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「Madam labyrinth」/ 掌編小説


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雨上がりの空に鳥の声が反響している。
まるで水面に広がる波紋のように、それは次第に外に向かうにつれ輪郭を朧気 おぼろげにし、水蒸気と共に立ち上る夏草の香りと溶け合い、初夏の午後というモザイクガラスの一片となる。
そしてそんなモザイク越しに射し込む光は穏やかで、またどこか懐かしく美しい。



久しぶりに会った学生時代の友人の家を後にして、私は駅までの道を遠回りして帰ることにした。


紗子 さえことお喋りに興じている間に雨も上がったし、出番を終えた傘を持て余しながらの道草。
折りたたみ傘にしておいて良かった。
たっぷりと潤った公園の木々や下草は青々として見えるし、照り始めた太陽の熱でゆらゆらと陽炎 かげろうのように あぶり出される湿気は肌に まとい付き、目を閉じればどこか熱帯地方の街を放浪しているような気分になる。
紗子に言うと安っぽい空想だと笑われそうだ。


行きに骨折した紗子へのお見舞いにとブーケを入れてきた紙袋には、今は折りたたみ傘と共に、先日彼女が甘夏で拵えたというマーマレードの瓶が入っていた。



初夏の雨上がり、温んだ雨に濡れた草の放つ香りと午後のマーマレード。
私は思い出す。
ポケットの底に横たわっていたようなノスタルジーに誘われるようにして、学生時代の何時の日かを。
それは骨董屋で手に取ったアルバムの中にうっかり残されていた写真のように、私の中で淡い光を放ちながら、コレクションされた使用済みの海外の切手のように整然としてもいる。


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私は母子家庭に育ったが、母方は昔から基本的に女系らしく、親族の女性たちがいつも家を訪れ賑やかだった。
その誰しもが個性的だったのだが、私が一番気に入っていたのは母の従姉妹の透子 とうこおばさんで、そんな彼女は私の名付け親であるらしかった。
ある日
「何故私の名前をあん にしたの?」
と本人に訊ねると
「ああ、名前。...私、杏子 あんずが好きなのよ」
とさらりと返され、なんだ、そういうものなのかと変に納得してしまったのだった。



透子さんは家に頻繁に顔を出すわけではなかったのだが、不思議な雰囲気を纏う彼女のことを私は気に入っていたし、また私が短大に進学してからは短大の近くに住む透子さんの家に私が遊びに行くようになった。
留守の日もあったけど、透子さんは大抵家に居た。
そしてある日顔を出すと、透子さんはぐつぐつと甘夏のマーマレードを煮込んでいたのだった。
あの時も丁度今頃だったように思う。



透子さんのどことなく風変わりな家、そして透子さん本人に纏わる思い出、それらはふとした時に今までに幾度も思い出すことがあった。
そのどれもが私にとって穏やかな時間で、約二十年が経った今でも古びた感じがしない。


けれど今日、透子さんとのやり取りですっかり忘れていた場面を思い出した。
それはまるで色別により分けたお気に入りのビー玉の中に、他にコレクションしているシーグラスが紛れ込んでいるのを見付けた...そんな感じに、不意に私の意識の水面に浮上してきたのだった。

あれも確か今頃の事だったように思う。


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ある時、確か短大の下校途中に雨が降り出したのだった。
梅雨明け間近ということもあり、天気予報では不安定な空だと言っていたのだけれど、朝から爽やかに晴れ渡っていたこともあり傘は持って出なかったのだった。
そして降り出したのはやけに大粒の本格的な驟雨 しゅうう、ずぶ濡れになりながら私は透子さんの家まで走り
「あらあら」
と濡れっぷりに感心したような台詞と共に透子さんに迎えられたのだ。


タオルと着替えの麻のワンピースを受け取り、着替えた私は透子さんと紅茶を飲んだ。
透子さんの家にいつも感じる開放感がこの日は乏しく、どうやらその原因は大雨のために閉じられた窓のようだった。
透子さんのリビングは窓が多く、普段は開かれたそれらから各々流れ込んできた風が室内を吹き抜け、また気侭きまま に好きな窓から旅立ってゆくような自由な感じが常だった。



