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「懐中夕星」 / 掌編小説


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春が、袖触れそうな きわまでやって来たよに感じられる、上巳 じょうしの節句の午后は心床こころゆか しく。

帰路の里では一足先に春の使者の一行でも通り過ぎたか、 あぜや水路の脇、石仏の周りに下草も萌えて目に柔らかし。
風に揺れる丈の低き草とやや湿り気の感じられる土の香を感じ、眠りより醒めた かわずが這い出した小さき うろを覗き見た気になる。

懐手に道草、 のちに山の方へと坂道を折れ、未だやや冷気を孕む風と連れ立って棲家すみか へと歩む。



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宵、縁に座す。
遠くに連なる山の端を眺め、漸次的 ぜんじてき おもてを変えるぼかし染めのような空の色を東から西へと追うてみる。
日の入りの余韻が染める鴇色の彼方に黒き鳥が二羽、宵の風に戯れるよにして羽ひるがえ し、それもやがて巣に帰る頃合か。


軒先の吊り燈籠 どうろうに火を入れて、少しずつ藍の気配を帯び始める山々を眺める。
ちらりと見遣 みやった床の間に、行灯の灯りに淡く滲む桃花とうか が一枝。
勝手から漂うのはやや甘い椎茸の煮染めのような香りで、
「おや、山際が良い色合いだこと」
ふらりと現れた細君は若苗色の袷に白い前垂姿で、頬を撫でる風のひやりとした心地に僅かに肩をすぼめ
「温いのでも、一つつけましょうか。…それとも、甘酒?」
そうやや含み笑いで尋ねる。
「いや、流石にそれは。何時ものを、上燗でたのむよ」
こちらも神妙な表情を装って返し、再び勝手へと消える白足袋を見送る。



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西の空に、夕星 ゆうづつが一つ。
ふと思い出し探った懐中に木箱の手触り。
まだ陽の高いうちに隣町にて購ったのは蜻蛉玉 とんぼだまの帯留で、さてお気に召して頂けるかと今更のように気にかける。
いつしか空色は留紺とめこん へと移ろい、桐の小箱に秘められた明星もいず る頃合。


風止んで、静穏なる春宵しゅんしょう
白き月のさや かなる姿に連られ、一つ質朴 じみに笑みをこぼ す。


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過去作品より、ひとつ上巳の節句(雛祭り)に因むものでも投稿しようかと(写真は新たに差し替えました)🎎

タイトルにルビがふれませんでしたが、タイトルは「懐中夕星」 かいちゅうゆうづつで、夕星とは宵の明星・金星です🌟


...実はここに登場する二人、以前投稿した七夕の物語「花のかんばせ 」の二人の未来の姿なのでした|ωΦ )コソッ