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唯一の心残り

 学生時代のクライマックスは、本当に予期せぬ形で迎えました。現在の状況と重なる部分もあるかと思いますが、日常への感謝を忘れないために、こちらも公開したいと思います。

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 大学入学以来、本当に全力で無我夢中で走ってきました。通学、講義、イベント、事務方との交渉と、やるべきことがありすぎて息つく暇がなかったというのが正直な思いです。部活やサークルに入れば良かったんじゃないかと言ってくれる方もいましたが、当時の自分にとってはこれが限界だったと思います。もし欲張っていたらおそらく4年間では卒業できていなかったでしょうし、ひょっとすると体調を崩して中退していたかもしれません。大学は人生の夏休み、とはよく言ったものです。

 そんな学生生活の唯一の心残りは、「卒業式ができなかった」こと。私は3.11を忘れもしません。卒業式を1週間後に控え、行ったことのない所へ行こうと『三井アウトレットパーク入間』を訪れていた時、あの未曾有の震災に遭遇したのです。
 まさに激震でした。買い物を終えて2階の喫茶店でくつろいでいた午後の昼下がり。今までに感じたことのない揺れに、一瞬頭の中が真っ白になりました。1度目の揺れでは店内に留まるように促されましたが、直後に襲った2度目の揺れでは一転、直ちに外に出るようにとの指示がありました。私は幸い出口近くにいたのですが、こんなに長く感じた2mはかつてありません。同時に、床が抜けて電動車椅子ごと下に落ちるのではないかという恐怖に襲われ、そして直感的に「東京がこんなに揺れているのだから、きっとどこかで大変なことになっているよ」とヘルパーに告げたことを覚えています。アウトレットは即刻営業中止となりました。
 しかし、次に頭に去来したのは「このまま下に降りられないかもしれない」という恐怖でした。電動車椅子だけで105kg、私を合わせると150kgほどになります。エレベーターが停止することは車椅子ユーザーにとって最悪の事態です。まして全員がパニック状態の今、電動車椅子と私の運搬を手伝ってくれる保証はありません。その場で一夜を明かすことも覚悟しましたが、幸いまだ1機だけ動いているエレベーターがあり、1階に降りることはできました。

 その後はおそらく皆さんの想像通りかと思います。アウトレットから最寄りの入間駅まで20分程の距離が、待ち時間を含めて3時間を要しました。駅に着いても電車は当然運転を見合わせていますから、もの凄い人だかりでした。タクシーを呼ぼうと躍起になる人や家族に迎えに来てもらおうとする人、歩いて帰ろうと決心し始める人・・・。皆難航しているようでした。
 その日のヘルパーは夕方から別のアルバイトがあったのですが、いくら電話をしても繋がらず、たまたま最寄り駅が一緒だった私たちは、ともに一夜を明かそうと決めました。電話の回線までもがパンクしてしまっていたのです。
 そんな中、まず私たちが取った行動は家族の電話番号をメモすることでした。携帯の充電が切れたとしても、連絡手段を断たれないためです。次にコンビニに走り、簡易充電器を購入。最後に24時間営業のファミリーレストランを探しました。1時間後、幸い駅の近くにお店を見つけ、席を確保できた時には心底ホッとしました。
 12時間ほどそこにいたでしょうか。深夜には実家が近く、これから同僚になる方がわざわざ車で様子を見に来てくれたりもしました。この時ほど人の優しさが身に染みたことはありません。23時半頃に電車の運転が再開したようでしたが、車内での余震や二次災害の発生等を考慮して、その日はその場に留まりました。車椅子ユーザーの災害時の危うさを痛感しましたが、この判断は正しかったと思います。翌朝、配布された新聞を見て初めて、事の重大さを知りました。

 さて、「東日本大震災」から1週間後、東京国際フォーラムで行われる予定だった卒業式は中止となり、ヒルトン東京で行われるはずだった卒業祝賀会も当然自粛となりました。当日は思い出のキャンパスに1室ずつ学部ごとに集められ、卒業証書と教員免許状を受け取って終了となりました。最後の学長の挨拶では、「大東文化大学は被災者の方の避難先として校舎を開放するため、次年度の入学式はゴールデンウィーク後になる」と告げられました。
 当時は恥ずかしながら自粛ムードが悔しくて仕方なかった私ですが、今ならすべて納得できます。そして災害は2度と起こってほしくはないですが、ある意味特別な卒業式となりました。
 
「いつかもう1度みんなで卒業式をやりたい」
これが、当時の私が抱いていた夢の1つです。

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