。

 それが二日目に楓から聞かされた壊された銅像の話に直結していくわけだけれど、古泉さんは銅像の話までは知らなかったみたいだ。いや、もしかしたら知っていたけれどぼくには言わなかったという可能性もある。ただそんなことをする理由が浮かばないので、知らなかったと考えたほうが、ぼくとしては、しっくりと来る。だから古泉さんが話を聞いたひとたちは、意識的なのか偶然なのか、までは分からないけれど、古泉さんにその銅像の話を伝えなかったわけだ。

 この頃のぼくは、どこか非日常の冒険を楽しんでいる面が大きく、そこにひとの心が介在していることに対してあまりにも無頓着だったような気がする。だけどこの話はぼくが考えていたよりも、村に塗りつけられた憎しみの色はずっと濃かった。それは危険なことだ、と楓は警告してくれていたのだ。

 たぶんぼくが本当の意味で真剣に過去に起こったその事件と向き合おうと決めたのは、楓の死後、この時から十年もあとのことだった。ぼくと雪白村の過去の事件はまったくと言っていいほど関わりがなく、そして現在の事件との繋がりがどれほどあるのかはいまのところ分かっていないけれど、まったく関係ないとは考えられない。ほんのすこしのことで、未来は簡単に変わる。ぼくが最初から関わろうとしなければ、いやそもそも雪白村に行きたい、という意志を示さなかったら、元を辿ればカウンセリングに通わなければ、もしかしたら楓の死だけでも防げたのではないか、とそんな考えが何度も脳裏をよぎったりもする。

 翌日も、古泉さんはぼくに、一緒に行かないか、と誘ってくれたけれど、ぼくはそれを断った。楓との約束があったことが一番の理由だったけれど、古泉さんと険悪になった祖母の目が気になったのも事実だ。

 古泉さんとだけじゃない。母と祖母の間にも微妙な距離を感じて、ぼくは昨晩に聞いた口論のような声を思い出していた。

 このまま古泉さんと行動をともにしたい、という好奇心もあった。だけどその一方で、織江さんの咎める視線に、そのぴりぴりとした空気に、あなたはどっちの味方なの、と責められているような気分にもなった。

 楓との待ち合わせを選んだのは、先に約束したのが楓だった、というのもあるけれど、トラブル避けたい気持ちも大きかった。

 だけど……、

「わたしが中学生くらいの時だったかな。亜紀姉さんはもう高校に行っていて、姉さんの通っている高校はこの村はここからすごく遠くて、部活もしてて帰って来るのも遅かったから、すれ違いが多かったんだけど、その話はよくふたりでした覚えがあるの。亜紀姉さんはあの頃、反抗期真っただ中って感じで、家にいる時は全然話してくれなかったんだけど、その話をしてきたのは姉さんのほうからだった」

 望もうと望むまいと、ぼくはこの一件から逃れられなくなってしまったみたいだ。

 結局、その日、待ち合わせ場所に楓は現れず、ぼくは佐野さん夫妻が営んでいる小料理屋のカウンターで酔った優希叔母さんから、かつての事件の話を聞かされることになったのだ。

 優希叔母さんたちに会ったのは偶然だった。

 約束の昼過ぎに、ぼくは〈理瑛様 銅像跡〉と記された看板のある待ち合わせ場所に向かうと、そこには誰もいなかった。すこしの間、待ってみると、遠目に見覚えのある顔があり、目を凝らすとそれが楓の弟の奏くんだ、と分かった。焦りを隠さず口調も強かった昨日とは違い、その日の奏くんはとても落ち着いた表情をしていて、初めて話した奏くんは声変わりを終えていないのか高く澄んだ声をしていて、それはとても小さくもあり、本来の奏くんはおとなしい性格なんだろうな、という印象を持ったのを覚えている。

「ごめんなさい。実は姉ちゃんに頼まれて来たんですけど……」

「どうしたの?」

 奏くんの年齢はぼくよりもひとつ年下だった。だけどこの時はまだ実際の年齢も知らず、ただ外見の雰囲気や口調などから多分ぼくよりも年下だろう、と決めつけて自然とぼくの口調は年上としてのものになっていた。

