二人目が生まれて、今思うこと。
どうもこんばんは、りょーさけです。
先日二人目の子どもが妻の頑張りで無事生まれまして、はい。
今家で一人っきりです…!
先日の記事を読んでくれた方は知っていると思うのですが、妻は実家がある佐渡に里帰り出産だったものですから帰ってくるまであと二ヶ月くらいあります。何という孤独。孤独を埋めるために…というわけでもなくて好きなだけですが今日も酒を飲んでいたりして。
なんともゆったりした夜だなあ。
クリスマス過ぎたあたりで体重は3000近かったがために、その時からずーっと「ああそろそろ生まれるかもしれない。」と夫婦揃って気張っていたもので、一週間くらい前は二人で「もう早く出てこい出てこい」とか言ってしまうくらいに勝手に気疲れしていました。(予定日は15日)
はは。これからもこんな感じで前のめりで子どもの成長を楽しむ感じなのかな。そういう疲れはいいな。
ね。そういうのはここちがよいのです。
ただ、何をしても疲れるのですよ。時には息を吸ってるだけでも疲れるし、かと思えば日頃の自分の体たらくからは想像もできないようなミラクルな頑張りができて疲れることもある。しかし何かをすれば疲れて眠らなければならない。
何が言いたいんだろう。あ、そうだ。そう、言いたいことはこれだった。
どうせ疲れるなら、望む未来の形に貢献するような頑張りをしよう。
こんなことを今回の出産の前後で思いました。唐突ですね。はい。今日は念入りに順を追って説明したい。語らせてくれ。世界の隅っこのいちパパに。
前述したとおり、日々生きてる限り何をどうやっても疲れます。楽しいこともあるけれど、疲れます。ですからどうせ疲れるならば自分が「あ、こうなったらいいなあえへへ。」とささやかに夢想する未来の実現にちょこっとでも貢献するような選択肢を選びたいなあと思うのです。
これは「草の根で街頭演説や実際に選挙に出るなどの政治活動を始めよう」ということではありません。そういうことはなんかもっと志が高かったり、赤坂の料亭で密談したい夢を持っていたりする若者に任せます。
日々の行動をするにあたっていくつか選択肢があると思います。例えば職場で「えっそんなところに気をつかってみんなの労力を割くの?」とかって出来事があったとします。
この時に枝葉をとって考えると
選択肢①「面倒だから流される」
選択肢②「更に面倒だけれど『それはやめよう』という」
という二択がテーブルの上にあるわけです。
で、思うところはあれど①を取ると。
それをやめたい。やめる。
この時に重要なのはまあイチにその時の自分の疲労度とかモチベーションだとかなのかもなんですけども、
ぐっと踏ん張って「自分がジジイ妻がババアになって子どもらが自分らくらいの歳になったとき、いや、もっともっと自分たちもいなくなったあとの世で、どういう選択を同じ社会の成員たちにしてほしいか」という観点をねじ込みたい。ねじ込む。
ねじ込んで、それに基づき行動する。
それで実際の社会が変わるわけではないでしょう。もっと他の様々な要因たちがマジで複雑に相互に作用し合った結果社会の形は少しずつ変わるものかもしれない。だから自分の選択がちょこっと変わったってなんの意味もないかもしれない。(実際そんなに意味はないでしょう。)
だから、分かりづらい言い方で申し訳ないのですが、だからこういう風に思ったのって別に僕が「社会を変える一歩になりたいから」じゃないんです。それなら本気で政治に加わるべきです。長や議員になって人と金を動かして地元を栄えさせるような政策に貢献すべきです。
ではなぜこういう風に思ったか、と改めて自問してみるとそれはやはり子どもたちが絡んだことでありまして、
子どもに自分のやっていることについて真正面から尋ねられた時に、言い訳をしたくないから
だと思うのです。
「お父さんなんで会社いってるの?」
「なんで生きてるの?」
「なんでそれやってるの?」
とかってこれから何回も彼らに聞かれることでしょう。何度も困ることでしょう。いや困ってもいいんだけど。実際困らないなんて!多分無理!ですから!
そういう時に「これを目指して、こうやってんのよ!」と語りたいのです。
そのためには常にささやかな理想を持つことは大切な気がする。普段こんなこと全然言わないし考えないし大体酒のことしか考えてないがね。間に合わせの一般論では多分子どもは納得してくれないし、そういう大切なところをごまかしてる態度ってきっとバレる。(中学高校のときとかそれで何度先生や大人を軽蔑してしまったことか。)
だから、ちょっとでも「こうだったらいいのにな」を思い描いて「じゃあそれに賭けようか!」って踏み出してみたいのです。
これは例えばですが、今回の出産の前後はたまたまタイミングが合ってあまり自分は会社を休みませんでした。日数的に。
でも仮になにかトラブルがあって母子に命の危機が迫ったなら、僕はいくらでも会社を休もうと思っていました。
前述の観点から言えば、これは短期的に見れば「今自分が妻子を心配に思っているから納得いくまで(妻子の体調が落ち着くまで)休む」ということにほかならないわけです。でもそれだけじゃなくて、
「自分の大切な人が本当に苦しいときには、再優先事項を瞬時にそれに切り替えてその人達のために行動してもおかしくない、それが自然な社会担ってほしいから休む」
わけです。至極単純に言えば、僕は「親の死に目にも会えない」的なプロ根性のようなものを心底くだらないと思っているということです。(慣用句なので「親」って言ったけど「親」でなくても「大切な人」なら誰でもいいです。)
そういう考え方は個人的に信奉してもいいけど「それがいいことなのだ」という風にわずかでも表沙汰に語られうる風潮自体が嫌なのです。今の世の中は昔よりそういう人は少ないのかもしれませんが、でも、うん、まだあるよねきっと。極端なのは分かっています。でも、嫌なのです。
だから、そうでない未来を希望し、今そういう行動を取りたいと思う。
で、それを子どもたちに聞かれた時に話したい。
そういうことです。
かなりごちゃごちゃしたけれど、一言で言うなら自分が望む未来の形と合致した行動をとって行きたいってとこです。今思うことは、それだけです。
ふう。
気張って疲れたので、にごり酒でも飲んで寝る!
甘みと発泡感が、とても心地よいですね。うん。
おやすみなさい。