社会人で博士課程に入る経験 その4
これまで3つの記事を書いてきた。ダイジェストでこれまでを振り返ると、
2013年10月 社会人として働きながら博士課程入学
2015年10月 研究テーマ決まらず休学
今日は休学後の生活を書いてみたい。
ちなみに個人的な話になるが、2015年4月に結婚をし、GWには新婚旅行にも行っている。今振り返ると、博士課程の学生という意識が低い。
さらに、2015年夏から妻は海外(ロンドン)赴任が始まったので、実質的な生活は独身のようなもので、ただ妻が事情により日本に帰国できない立場だったので、割とよくロンドンに行っていた。休学して海外旅行へ…?iPhoneに入っている写真を振り返ると、2015年9月、11月、12月にロンドンに行っていたようだ。だいぶ遊んでいたのですね、自分は。それに加えて、当時は鳥羽市や北海道倶知安町にも出張で頻繁に通っていて、休学で学費の支払いが一時ストップしたこともあり、すっかり研究や論文から離れていたのかもしれない。
実のところ、あまり当時の記憶は残っていないのだけれど、2015年11月には、都市計画学会での査読付き論文の発表を行っていた。宮崎のシーガイヤで行われた全国大会の記憶はよく残っている。学部・修士課程の友人で、ストレートに博士課程に進学した友人も発表をしており、その際に博士論文について「書ける気がしない」と相談をした記憶がある。テーマを変え、路頭に迷っていた状況が今でも思い出される。
学会での発表そのものはうまくいき、とある大御所の先生に質問もいただき、「面白い研究だから継続して頑張ってください」と励まされた。それは、自信のなかった自分にはとてもありがたいコメントだった。
この頃から、出張の入らなかった土曜日には(もともと休日も出張の多い職場だった)、朝から夜まで国会図書館に籠もるようになった。やっていたのは、戦前の都市計画関連の雑誌の収集と読み漁り。2015年に都市計画学会に採用された「観光技術家協会」研究を手がかりに、歴史研究へとかじを切っていたのだが、まだ見通しは立っておらず、片っ端から都市計画と観光に関する戦前の史料を集めようと思ったのだった。
研究の進め方は人それぞれで、大きくは、
・じっくりと考え抜いて構想を得てから動き出すタイプ
・とにかく何か動いて成果を求めそれを積み上げてあとから構想を考えるタイプ
に分かれそうだが、自分は後者のタイプだった。
今思えば、この歴史史料の大量の精読は、歴史研究を行う上での基礎知識の醸成に大いに役立ったもので、決して無駄な作業ではなかった。
この史料収集で出会ったのが、長崎県雲仙における戦前の公園都市計画という動きだった。幾つかの雑誌記事を読む限り、自分が理想として描いていた観光地の都市計画が1930年代の雲仙という小さな集落で構想され、ある程度実現に至っていたことが判明した。これを調べたいと衝動的に感じ、国会図書館にストックされているあらゆる関連資料を集め、少しずつ歴史の断片を明らかにすることができた。しかし、それだけではただの雑誌史料の読み込みにとどまり、研究論文に仕上げるには情報不足だった。そこで着手したのは、新聞史料の渉猟であった。この作業は非常に大変だった。国会図書館に収蔵されている新聞は、紙面そのものの場合とフィルムロールの場合があり、特にフィルムロールは機械を使って読むのだが、とにかく時間がかかるのだ。史料をその場で読んでいる時間はないと判断し、該当する新聞記事の複写を集めることに専念したが、土曜日の朝9時、オープンと同時に国会図書館に入り、16時までの資料複写申請、17時までの開館時間では、せいぜい数ヶ月分しか集められないのだ(もちろん、昼食の時間なんてもったいないので何も食べずに作業を続けた)。
最近の新聞記事であれば、ユーザー登録や課金をすれば、ワード検索できるようなサービスもあるだろうが、長崎の戦前の地方紙(現在廃刊)にそんなサービスはない。地道に自らの目で全ての紙面に目を通し、その中から自分が欲しい記事を探すのみだ。
しかも、この方法は非効率である。そもそも、新聞記事になっているかどうかは確証がないのである。何年何月何日の何面に記事があるのか、いや、そもそも当時の「公園都市計画」は新聞記事になるほどの話題がなかったものかもしれない。1日に数ヶ月分しか進まないということは、戦前の20年ほどの新聞を集めるだけで1年がかかる計算になる。
作業の途中から、資料申請→新聞閲覧→印刷申請、という一連の流れをいちいちやってられないと気付き、まずは必要な日付・面数のみメモをして、後日まとめて印刷を申請する方が効率が良いことに気づいたが、それでも1日に1年分も閲覧できなかった。たまに有給休暇を使って図書館に籠もったが、社会人としての博士課程学生の限界を感じた。また、かなりニッチなテーマなのでライバルとなる研究者などはいなかったのだが、当時は、もし他の研究者やどこかの学生がこのテーマで研究を進めて先に論文を書かれてしまったらどうしようか、という焦りはかなりあった。
