5月1日、土曜日、雨

今日も一日の半分をスマホと過ごした。

基本的には軽い後悔と浅い眠りしか提供してくれない中毒的な習慣のさなか、燃え殻さんが引用ツイートしていた1つの記事が目に留まる。

「なんで休む場所として明るい場所を選んだのか。何かと繋がっていたかったという本能だったのか」そんな感じの締めに2.3分間感傷に浸れば、またいつも通りの部屋の明かりに吸い込まれてた。​

時計を見たら22時39分で、急に思い出した。40分からNHKでさっきの記事の放送するんだった。

きっかり30分見入って、よくわからない気持ちを整理したくて、いや別に整理したいわけでもないのだけど。どこかに出さないとやりきれない!ってほどでもないのだけど、書きなぐるだけしておいてもいいかなって。

これは自分のために書いてるし、誰かに理解してほしいとも思わないから、記事とか番組自体の説明は省略する。

大林さんと僕とは、ちょっとした共通点があるなって思ったから、書きたくなったのかもしれない。

それは、「助けを求めることは簡単じゃない」ってこと。

もちろん大林さんほど実際に追い込まれているわけではないから、何かには分からないけど申し訳なくて、言っていいのかは分からないけど。

「疲れた」とか「助けてほしい」とか「こんなに頑張ってるのに」とか、そういうことが本当に言えない。

その分相手は迷惑をこうむることになるだろうって感じるし、なにより、人に頼るってとってもエネルギーがいるんだ。自分一人で終わらせた方が、楽じゃなくても楽なんだ。でも誰かには頼られたいって思ってるんだ。

この矛盾した感情はちょっとわかりづらいようで、わかるひとは意外に多いんじゃないかとも思う。人に頼るのは嫌だけど、頼られたら絶対助けるのに、って。でもこの「絶対」とかいう心持ちが多分、ピュアな優しさ以上に正義感を奮い立たせてしまってて。

人に頼る時にもそういう高いコストを払わせちゃうんじゃないか、って感じるのかもしれない。ともかく人に頼るってことは、想像以上にエネルギーがいる。

自分に厳しければ厳しいほど、人には頼れなくなる。正義感が強ければ強いほど、人には頼れなくなる。そう思う。

正直、加害者に対してどうこう感じない。行為はともかくとして、人の心にある「不快なものを取り除きたい本能」自体はどうしようもない。

じゃあなんで不快だったんだろう。たぶん、「ホームレス=堕落=自己責任」に近い図式が常にあったからだと思う。厳しい。本当に厳しい。これは加害者の気持ちというより、社会の気持ちなんじゃないかとさえ感じる。

わたしはこんなに頑張って、文句も言わず働いて、ストレスも抱えていて、それでも何とかやっていて、それが「普通」。でもこいつらは自堕落な生活の中で「普通」からこぼれ落ちて、私のことを不快にさせている。そんな感じ。

自分だったら、そこにいつも佇むおばさんに、どんなことが出来たか。考えてみても何も浮かばない。ってことはきっと何も出来ない。

何か救える方法があったか、それも分からない。必要なのはお金だったのか、繋がりだったのか。そもそも、まだ生きたい、と思っていたのか。

まぁもう死んでもいいかなぁ、みたいな時はふらっと日常に訪れる。別に死ぬ理由はないけど、頑張って生きる理由もない。大林さんが死にたいと思っていたか、生きたいと思っていたか、そんなこと考えてないか、ぼくには分かるはずもないけれど、「救えなかった」と思うほど、エゴに満ち溢れる必要もないのかもしれない。

それでも一人の人間として、彼女と話してみたかったとは思う。彼女とだけではなくて、今もどこかでホームレスをしている誰かとか、孤独じゃなさそうに装っているあの人とか、どう頑張っても悪態をつく以外にはコミュニケーション手段が無い嫌われ者とか、そんなあ「人間」たちと話がしたい。

知らない人とか知っている人とか、どうでもいい。ビール一本だけ買って、とにかく誰かと話したい。路上に座って、バス停の彼女たちと、好きな歌の話だけしたい。あいつらのかっこいい話にはもう興味が湧かないんだ。勝手にやってくれ。バカな話がしたいんだ、それ以外には、生きてたいと強く思う瞬間が訪れる気配もない。

それでも、「普通」から「上に一歩」抜け出すために、今日からも格好つけて生きていくしかないんだろうな。誰もが大林さんに無責任に同情しながら決して同じ立場になって考えてみたいとは思わない。そんな「普通より一歩下」への不快な無意識が僕にはあるから、こんな短い文章の中でも「自分より立ち位置が下っぽい」人とだけ分かりあいたい、なんて言っちゃう醜い人間から中々変われもしないんだろうな。

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