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アラカン和太鼓奏者、りょうさんの明日はどっちだ

第一話 吟遊打人 誕生秘話とこれからの道

⚫連日の酒乱の夫婦喧嘩に、小学生の私は居場所を見つけられませんでした⚫ 

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 かつて1970年代、酒乱のおふくろと、アルコール依存症の親父が、毎晩、毎朝喧嘩をすると、狭い千葉県市川市の市営住宅で小学生の私は居所がなく、布団を頭からかぶって一夜を過ごすと、日が出始める頃にひとり家を出て、毎日始発のバスに乗り、学校へ行きました。

 学校は、まだ校門が閉まっていました。用務員さんが登校して来ると、いつも言われたものです。「ぼうず、お前本当に学校好きだなぁ!」
ぼやぼやしていたら、また朝に喧嘩に巻き込まれる、ただそれだけで、とにかく一刻も早く家を出たかったのです。
(実際、ヒステリックなおふくろには、掃除機の柄が折れるまで叩かれたこともあります 笑)

 貧しいことの本当の悲しさは、お金がない事ではなく、毎日の愚痴と、社会に対する恨みと、共に暮らしている人への不信や不満、そこにアルコールやギャンブルや人間関係で身を持ち崩していくことだと、私は小学校の頃に知りました。
当時の市営住宅の環境は、どこの家も似たりよったりで、子供心に、自分の家はまだマシだと思っていました。

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⚫貧乏人とバカにされたくない❗⚫

 
 貧乏人とバカにされたくない、酒乱の親の子どもと憐れみを受けたくない、その一心でよく学び、図書館にも通い、そしてスポーツにも汗を流しました。

 高校時代は、アルバイトにも励み、そのたびに休憩時間に職場の愚痴を現場の職員から聞かされたものです。

 こんな給料じゃやっていけない。
あんなお気楽な社長にはついていけない。

 そうした人たちの先には、学生ながらも絶対に幸せは来ないと痛切に感じ、大人になったら、何がなんでも自分のやりたい仕事を職にしたいと思っていました。
 自分の道は、自分で切り開く。

 中学校、高校時代には、自分の腕っぷしだけを頼りにしなければならない時もありましたが、運良く、グレ果てることもなく、映画の学校へ進み、体力を買われて映画のプロダクションに努めた後、なんの因果か、日本の民俗芸能を舞台化する長野県の一座に入座。日本全国を巡業することになります。

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⚫時代に逆行する生き方❓⚫

 日本はバブルの時代。そんな時代に、私は一座の巡演のかたわら、津軽三味線を肩にかけて、下手くそな津軽三味線を全国の繁華街の道端で、ザルを出してはかき鳴らしていました。
 
 当時の日本の地方廻りの旅は、若すぎる自分に人様の情けや、希望を捨てない生き様を教えてくれました。
 日本が、義理と人情の土台から合理性を土台に挿げ替えていこうとしていた時だったからかも知れません。

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⚫ハンデを持った息子を授かり、集団に甘えず独歩の道で人生を切り開く決意を⚫️

 13年間一座で活動、その間に娘と息子を授かりました。
 しかし、息子は先天性のダウン症として生まれてきました。そのことを受けて、私は一座を出て、一か八か和太鼓で生きる道を選び、息子の将来へ向けてなんとか経済力をつけられないかと、今まで、ひたすら突っ走ってきました。

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⚫家族崩壊と人様の情け⚫

その間、おふくろの認知が進み、そのわけのわからなくなったおふくろを、親父が酒に任せて殴り倒して瀕死の状態にし、それをきっかけに、おふくろを長野県に連れてきました。

 長野県での殆どをおふくろは施設と病院で過ごすことになりましたが、6年後に、身内には誰にも看取られることなくおふくろは74歳で亡くなりました。

 葬式代にも事欠きましたが、借家の大家さんが、大枚を私に貸してくれました。
(私は、おふくろが危篤になった時、地方の秋祭りの出演中で、駆けつけられませんでした)

 おふくろ贔屓だった弟は、その後、事の成り行きに腹を立て、今度は親父を殴り倒して実家を出ていき、親父は倒れたまま痩せこけ、やはり死にそうになっているところを当時のケアマネさんに発見されて一命をとりとめます。