「実は……お母さんと喧嘩して、ちょっと来られなくなっちゃって……」

「喧嘩?」

「はい……」

 奏くんの口調は申し訳なさそうだった。

「それって、やっぱり昨日の」

「いやいや、姉ちゃんもお母さんに対してだ、とすごく口が悪くなることがあるから、自業自得かも。……それで、今日は来れないって伝えて欲しい、って」

 と、奏くんに言われて、それ以上、深く聞くこともできなかったので、

「ありがとう」

 と、奏くんにお礼を言うと、奏くんは照れくさそうな表情をして帰っていった。楓と同様、奏くんにとっても同世代の子どもはめずらしい存在なのかもしれない。ぼくはその表情に、奏くんの気恥ずかしさを受け取ったような気がした。

 民宿へと戻る、帰り道だった。

 優希叔母さんと初日のバスの中で会った佐野さんの旦那さん、朔治さんが立ち話をしているのを遠目に見つけて、ぼくは慌ててすこし隠れてしまった。なぜ隠れてしまったのかは、この時のぼくには分からなかったのだけれど、いまになってみると、理解できる。

 優希叔母さんと朔治さんは二十以上年齢の離れた間柄だとは思うけれど、朔治さんは比較的、若く見える外見をしているので、並ぶ姿は兄妹のように見えなくもなかった。

 だけどしっかりと隠れ切れずに、優希叔母さんと目が合ってしまい、その近くにある佐野さんの小料理屋へと誘われて、ぼくはふたりのあとを付いていくことになった。朔治さんは初日のバスの時と変わらず、不愛想な表情だったけれど、ただ心なしかその時のぼくを見る朔治さんの目にはかすかに嫌悪の色が含まれているような気がした。

 小料理屋で、カウンター席に優希叔母さんと隣り合ったぼくは、日本酒に酔っていく叔母さんを横目に、ホッケの塩焼きを箸でつついていた。確かに優希叔母さんが絶品と太鼓判を押すだけあって、料理はとても美味しい。

「ねぇ波瑠。古泉さんとふたりで琴吹さんのところ行った、って小耳に挟んだんだけど、本当?」

「あ、……うん」

 アルコールで頬を赤くした優希叔母さんが、咎める口調半分、面白がる口調半分といった感じで、理瑛さんの死後起こった事件について話し始めてくれたのだ。すれ違いの多かった当時の姉妹さえも会話せずにはいられなかった、その事件は、複数の男性が神隠しに遭ったように突然姿を消す、というもので、それも二、三人というレベルの話ではなく、行方不明になった男性は十人を超える。

「まぁ、私たちは女性だけれど、それでもやっぱり同じ村に住むひとたちが急にいなくなる、って不安だったんだと思う。お互いに、ね。最初にいなくなったのは、原さんだったよね?」

 と優希叔母さんが朔治さんに問い掛けた。

 朔治さんの表情は事件の話以降、明らかに険しくなっていた。この村の人間にとっては触れられたくない話題なのは間違いないだろう。ただそれでも優希叔母さんの言葉にはしっかりと応えて、頷く。

 最初に姿を消したのは、大工をしていた原恵蔵という当時四十歳を過ぎたばかりの男だった。喧嘩っ早いことでも有名で、年齢とともに多少落ち着きを持ち出したものの、若い頃は相澤市内の歓楽街に悪い仲間たちと足繁く通ったり、ヤクザ事務所に出入りしていたなんてこともあって、家族からは親不孝者と何度も罵られたりする人物だったらしい。

 彼が姿を消した時には、ヤクザに海にでも沈められたんじゃないか、と噂が立ち、悲しむような者はほとんどおらず、まぁあいつならいなくなってもおかしくないか、と腑に落ちるような空気が住民たちの間で蔓延していたらしい、というのは朔治さんの言葉だ。

 優希叔母さんは当時、中学生で恵蔵とは、これと言って関わりがなく、名前以外は全然知らない、とのことだった。

 姿を消したことはその当時の駐在さんの耳にも入っていたのだけれど、その駐在さんでさえ、金でも盗んでどこかの若い女と逃げたんじゃねぇか、と真面目に取り合わなかったくらいの人物のようだ。

「原さんは怖くて私も避けてたから、最初いなくなった、って聞いて、すこしほっとしてたんだ。この村は女性のほうに発言権の強さがある、って言っても、腕っぷしのある暴力に訴えかけてくる男は怖いからね」