とにかく非効率な新聞史料収集であった。ある日、長崎県立図書館にも同じ新聞の所蔵があることが分かり、問い合わせをすると、フィルムロールではなく現物を閲覧でき、さらに複写も写真撮影を許可いただいた(著作権法が効かないため)。
とはいえ、急に長崎に行けるわけもなく、有給休暇を取ることができたのは2016年3月。今、JALの記録を振り返ると、
2016年3月10日〜13日 長崎
2016年3月24日〜27日 長崎
2016年4月14日〜16日 長崎
と、ものすごい頻度で3月〜4月に長崎を訪問し、図書館で資料収集をしていたようだ。また、この間、長崎県都市計画課にも史料の問い合わせをしており、奇跡的に戦前の雲仙に関する史料に出会うことができた。(やや専門的だが、一般的に現在の雲仙の史料は国立公園を担当する課にあるはずで、通常はそちらに問い合わせをするのだが、戦前は雲仙を都市計画部局が管理しており、その知識を持ち合わせていたため、都市計画課への問い合わせとなった。学生から行政に問い合わせると、いい加減な対応をされてしまうことも少なくないのだが、このときは幸運にも色々と史料を探してくれる職員にあたった。
さて、都市計画学会の査読付き論文の締切は毎年4月末と決まっている。4月14〜16日の訪問でなんとか資料収集を終えた自分は、そこから2週間で論文を書き上げるという無謀なチャレンジをスタートさせた。
実は2016年4月14日はあの熊本地震の最初の発生日である。夜便で長崎到着直後に地震に遭った。15日夜は雲仙にいたのだが、真夜中に震度5弱かそれ以上の揺れを数回経験しており、その後しばらくは、僅かな物音にも敏感になってしまい、精神的にやられていた。16日に帰京便を早めて東京に戻ってきたのだった。今思えば、PTSD状態だったのではないかと思う。
そんな状態だったが、4月末に論文を書き上げ、無事採用。
少しずつ少しずつ、博士論文の骨格に迫っていく感覚を持てるようになっていた。
雲仙の研究を書き上げた直後には、建築学会の査読論文にも2本の論文を投稿しており、それらも無事採用。一時はどん底にあった研究が2016年から盛り返していった。
この頃の生活は、平日は朝から夜まで仕事、土曜日は朝から夜まで国会図書館、日曜日は国会図書館で集めてきた史料の精読。国会図書館での作業はストレスフルで、時には発狂したくなるほどだったが、やらねばならぬという思い一心であった。
以前、指導教授に、「めんどくさいと思って誰もやらないことをやることに勝ちがある」と聞いたことがあり、研究の独自性というのはこういう地道な作業から生まれるのだと知っていたのが、この膨大な作業に入る自分の心を支えていた。
ちなみに、こうやって書くと一切遊ぶことなく研究に集中していたように感じるが、実はこの間も妻を訪ねてヨーロッパにはよく行っていた。写真を振り返ると、
2016年2月
2016年5月
2016年9月
2016年12月
にロンドンに行っている。なので、十分以上に遊んでいますね。
こうして2016年度が終わった。ここまでの業績は、
都市計画学会査読付き:2本
建築学会査読付き:3本
と、一般的な博士論文には十分な数の査読付き論文がストックされた。ただ、私が所属していた東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻の博士課程には、特に査読付き論文の要件がない。極端に言えば、0本でもいいし10本でもいいわけだ。それを楽と見るかどうかは人次第だが、私自身の解釈は、東大の博士論文は査読付き論文のような細々とした業績で評価するのではなく、もっと大きな展望を持った大きな論文に仕上げよ、というメッセージと受け取っていた。
なので、査読付き論文はたくさん書いていたので、少しずつ博士論文が書けるのではという自信は生まれていたが、まだ全体像は見通せていなかった。
なお、当時、指導教授にどの程度の頻度で相談に行っていたか。社会人でなかなか大学に行くこともできないので、この頃は査読論文を書き上げて読んでいただきコメントをもらい、それを修正するというパターンになっていた。こうやって査読論文という成果を示すことで、「ゆっくりだけれど一応研究は進んでいます」ということを伝えることになっていたように思う。
これで2016年度が終わった。2013年10月から数えて3年半の経過。そして修士課程から指導いただいていた教授があと1年で定年退職となることに気づいた。あと1年で何としてでも書き上げて修了しなければならない。それに対して、博士論文でやりたかったことはまだ道の半分程度だった。このまま社会人として仕事を続けながら調査を続け、論文を書くのは無理だと感じた。
そこでの選択は、退職することだった。当時の上司にそのことを告げると、制止されてしまった。それでも両立は困難と判断し、代わりに、休職という制度を選択することになった。
今日はダラダラと長く書きすぎました。
休職後の様子はまた今度。
(なお、校正せずに一気に書き下ろしているので、見出しも付けず読みにくいかもしれません。そのうち修正するかもしれません)