訃報に直面して。

今朝、大切な研究仲間の訃報を知った。研究仲間というよりは尊敬する先輩というべきか。私よりも数年歳上、研究者としてはまだまだ若手で優秀な方だった。あまりにも突然のできごとで、放心状態になってしまった。
その方とはもう数年会っていなかった。とはいえ、元気に活躍されていた様子はSNSで拝見していたので、まさかこんなことになろうとは考えてもみなかった。最後に対面で会ったのはもうコロナ前のとある学会だったと記憶している。当時、大学教員になったばかりの私に、ほんの一言二言だったが、気さくに声をかけてくださったことを覚えている。

その方もまだ学生だった頃。フランスに留学をされていて、私が修士論文の調査でパリを訪れていた時に、モンパルナスタワーの目の前にあるレストランに連れていってくださり、バケツほどの器に入ったムール貝を一緒に食べた記憶が鮮明に残っている。パリではこうやってムール貝を食べるんだ、と教えてくれた。
社会人になり、妹とパリ旅行をしたときには、パリの美味しいレストランに連れていってくれ、一緒にワインやチーズを楽しんだこともあった。そのお店はその後、何度も家族で使わせてもらった。

もう数年も連絡を取ることも会うこともなかったし、ほとんどその方のことを意識することなく日々の生活を送っていた。日本あるいは世界のどこかでその方が生きて活躍をしているけれど、ほぼ全くその人の存在を意識することのない状態と、訃報を知り、もうこの世の中で生きていないのだという事実を知る状態。それは雲泥の差があり、「その人がいない世界」というのがすでに始まっているのだと思うと、心が苦しくなる。亡くなってしまうと、その後の世の中で起きていることを知ることができないということ、そういう状態にその人がなってしまっているということに怖さを感じる。
人は亡くなっても時間は進み続け、世の中は動き続ける。でもその人がいないという変化がそこにはある。それは一体どういう差なのだろうか。

ともに都市計画を志し、ともに乗り越えてきた仲間(偉大な先輩だが)。全国に散らばっていても同じ共通のアイデンティティを持つ、その1人を失ったことが辛い。

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