透子さんは常に花を飾っていた。
大きい花瓶を一つ、無造作に何かしらの空き瓶のようなガラス容器に生けられたものが幾つか。
その日は窓を閉ざされた部屋の中にユリの香りが濃厚に漂って感じられた。
「透子さんの家はいつも花がいっぱいだし、いつお客さんが来ても大丈夫ね」
「そうでもないわよ」
「どうして?」
「誰かが来た時に生ける花が無いことより、見られること無く花が終わる方が悲しいわよ」
「そう?そんなもんなの?」
「そうよ、そうに決まってるわ」
透子さんは頷きながら答えた。


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「ねぇ、それってどんな気持ち?」
私の質問に透子さんは花瓶の花を見ながら言葉を繋いでいった。
「そうねぇ…例えば夕方の、暑くも寒くもない時期の...迷宮かしら」
「迷宮?」
「そう、想像してみて。自分より背の高い煉瓦塀 れんがべい つた蔓草つるくさ が伸びていて...蔓バラも咲いてるかもね。
で、そこをついさっきまで誰かと歩いていたわけ。その人と一緒なら出口に辿り着けるんだけど、気付いたら一人になっているの。初めから一人で迷い込んだみたいにね。
空の色はもう夕闇の迫る前のオレンジ色で、石畳に落ちる自分の影も長く伸びて...そのうち影の色も宵の気配に紛れるでしょうね」
「嫌だ、心細い」
「ね、悲しいでしょ。例えるならそんな気分かしら」
そして透子さんは
「あなたにはまだ解らないわね。まぁ、こんなのは解らなくてもいいのかも」
そう言ってカラカラと短く笑ったのだった。


いつの間にか雨も上がっていて、立ち上がった透子さんは次々と窓を開いていった。
しっとりと潤った夏草の香りが窓から滑り込んできて、代わりにユリの香りが少し旅立っていった。



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透子さんは私が卒業する間際のある日、何処かに向かっておもむろに旅に出た。
なんでも長い旅の予定らしく、
「あの子は昔からそういうところがあるわ」
と母は静かに笑っていた。
その後思い出したようにメッセージの無い絵葉書が時々届き、絵葉書に貼られた切手や押された消印に同じものは無かった。
直近だと、それでも約一年前にベルギーから絵葉書が届いた。
透子さんの旅は続いているのだ。



思えば透子さんとの時間はふわふわとしていて、私は彼女について詳しい事はあまり知らない。
母に聞いてみてもよかったが、何だか聞かなくてもよいなと思う気持ちも同じくらいあり、彼女についての何を知らないのかも分からないまま、分からない事は分からないままにしてきた。
あの頃、ふと透子さんは独身なのかどうか質問した事もあったが、
「そうね。例えば外洋に拠点をおく船乗りなんかはたまにしか戻らないわよね」
と、判然としない答えが返ってきただけだった。


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透子さんは外洋に出たのかもしれない。
色々な港に寄港しながら、迷宮の地図を探し求めているのかもしれない。
それとも、終わらない花を探しているだろうか。
いや、彼女ならそんな花はきっと生けないだろう。
終わった花を見届け、そしてまた新しい花を生ける。
それが迷宮の中でも。
透子さんはきっとそんな人だ。



長旅に出る前、
「ねぇ、杏ちゃん。これあなた使ってくれない?」
そう透子さんから譲り受けたのが花切り鋏だった。
今日私は紗子のお見舞いのブーケの花をその鋏で切った。
迷宮の中で透子さんの持ち物だった鋏。
それを今迷宮の外で私が使っている。
何時かまた持ち主の手に戻った時、錆び付いて使い物にならないように手入れをしながら。


一つの花が終わっても、また新しい希望の花を生けることが出来るように。



私は歩きながら微笑んだ。
雨上がりの風に吹かれ、頭上では木々がさわさわと心地よい音を降らせる。



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*過去作品に一寸手を加え、公開する企画の一作品です。

内容と季節を合わせたかったのですが、すっかり夏も盛りを迎えてしまいました😏🎐