「その感情は村人の総意だよ。若い頃ほど落ち着いた、って言っても、短気な性格は相変わらずだったよ。そう言えば琴吹さんとは折り合いも悪くて、大喧嘩になったこともあって仲裁に入ったこともある」

 と、朔治さんが補足するみたいに付け加えてくれた。

 ぼくはその話を聞きながら、琴吹さんの負けん気の強そうな表情を思い出していた。確かに琴吹さんなら、怒鳴り合いになっても絶対に引かなさそうだ。

 それまでは行方不明になった男性たち、とひとくくりにして古泉さんから聞かされていたので、個人個人の情報に踏み込んだ話がぼくの耳に入ってきたのは、その時が初めてだった。実際のところ、今回の一件を調べるうえで、被害者のパーソナルにこだわる必要はないような気もする。すくなくとも古泉さんはそう思ったからこそ、ぼくにはいちいち話さなかったに違いない。

 ただ被害者の姿を想像できるようになることは、ぼくの心情に大きな変化をもたらした。ただ不思議なことを知りたい、という好奇心のみが原動力になっていたぼくに、血の通う人々の営みの中で起こった現実なのだと自覚させ、慎重さを与えたのは間違いない。優希叔母さんには、そんなつもりなんてひとつもなかっただろうけれど。

「騒ぎになりはじめたのは、次だったよね?」

「あぁ、太田さんのところの、息子さんだろ。あれはびっくりしたな。だって原さんとは逆に、自ら望んでの失踪なんて全然考えられないようなひとだったから。事件としか思えない」

 次に被害者となったのは、太田和道という、これも五十手前の中年男性で、若い頃から整った顔立ちをしていて頭も良く相澤市内の中学校で教師をしていたらしい。市内で働く者は交通の不便さもあり、市内に住むのが一般的だったけれど、彼は通いで自身の働く学校に通っていた。どちらかと言えば、一人目の被害者の原とは真逆の、線の細く、気弱な雰囲気だったが、その物腰の柔らかさと、整った顔から多くの女性に好意を寄せられていて、それにも関わらず独身を貫いていたことから、変わり者扱いを受けることも多かったそうだ。

 通いの理由は、母子ふたり暮らしで、母親の介護が必要だったためだ。結婚もしておらず、職業としてホームヘルパーなんていないような村で、近所のひとに頼めることなんて限られている。そんな状況では、母親をひとり置いていくのは難しかったのだろう。

「和道さんは私も知っているけど、原さんとは違って、そんな急に家出するようなひとじゃないし、それにお母さんひとり残して出て行けるようなひとなら、もっと早く出て行くと思うのよ。書き置きも残さず、なんて考えられない、というか」

「それに原さんのことがあってから、すぐだったから余計に、な」

 まったく正反対のふたりが、ほぼ同時期に姿を消した。人口の多い都会ならまだしも、人口のすくない雪白村では考えにくいことで、村全体がざわつきだしたそうだ。

「そして夢竹さんの行方不明で確信に変わった感じかな」

 三人目の被害者は、もともと雪白村の出自ではない夢竹王司という本名なのかどうか、近隣の住民さえも知らない男だった。太田和道と同世代くらいの外見の雰囲気らしいけれど、実際の年齢はふたりとも知らないそうだ。

「不思議なひとだったな。なんというか、村の人間っぽくない、というよりも、そもそも同じ人間じゃないみたいなひとだった」

「私だけじゃなくて、あのひとのこと、誰も知らないんじゃないかな。風景画家をしている、っていうのは聞いてて、確かに外で絵を描いてる夢竹さんの顔を見たりすることはあったんだけど、別に売れてる画家さんでも無さそうだし、そもそも売れてる画家さんがこんな辺鄙な村にいるとも思えない。でもお金に困っている様子もなかったから、本当に不思議な感じだった」

「でも絵は何度か見たことあるが、かなりうまいんだろうな、って素人でも分かるような出来だったな」

「あぁ確かに」

 その三人が行方不明になって、共通点を住民たちが探し出した時、浮かび上がってきたのが三人とも理瑛さんの性交の相手として選ばれた男性だ、ということだった。逆に言えば、それ以外に共通点が見つからないほど、まったく共通点の見つからない三者の行方不明だったらしい。

 それに気づいてもっとも怯えたのは、同じく理瑛さんの相手をしたことがある男性たちだった。次は自分かも、と毎日のように恐怖を抱きながらも、行方不明者は増えていく一方だった。

