幸福コンプレックス

「おかえりモネ」を見ている。

ただ見ているのではない。どハマりして見ている。朝8:00にはテレビ前にスタンバイして欠かさず見るだけでは飽き足らず、NHKプラスに登録してスマホでおかわりモネを1杯、2杯。下手すりゃ3杯。

朝ドラは、なんとなし習慣でここ数年見続けているけれど、こんなにしっかりハマったのは久々のこと。このドラマについては語ろうと思えばいくらでも語れてしょうがないのですが、今日は、昨日こちらに書き残した「ダンス・ダンス・ダンスール」と絡めながら述べたい。

「ダンス・ダンス・ダンスール」の主人公 潤平は、明るくて皆の人気者。身体能力は高くてクソ度胸があり、頭も悪くない。父親を早くに亡くすという不幸に見舞われたものの、幸いなことに母親もそこそこ経済力があり息子への理解もあるから、悲壮感はない。

物語の途中、潤平は自分のことを「俺って本当にうまいことやってきたハッピーボーイだから」と述懐する。

しかしそれってダンサーとしては良かれ悪かれだ、と彼は考える。紛争地域で両親を亡くしたダンサーや、親に置いていかれて愛を知らないダンサーが潤平のライバルなのだが、彼らには心の底からほとばしる何かがあって、それはダンスに現れる。それに比べて、潤平は自身を「空っぽ」と評し、ただただ楽しくてバレエを踊ってきた自分を否定する。

転じて「おかえりモネ」。

主人公 百音の同僚 莉子もまた、まぁまぁ可愛くて、両親にも友人にも恵まれ、これと言った挫折経験もしていない自分には強みがないと思い悩むシーンがある。そして、東日本大震災を東北で経験し、地元に対して並々ならぬ思いを抱くモネに対して「そういう経験がある人は強い」と、ある種の嫉妬を抱くのだ。

本来、人とはしあわせに生きたい生き物のはず。
しあわせの形は人それぞれだ。ある人にとってのしあわせが、別の人にとってはまったく取るに足らないものである場合もある。しかし、何人たりとも他者のしあわせを否定する権利はない、と私は思う。

幸せな人は、その幸福を思う存分享受し、味わい、生きて死んでいけばいいはず。

だが時として人は、ただハッピーに生きてきた自分を「頑張っていない悪い子」とラベリングしてしまう。

おかえりモネでは「何もなく普通に、ひたすらハッピーに生きてきた私みたいなのは、こういう仕事して、人に何か伝える資格あるのかな」とつぶやいた莉子にたいして同僚の内田が、「生きてきて、何もなかった人なんていないでしょ」と返す。

本当にその通り。
今現在、ハッピーだ。しあわせだ。と確信できるのは、その人の才能だ。どんなに多くの豊かさを享受しても「しあわせだ」と感じられない人も大勢いる。

潤平も莉子も、自身の選択によってハッピーになっているのだ。実際、両者ともにそこそこ試練にはぶち当たっているんだけれど、持ち前のガッツや明るさでそれを乗り越えてきているのだ。決して、何も考えずにノホホンと生きてきたのではない。二人は強いのだ。結局、強い二人はまたしても試練を糧に変え、更なる成長を遂げていくわけだが、誰しもが心にとどめ忘れてはいけないこと、それは

「人は傷つく必要なんかない」「何もなくてもいいじゃない。どんな人もいるだけでいいじゃない」

この菜津さんのセリフに尽きるのではないかと思う。


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