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初めての競争意識

 むろんプロのレベルには到底及ばないまでも、今でこそ先生のような役割を任されることもある私ですが、私が変わり始めた”原点”はやはり中学時代にあります。

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 恩師との出会いに加えて、桐が丘での生活が私にもたらしたのは「負けたくない」という競争意識でした。
 今思い返すと、それはもう、とにかくすべてが勝ち負けの対象になっていたように思います。勉強もしかり、体育の授業もしかり。当時、親と担任がやり取りをしていた当時の連絡帳には「まるでゲームをしているかのようです」と書かれていました。
 1学年6人前後の2クラス。たったの12人と思われるかもしれませんが、それまでの私は同級生に囲まれたことなどほとんどありませんから、立派な大集団です。ホームルームに象徴される学級活動のクラスとは別に、授業時には12人がA,B,C,の3つのコースに分類されていたのですが、私は教科書を用いて普通科の授業を行うクラスだったため、最初は正直不安でした。なぜなら、小学校の後半は基本的にマンツーマン、しかも理科や社会の代わりにリハビリテーション(※身体の緊張を弛緩したり、機能を改善したりするトレーニング)の授業を行っており、基礎学力は他者より低いだろうと感じていたからです。
 それでもなんとかついていくことができたのは、恩師の国語の授業をはじめとして、先生方が工夫を凝らした授業をして下さっていたからだと思います。通知表も(基本的に賛辞と今後の目標しか書かれない)小学校時代の文章による評価から、10段階による絶対評価に変わり、よりシビア(明確)に見られるようになりました。私にはそれが嬉しく、友達と見せ合っては来期への原動力に変えていました。当然、中間テストや期末テストも競争の対象だったことは言うまでもありません。 
 

 環境が変わったのは机上の学習だけではありませんでした。体育の授業もその1つです。桐が丘で6年間を過ごしましたが、特に最初の1年間は忘れられません。先生はまるで松岡修造のような熱い人で、授業のスタートは決まって、当時流行っていた宇多田ヒカルの『Can You Keep A Secret?』やB’zの『ultra soul』といったノリノリの曲をかけながら、晴れの日なら校庭を、雨の日なら体育館を、どれだけ走れたかを測定する「5分間走」から始まるのです。それは間違いなく、過去の自分に打ち勝つこと、そしてライバルに負けてたまるかという競争意識に火をつける狙いがありました。そして放課後には、同好会(いわゆる部活)の顧問として熱く声を張り上げ、私はまたしても一緒になって燃えていたのでした。
 残念ながら、その先生は入学して1年で転任となってしまいましたが、私に「競い合う楽しさ」を教えてくれた人でした。桐が丘で過ごした6年間で、野球、サッカー、風船バレーボール、ボッチャ、ハンドサッカーと様々な球技を体験しましたが、チームスポーツの醍醐味、すなわち集団で1つの目標に向かっていく楽しさを得られたこともまた、新たに得た気付きの1つです。
 そうした競争意識が生まれる一方で、この頃の私にはもう1つ別の感情が芽生え始めていたのです。

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*写真は3年前くらい?・・・車椅子テニス体験

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長野 僚
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