「『こんな村、もう出よう』って、もともとそれが亜紀姉さんの望みだったことは知っているけど、口癖みたいになったのは、確かこの頃だった、と思う。私たちは女性だから関係ない、なんて別に女性だから思えるようなものじゃなくて、身近なひとたちがどんどんいなくなるのは、本当に怖かった。いつ矛先が向くだろう、って感じで」

「お母さんが……」

「いまほどじゃないけど、当時もここって同世代の子どもたち、ってすごくすくなかったし、小学校はあるけど、中学校からは相澤市内の学校まで通うことになるから、私たちの知らなかった普通の子どもたちを見ると、みんな多かれすくなかれ、こんな村なんてもう出て行きたい、って思うようになるんだけど、姉さんは特にその想いが強かったから。……と、もうこんな時間。波瑠も、最近はテレビもオカルト番組が多いから、不思議な事件に興味を持ちたくなるのも分かるけど、あんまり首を突っ込み過ぎたら、だめよ。危ないことはしない、って姉さんと約束もしたんでしょ」

「うん……」

「じゃあ、この話もおしまい」

 そう言って優希叔母さんは両の手のひらを合わせて、ぱん、とちいさな音を鳴らした。

「ただいま」

 引き戸を開ける音とともに、佐野さんの奥さん、夕子さんが帰ってきた。白髪に、雪の白い粒が混じっていた。ぼくと優希叔母さんは、ふたりに別れを告げて、店を出て、織江さんの民宿へと戻った。

 織江さんと優希叔母さんが顔を合わせた時、昨夜の口論の声を思い出して不安になったけれど、やり取りは意外にも穏やかだった。

「あれ、古泉さんは?」

「さぁ、また色んなひとに聞き込みにでも行ってるんじゃないの」

 と、織江さんが溜め息を吐く。

 古泉さんと織江さんのふたりが一緒の空間にいる状況を想像した時の、ぴりぴりとした空気は想像するだけでも怖かったので、古泉さんが帰って来ていないことにほっとした。とはいえ、そのうち戻ってくるわけだけれど、とにかくそれまでには部屋にひとりになりたい、と思っていた。

 結局、その夜、古泉さんが民宿に帰って来ることはなかった。

 その代わり、と表現していいのかどうかは分からないが、深夜になっても寝付けず、古泉さんから借りた本を読んでいて、ふとトイレに行こうと立ち上がった時、偶然ぼくは窓越しに、ひとの姿を見掛けて、それが知っている人物だったことに驚いてしまった。

 楓だった。

 ゆっくりとした足取りだった。こんな遅くにどうしたんだろう。どこへ行くつもりなのか。疑問は色々とあったけれど、こんな幸運はない、と思った。ぼくはできる限り足音を鳴らさないように階段を下りて、外に出た。

 雪白村の冬の夜は、想像以上に寒い。

「波瑠」

 ぼくの顔を見て、楓は驚いた表情を浮かべる。

 ぼくが雪白村に滞在できる時間は、あと一日しかない。ぼくのせいで、母子喧嘩に発展してしまった、としたら……。申し訳なさでいっぱいで、謝れる機会を逃してしまったら、ずっと後悔してしまいそうな気がしたからだ。



「こんな時間に、どこに?」

「どこって……。もちろん、ここだよ」

「ここ?」

 ぼくが聞くと、楓は困ったような表情を浮かべる。

「ようやく家を出られそうだったから、もうこんな時間だから、どうせ会えないだろう、って思ったんだけど、なんかじっとしてられなくて。来ちゃった。謝りたくて。ごめんね。約束、破っちゃって」

 楓は約束を破ったことを謝りたい一心で、民宿を訪ねてくれたのだそうだ。楓にとっては近所で、庭みたいなものだろうから、それほどのことではないのだろう。だけどぼくのほうは、こんな雪深い夜を気軽に歩き回る姿に不安を覚えてしまう。それにここまで来たなら、深夜であっても呼び鈴を鳴らしてくれればいいのに、と、自分もできないようなことを考えてしまうのは、寒さで赤くなった楓の頬を見て、やっぱり心配になってしまったからだろう。

