いい

まだお前に残っているものはなんじゃ!The Science of well-being [幸せの科学]

今週のリワイアメント。(矯正)

▶︎実践して欲しい事。

①ランダムに親切な行動をする。

親切をすることは、自分たちが思う以上に幸せのムードを上げる。

1日に1回は、親切したわあ!と思う事をしようということだ。

寄付をするとか、ボランティアをするとか、大きな事でも良いし、

人を褒めるとかゴミを拾うとか、小さなことでもいい。

②社会との接続

社会と繋がっているという実感も、私たちの幸福度にはかなり寄与するようだ。

サントスさんは、「電車の中で知らない人に話しかけてみるとか、コーヒーショップで店員と立ち話してみる」みたいな簡単なことでいいの!ドヤ

と言います。

また最近あんまり話していなかった友達とランチをするとか、会社で友人と立ち話するとか、そんなことでも良い。

私たちのムードを上げるのはそういった些細な会話であり、

「少しの瞬間でも誰かと時間を共有している実感」

「社会の中で自分が無視されていない状況」

はとっても重要なんだそう。

しかしこれ、特に日本人にとってはかなり難しい、と感じるのです。

僕が実際にカナダにいた時は、バスを待っている時に話しかけられるとか、電車で隣に座った人が僕の巨大なバッグを見て興味を示してくることも多々あったし、ほとんど100%の確率で前を通る人がドアを開けて待っていてくれた。電車にぎりぎりで乗り込んでくる人を救おうと、みんなでドアが閉まらないように押さえたりもしてた。

そっちの方がいい!なんて言うつもりは全くないし、ただの文化の違いである。

日本の電車で見ず知らずの人に話しかけるなんて奇人だし、会社で他愛もない雑談をすることに罪悪感を抱く人も一定数いると思う。

ただ「自己満こそが自己を満足させる」

という当たり前の論理を本能的に分かっている人がカナダには多かった。(他の国は知らない)

一方で日本的な文化では、「他者に迷惑をかけないこと」が価値観の大部分に来ているように思う。

元々仏教的な思想では「煩悩を抑制する」「苦を受容する」というものがあり、想い通りに行かない事は当たり前だし、一切は皆苦であるという。それを受け入れられるからこそ、物事の真理が見え、辛いことでも一生懸命に努力出来る、という観の裏返しであるようにも言える。

何かを望むから苦しくなるので人には期待しすぎず、俗世間を離れ、一切を受け入れるというのが派生して、これがいわゆる無関心的な日本人観にも接しているとも感じる。

一方でキリスト教的な思想は愛に溢れている。見返りを求めずに愛を与えることが重要な、そう「自己満足」である。

しかしやはり、

「必要とされていない感覚」というのは得てして辛いものがある。

私は新入社員だが、自分がそこにいる意味に悩み続けていた。

この大きな会社では、私がいなくても明日も同じように日々は進む。

私じゃない誰かがいた方が、会社のためになるかもしれない。

特に新入社員ではそう思う事が多いのかもしれない。

だから自分がどんな雑用だろうと頼まれると嬉しかったし、会社の人が気さくに話しかけてくれるのが何よりも有り難かった。

少なくともその瞬間、することがあり、
何なら、「役に立ってるかもしれない」ということに自分の存在を見出すことができた。

そう考えるとやはり「繋がり」は、重要な幸せファクターの1つだ。

サントスさんが言うように知らない人に話しかけるのも勿論1つの手ではある。

しかし、この授業の最後にサントスさん、
もう少し良い事を言う。

「今自分が、家族、恋人、友達、同僚、などと聞いて思い浮かぶ人のことをもう一度大事にすること」

こそ必要である、と。

正直そんなに数は多くない。そんなものだと思う。

一瞬で100人も200人も浮かんでこない。

だからこそその人達は、失っちゃいけない人だ。

誰かが見ているかもしれないインスタやFacebookではない。

繋がっているような感覚、ではない。

「今、あなたとこうして一緒に話をしていること」

が大事だったりするのかな。

---関係のない追記---

そういえば出張で鹿児島に行って、めちゃめちゃ汚い地元のバーで朝まで飲んだ。

マスターは、子供が3人いるはずなんだけど1人の顔も知らねえや、って笑ってた。

日本一周ぶりに鹿児島に行ったんだけど、

桜島は相変わらずの存在感だった。

何だか日記みたいになってきちゃったな。

そろそろ気合い入れ直さないと。

それでは。

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