そんな親父も放っておくわけにも行かず、やはり長野県へ引き取りました。
親父は今、87歳、長野県の介護付き高齢者マンションで、だいぶ耳が遠くなりましたが、なんとか元気で年金で暮らしています。

 弟は、いわゆる脱法ハーブに30代の時にハマり、東葛警察病院にお世話になることもありながら、昨年4月26日、体と精神を破壊されて、あの市営住宅で孤独死しました。

死後約1週間後に発見され、その現場を確認に、久しぶりに、私は生まれ故郷の市川市の市営住宅へ戻りました。

部屋は4部屋ともひどい匂いで、中に入れないほどの、いわゆるゴミ屋敷化していました。

 弟の倒れていた部屋の壁にボールドウィンの言葉が貼り付けられてありました。

「人間 志を立てるのに 遅すぎるということはない」
弟は、きっと最期まで、あいつなりに闘っていたのだなとその時に深く思いました。

 部屋を出て、ロータリーに降りていくと、そこには、遠い遠い昔にお世話になった、団地のご近所さんの顔があり、
 みなさん、まったく変わらない人情深さで、私の肩を叩き、

 「良ちゃん、悔しいだろうが、前を向いて行けよ。自分を責めるなよ。」

と言葉をかけてくれました。

 その日は、己の無力さに、足のすくむ思いで帰路につき、生まれ故郷に感謝と寂しさ、そして遠い別れを刻んだのです。

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 ⚫新しい家族と希望の光⚫
 
 その時以来、一途に和太鼓と芸能の道を歩いてきたつもりが、家族を犠牲にして突っ走ったのだと、最近は振り返ることが多々あります。

 

 それでも、娘が結婚し(素晴らしいパートナー!)孫を生んでくれたり、心配していたダウン症の息子も、最新の共同作業場やグループホームに恵まれて、なんとかやっています。


 和太鼓を中心に一座から独立して23年が経ち、2007年には国際大会で大太鼓一人打ちの最優秀賞をいただき、周りの人たちの応援とお世話でここまでやってこられました。

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 ⚫副業探しの失敗とこれからの道筋⚫

 自分の無力は、経済力の無力と知り、ここ6年の間に、本業以外に収入源を作ろうと、仮想通貨やネットワークビジネス、投資系や、ネットサロン系、海外旅行社系など、実に様々な副業に参加しては、多くのお金を失いました。

 

 どの副業にも、そのビジネスを心から信じて取り組んでいる方たちがいました。その姿にこちらも胸打たれつつ、それなりに頑張ってきました。

 ところが、半年後、1年後にその方たちに出会ってみると、そのビジネスをやめ、別のビジネスへ、更に別のビジネスへと渡り歩いていて、多くの借金を抱えていました。
 それどころか、あれほど熱く語っていた元の会社は、倒産したりしていました。

 現在約5,800万人の方が働いており、そのうちの約8割の方たちが、副業を探してると言われているそうです。
 コロナの影響もあり、様々な案件がインターネットを介して出回っています。

 
 私は、人生の半分以上を和太鼓と芸能につぎ込んでしまいました。将来の老後の設計なしのままで突き進んできてしまいました。
 

 そんな私が、副業で詐欺案件や長続きしないビジネスに巻き込まれるのは当然です。

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 私と同じ思いで、職人や料理人、演奏家やダンサー、歌手やイラストレーターなどなど、突っ走ってきてしまった人たちへ。

 まだ、間に合いますとも。

それが、たった一人でこの世を去った、我が弟のメッセージに重なる思いです。

 私達には一途に走り抜けてきた芸に対するエンジンが有るのですから。

 私が、次の新しい時代に向けてのビジネス形態を視野に入れ=本物のマーケッティングをほぼ、無料で学ぶことができ、新しいビジネスを展開できるのは、
こんなLINE@との出会いのおかげなんです。

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ここは、実に柔らかな視点であなたに一番適した副業を考察し、紹介しています。

みなさんのこれからのビジネス探しに、きっと大きな価値を示してくれるはずです。


みなさん、騙されてはいけません。

 その本物を見抜く目を、今度はその芸道の道以外に、使い倒してください。

かつての芸能者の諸先輩たちが、新しい時代の波を掴んで、自力で新世界を開拓したときのように。

 自分の未来を、人任せにしていてはいられない時代が来ているのですから。

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