「風邪、引くよ」

「大丈夫。昔から身体は丈夫なんだ。このくらいの寒さで風邪なんか引かない」

「ぼくこそ、ごめん。奏くんから聞いたよ。お母さんと喧嘩しちゃった、って。それって、やっぱりぼくが、家にいたからでしょ」

「いつものことだよ」

 家の事情に関して、楓はそれ以上、詳しく語ろうとはしなかった。ぼくも聞ける立場ではなかったので黙っていた。

 かすかな息切れに気付いて、ぼくが、

「疲れてる?」

 と聞くと、

「ここまで走ってきたから」と答える。「本当にごめんね。波瑠が雪白の人間だったら、今度、埋め合わせするから、って言えるんだけど、今度なんていつ来るかも分からないから。こんな寒いのに、出てきてもらって……。ねぇ波瑠。たった数日だけど、この村のこと、どう思った?」

「分からない……」

「たとえば、このまま住んだとして、好きになれそう?」

「まだ分からないけど、そういう、そっちはどうなの? この村のこと」

「私? 私は嫌いだよ。こんな村」と、楓がほほ笑む。「無くなっちゃえばいいのに。ノストラダムスの大予言、ってあるでしょ。世界が滅亡する、って。世界は壊れないで欲しいけど、この村は壊れちゃえばいいのに、って最近はいつも思ってる。この村が無くなれば、私を縛るものがすべて消えれば、私は自由に生きていけるし、色んな世界と出会える。ねぇ波瑠。もし私がこの村を出られたら、会いに行ってもいい。学校も行ってない私にとって、初めての同年代の、友達、だから」

 寒さで赤くなった頬を、さらに染めながら、友達、という、その言葉はひどく震えていた。

 楓はぼくの返事を待つこともなく、駆け足でぼくから離れていき、ぼくはその背を見送ることしかできなかった。

 それが少年時代に楓と交わした最後の会話だ。

 でも本当は心のどこかで期待をしていた。最終日は、まだ一日残っているから、ぼくはまた楓と会える機会があるのではないか、と。

 楓のほうからすれば、母親との一件があって、もうぼくとは会えない、と思って、深夜に民宿まで来てくれたわけだけど、ぼくは翌日、こっそり楓の母親に見つからないように、楓に会いに行けないかな、とぼんやりと考えていたのだ。

 だけどその計画は意外な形で破綻してしまうことになる。

 それはぼくと優希叔母さんの帰りが予定よりも一日早まってしまったからだ。翌朝の大騒ぎはいまも忘れられない。外から聞こえる怒鳴り声で目が覚め、一階には織江さんも古泉さんの姿もなく、いたのは優希叔母さんだけだった。その優希叔母さんも慌ただしく様子を隠すこともなく、外へ出る寸前だった。

「波瑠。ごめん。ひとりになるけど、家にいてくれない」

「どうしたの?」

「あぁ、えっと……。ちょっと村がばたばたしてて」

「一緒に行く」

 いつものぼくなら素直に言うことを聞いて、民宿へ待っていたような気がするけれど、その時だけは自分でも驚くほど強い口調で、優希叔母さんにそう言葉を返していた。ふいに昨夜に会った楓の顔が頭に浮かんで、不安になったのだ。

 優希叔母さんは迷っている表情を浮かべていたけれど、仕方ない、と頷いて、

「絶対に近寄らない、って約束してね」

 と言った。

 言葉の意味をその時は分からなかったけれど、ぼくは頷いた。その意味を知ったのは、現場に着いてからだ。

 現場。

 そう現場だ。まるで死体でも出てきたみたいな言い方だけれど、厳密にはすこし違う。ただ限りなく近いものだ。

 優希叔母さんに連れて行かれたのは、理瑛さんの銅像跡地で、その周りをたくさんの村の住民たちが囲んでいる。見たことのない顔がほとんどだったけれど、住民たちにとっては、その全員が見知った顔で、険しい顔を突き合わせながら、ぼそぼそとしゃべったり、ときおり、激しい口調になったりしていた。村の住民たちが一堂に会する状況を見るのは、この村に来てはじめてのことで、言葉のうえでは雪白村の男女比についてそれまでも聞いてはいたけれど、村の女性の多さを実感として抱いたのは、その時が最初だった。
銅像のあった場所に置かれているものを、ぼくは自分の目ではっきりと見たわけじゃないけれど、遠巻きにその様子を眺めることになったぼくにも、聞こえてくる声でそこに何があるのかは分かった。

