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令和二年末に降る祈りは

涼(りょう)ニワカと申します。高校三年生です。2020年に、自分が体験したことをレポートしました。よろしければぜひ。(タイトルはキリンジの「千年紀末に降る雪は」のオマージュですが、本編とは何の関係もありません。)



部活の大会や文化祭は、軒並みすべて流れた。
自粛明けの高校三年のクラスには、「失われた青春を求めた亡霊」がいっぱいいた。私もその一人だった。
高校三年の夏から、受験が本格的にスタートする。先輩方の姿、お話をかいつまんでなんとなくイメージしていた「一心に勉強する理想の受験生像」は、2020の高三のクラスにはほとんど見当たらなかった。(勿論そういう像に当てはまる人もいる。おとなな人たちだと思う)

うちのクラスの男子はだいたい授業が終わったら二時間くらいバスケをしている。毎日。 たまにみんなで朝マックとか行っている。私はその輪の中には入っていない。でも、毎日夜更かししたり、塾に行きたくなくて本屋で高尚っぽい本を読んでみたりしている。自分でも思うが、私はなかなかに恥ずかしいやつだ。マジで、やらなきゃいけないこともわかっているのに、「現実から目をそらしてくれるような圧倒的な真理」などないとわかっているのに、だ。だから、バスケしているやつらと私とは、何一つ変わらないのだろう。

高校三年生という学年は、たぶんもっとも「おとなとこどもが共存する社会」だと思う。クラスの中で、この人はおとなで、あの人はまだこどもだ、と思うこともあるし、個人個人の中にもきっと、おとなの面とこどもの面が拮抗したり混ざりあったりして存在している。

だからこそ受験とは、通過儀礼なのだと思っている。孤独に自己を見つめ、毎日こつこつ自分のやれることをやらねばならず、全体の中の自分の位置を否応なく思い知らされ、時に圧倒的な才覚の差を見せつけられるような…

それに面して、2020年の私たちはまだ逃げまどっていた。青春を探しさまよっていた亡霊だった。


ほんとうは、

そんなひとつひとつを、もっと明るく笑い飛ばしたかった。「高校生なんだから、そう逃げたくなることだってあるよね。」「バカみたいなことだけど、それはそれでいいよね。」と言いたかった。

でも、やっぱり私たちは、現実に、直面している。笑えない。その思いは呪縛のようになり、逆にどんどん一人でこどもになっていく。土日、YouTubeを見て何時間も空費する。その時はなんともないのが、一日の終わりになると後悔が押し寄せてくる。


そしてあれやあれやと12月になった。

共通テストが差し迫る12月24日、この日は週に一度あるLHRというクラスの時間でビンゴ大会をする予定だった。各自が500円程度でプレゼントを買い、持ち寄り、それをビンゴした順に抽選でもらう、という、いわば「ビンゴ大会×プレゼント交換」みたいなものだった。

前日にプレゼントを買うために久々にショッピングモールに出向くと、クリスマスムード一色だった。私はクリスマスというものがわりあい好きなほうだった。というのも、それはたぶん去年までは中学二年生から付き合っていた彼女がいたからなのだろうと思う。今年の秋にお別れした。お互いに、大人になることを約束して別れた。こどもの私に、「愛すること」は難しかった。恋とは全然違うのだ。学校は一緒だからたびたび見かけるけど、お互い遅刻とかしている。元気にやっているだろうか。

だから今年は、クリスマスムードの街を歩くのは少し寂しかった。misiaのeverythingを聴いて泣いたりした。気持ち悪い男だ。

クラスの誰に届くかわからないけど、プレゼントを選ぶのはとても楽しかった。受験生ということで、めったにロフトや無印良品に行けないので、その高揚感もあったけど。何かを贈れるひとがいるというのはしあわせなことだったのだな、と、おセンチになって考えたりもした。そんなことをつらつら考えながら歩いていると、まだ買ってないのに、営業時間短縮のせいでお店が全部閉まってしまった。やってしまったと思いながら、でもなぜか少し笑えた。

そして当日。クラスの何十人が買ってきたプレゼントを一挙に並べるとちょっと感動してしまった。ディーンアンドデルーカのおしゃれなスイーツだったり、コージーコーナーのケーキだったり、中には大根をいっぽんまるっと買ってきた人がいたり、受験生にはうれしい蒸気でほっとアイマスクがあったり…それぞれが真剣にどんなものがいいか考えてきた時間を想像できるようで楽しかった。ちなみに先生にも参加してもらったのだが、どこのデパ地下で買えるかわからないような、見たことないけどめちゃくちゃおいしそうなお菓子を持ってきたので、大人の本気を見た気がした。

ビンゴ大会は大成功だった。次々と当てられていくプレゼント類がみなみな素晴らしいので、そのたびにクラスが沸いた。なかなかリーチが出ない人がでっかい声をだして悔しがっていたり、「Aさん(クラスの男子)が何でも好きなことを一つだけかなえてくれる券」で盛り上がったり…私はちゃんとしたところで買えずに結局コンビニで買ってしまったので場が冷めないかひやひやしたけど、私のプレゼントを当てた女子は大喜びで受け取ってくれたので少しほっとした。ありがとう。

このビンゴ大会が終わって、私は思った。どうしても見なければならない現実があり、それは勿論逃げられるものではない。でも、それに向き合いきれないときに初めて、それをなんとかして笑うことは、許されてもよいのではないか、と。そのときの笑いとは、祈りなのではないかと。

祈ったところで、現実は変わらない。祈ったところで誰にも届かないかもしれない。祈りは、基本的に無力だ。

でも、笑わせてくれ、祈らせてくれ、倫理の線を超えない程度に。なかなか当たらないビンゴを待って、自分が用意した祈りとしての贈り物が届かないか、もしくは捨てられる運命にあっても。その人生を楽しませてくれ。人を傷つけないように気を付けるから。自分自身も自分で傷つけたくないから。

おとなの自分が果たすべき約束とは、約束を守ることだ。自分に対する約束を破ったとき、自分で自分のことを愛せていないことになる。それはとてもつらいし、また約束を守り続けることも難しく、つらい道のりだ。

でも疲れた時くらい笑いたい。そして現実がよくなることを祈りたい。もちろんその時の私は何も現実に対して働きかけていないから、何も起こらないだろうけど。

それでも、笑いがウイルスのように伝播したとき、ほんの一瞬だけ「笑いがあふれた幸せな幻想」は現実になる、と信じたい。

文章を書くことも、たぶん祈りだ。誰に届くかわからない贈り物だ。もしかしたらこれは自分自身へ、かもしれない。


ビンゴ大会のとき、クラスメートが何を思っていたかは本当はわからない。今日この時に、どんな人が不幸で、どんな人が独り辛苦に悶えているか、わからない。
だから、知る努力と、自分にできることを贈る努力と、ささやかな祈りを。単なる自己満足にならないよう、祈りだけにならないよう、現実を頑張った上で、「メリークリスマス」と笑いたい。


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