 同じく遠巻きに眺めるひとの中に、楓と奏くんの姿も見つける。その後ろに立つ背の高く、身綺麗な女性が、おそらくふたりの母親なのだろう。険しい表情をしているからか怖い印象が先に立つけれど端正な顔立ちをしている。僕の母よりは年齢は上だろう、四十代半ばくらいの女性だった。

 大量の古い人骨が雪のうえにばらまかれているのだ、と。

「おい、これって、誰の」「誰、というか、ひとりじゃねえだろ。こんなにたくさんの」「古いよな。もしかして、これって、あの時いなくなった奴らの」「そんなのまだ分かるわけないわ。犬かもしれない」「犬の骨はこんなんじゃねぇ」「でも人の骨だって決まったわけでもない」「誰がやったんだ!」「こんな力のいること、女にできるはずないんだから、男に決まってる」「別に一度に全部、持っていく必要なんかねぇだろうが。それに最初に見つけたのは俺だけど、一往復分の足跡か付いていなかった。都合の良い時ばかり、男が悪いみたいなこと言うの。やめやがれ」「ちょっと喧嘩はやめてよ」「男か女かは別にしても、よっぽど体力ある人間じゃないと、こんなの運べるはずは……」「とにかく羽田さんを」「駐在なんか呼んだら、警察に知れるじゃねぇか」「そうよ。そのために呼ぶんだから」「こんなの出たなんて、村の恥だ。警察には言わん」「なんであんたが決めんのよ」「いまの村長はわしじゃ」「名ばかり村長が……。いつもたいして仕事もしないくせに」「なんだと、このクソババア!」「調子に乗るんじゃないよ。あんたごときクソジジイなんて、いつでも村長から降ろせるんだからね」「やっぱり村長は女にしようよ」「そうだそうだ。前の村長が次の村長を決めるなんて、旧時代的なことなんてやってられない。民主主義らしく投票にすべき」「こんな旧時代的な村に先進的なことを持ち込むんじゃねぇ。文句あるなら出てけ!」「おいおい、喧嘩は止めなって……」「ちょ、ちょっとこれ見てよ」「なんだよ、……お、おい、これ。漣さんのペンダントじゃ」「お、織江さん……」

 畳みかけるような言葉の奔流に頭がおかしくなりそうだった。その中で、聞き覚えのある名前にどきりとする。

「兄さん……」

 悲鳴にも近い織江さんの泣き声が聞こえてきた。

 漣さんは、織江さんの実兄だ。ぼくもその時は知らなかったのだけれど、後で優希叔母さんから教えてもらった。

「これではっきりとした。やっぱりこの骨は、あの時の」

 ぼくの記憶にある、この時に聞いた最後の声は、粗野な雰囲気の野太い男性の声だった。

 かつて行方不明になった男性たちのものと思われる大量の人骨が、十年の時を経て発見された。

 それ以降のことはあんまり覚えていない。落ち着いて物事を考えられるような状況ではなくなってしまったからだ。

 民宿に戻ったぼくと優希叔母さんは、意気消沈している織江さんに気の利いた言葉ひとつ掛けることもできず、その後、民宿にやってきた女性に早く帰ったほうがいい、と言われて、村を出ることになる。この騒ぎに住民たちが殺気立ち、よそ者に対して憎しみが強くなっている者も多い、と心配してくれて、助言しに来てくれたらしい。

 村の住民なら、十年も経った今になって、こんなことするはずがない、と。

 ぼくや優希叔母さんはまったくこの村と関係ないわけじゃないけれど、一応、ということだった。

 つまりはっきりと口にはしなかったけれど、住民たちが疑っているのは、古泉さんらしかった。

 彼は、姿を消したままで、探しているけれど見つかっていない、ということだ。

 これが幼い頃のぼくが知る、雪白村での記憶のすべてだ。

 気晴らしのつもりで行った雪白村で起こった事件の、ぼくは直接的な関係者ではなかったけれど、思ったよりも精神に受けた傷は大きかったのかもしれない。

 ぼくはスクールカウンセラーの朝野さんに、この話を告げるべきかどうか迷ったけれど、言うことにした。

 それはもちろん朝野さんを恨んでのことではない。いや確かに、朝野さんがあんなこと言わなかったらなぁ、とそんな考えが一度も頭をよぎらなかったか、と言えば、それは嘘になる。ただ、だからと言って朝野さんを恨むのは筋違いだ、というのはいくら子どもでも分かる。

 ぼくは雪白村での一件の一切を両親に話すことはしなかった。別にそれは口止めされていたわけではなく、自分の意志だ。でも優希叔母さんから多少、話を聞いていたのだろう。ぼくに心配そうな表情を向けてくれた。だけどぼくは、心配しないで欲しい、と口にはせずに、ただそういう態度は取り続けた。

 雪白村での出来事のあと、ぼくは学校にまた通い出すようになった。強烈な体験が僕に心境の変化を与えてくれたのだとは思うけれど、どういう心境の変化だったのか、自分自身よく分かっていない。

 ただ、どこかで胃に溜まるようなもやもやを吐き出したかったのかもしれない。

 学校へ行くようになってからも、朝野さんのもとへは足繁く通っていて、それを言える相手が、朝野さんしか見つからなかった。近すぎず、だけどぼくの話をしっかりと聞いてくれて、自分の考えを押し付けようとしない大人が、当時のぼくには朝野さんくらいしか思いつかなかったのだ。

 朝野さんは静かに、ぼくの話を聞き続けてくれて、

 話が終わると同時に、

 ぼくを抱きしめて、「ごめんね」と頭を撫でてくれた。さすがに五年生にもなると、そんなことされると恥ずかしいし、それになんで急に抱きしめられたのかも分からなかった。

 怖いこともあったけど、大丈夫。楽しいこともあったよ。そう笑顔を作ったはずなのに。

 あぁそうか。笑顔を作る、って難しいな。

 朝野さんの服の肩口を濡らして、申し訳ないな、と考えながら、いつまでも止まらなかった。

 なんで、ぼくは泣いていたんだろう。



 1999年、世紀末のその年は、同時にノストラダムスの大予言の年でもあった。残念ながらぼくの語ってきた物語はSFではないから、本当に世界が滅亡した並行世界の話を語ってきたわけでもなく、当然誰もが知るようにぼくたちの世界は終わらなかった。どこかで終わってくれれば良かったのに、という気持ちも、実はすこしあった。でもそれはぼくだけが心に秘めたものではなく、当時のぼくたちの世代の子どもたちならば、多かれ少なかれ持っていた感情なのではないか。そんな気もしている。

 だけどあの年、世界はたいして変わらなかったけれど、ぼくの人生には間違いなく大きな変化を与えた。

 ぼくの人生に暗い影を落としたあの村とふたたび関わる日が来るとも思わず、記憶の中にひっそりと根付き続けるものとして。

「アガサ・クリスティ、好きなのか?」

 そんな会話だって、ぼくが雪白村に行かなければなかったのかもしれない。

 梶井和已と初めて会ったのは高校生の頃だ。ふたたびぼくが雪白村に行った時も、ぼくは助手だった。だけど探偵はその時とは違う。存在さえも謎めいた古泉さんではなく、ぼくのよく知っている人物だった。

 彼は探偵である。

 そして一応、ぼくの友人でもある。友人なんて言ってしまったら、梶井になんて言われるか分からないから、本人には伝えないけれど……。


「きみはひとつ大きな勘違いをしているんじゃないかな」


 ぼくが古い記憶を掘り起こして雪白村での話を梶井に聞かせた時、彼はそう言った。

 そして、

 ふたりで確かめに行かないか、と。

 ふたたびあの村に足を踏み入れるきっかけは、そんな言葉だった。


【第一部 完】


※※※



(後書きっぽい何か)

 ……ということで、「探偵たちの冬ー終わらないミステリの終わりー」の第一部は、これで終わりとなります。分量的には約40000字ほどあり、よく分からない素人の作品を読むには気軽とは言えない長さですが、「最後まで読めば絶対に面白いから」なんて言い訳をするつもりはありません。第一部のみでも、自分が面白く、そして相手にも楽しんでもらえるものを、という気持ちで書いてみました。とはいえ伏線を張るだけ張ったので、何とかこの伏線を回収しなければ、と考えると、胃が痛くなってきますね。一応、予定としては三部構成を考えていて、来年の三月を目標にしていますが、どうなることやら、という感じですね。

 内容に関して、ここではあれこれ書きません。好きなように読んでもらえたら、とても嬉しいです。ここまで付き合っていただき、本当にありがとうございますm(__)m