まさかの再発
1カ月での復帰を試みて失敗し、どん底状態で社会福祉士の実習を乗り切ったものの、職場への復帰は叶わず、本格的に服薬とカウンセリングを開始し、ようやく今の自分と向き合い始めた私。今度こそと思っていましたが、まさかの「再発」が待っていました。
再発のきっかけは、相手の自由すぎる”配慮”
きっかけは、新規事業として新しい上司から社内研修の企画・立案を打診されたことでした。他の同僚も私の復帰に向けて本格的に整え始めており、この頃にはできるだけプレッシャーをかけないようにと、社長との連絡を仲介してくれたり、私のための仕事を考えてくれたりしていました。こうして熟考した上での、社内研修の企画・立案の打診でした。
「当事者目線で伝えることは長野にしかできない。何もかも1から依頼すれば(他者に左右されず)自分のペースで進めることができるのではないか」
今ならば最大限に配慮してくれていたことは十分に理解できます。思い返せば、仕事の依頼があった際に期限を言われたわけではありません。しかし、当時の私は「好きなようにやってごらん」という言葉の意味を「もう体調が悪くても休むことはできない」と勝手に解釈してしまったため、何からやれば良いのか分からずに、パニックに陥ってしまったのです。
「もうダメだ・・・」と思ったのは、【誰も悪くないのに・・・】という意識
「今回は怒られたわけでも、ましてパワハラをされたわけでもない。これだけ配慮をしてもらっているのに、パニックになってしまった。自分は弱い人間だ。もう仕事はできない。このままでは一生治らない」
そんな思いが一気に溢れました。悔しさよりもこれ以上、仲間には迷惑をかけられないという気持ちが私を支配しました。瞬く間に症状は初期段階に後退、(食事時の)嗚咽や自責、焦燥感は急速に増していったのです。やがてヘルパーに指示を出すことも辛くなり、とにかく現実から逃げたいという一心でした。
2013年5月の1カ月を、私は実家で過ごしました。中旬頃になると少しずつ症状は落ち着いてきたのですが、退職の意志が揺らぐことはありませんでした。私は体調の良い時を逃すまいと、これまでの感謝を書面にまとめ始めました。これまでよく自宅に来ては話を聞いてくれた先輩との面談の最後に渡し、これまでの想いを精一杯伝えようとしたのです。一方で、文末には「今の私が復帰できる条件」という項目を添えていました。
心の中には、辞めたくないという思いが少なからずあったのでしょう。そして迎えた退職を告げる話し合いの日。学生時代から自分のフィールドに親が出てくることをことごとく嫌ってきた私でしたが、この時は拒否しませんでした。恥ずかしながら両親同席のもと、自作の文書を手に話し合いの席に着いたのです。
「今回は仕事を振られただけでパニックになってしまいました。今の自分にはもう仕事はできません。そして、このままでは一生病気は治らないかもしれません。悔しいですが退職させて下さい」
退職を伝えた結果・・・
その人は静かに私の話を聞いた後、じっと文書に目を通し、私にこう言ったのです。
「社長も戻ってきてほしいと言っているよ。君は辞めてはいけない人材だ。僕が仕事を作るから大丈夫」
この言葉に内心安堵したものの、すぐに「今すぐには仕事ができない」という不安が頭をよぎりました。しかし、私のそんな心配は杞憂に終わりました。
「君が書いてくれたように、まずは1人暮らしを再開することに専念しよう。焦らずに一歩ずつだね」
こうして退職は撤回され、再び生活リズムを整えた後に、最良の理解者の下で週1回数時間のリハビリ出社に挑むことが決まったのです。
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*ヘッターの写真は私が研修担当だった数年前、職場の上司に提出した年間計画の一部。
全12回の年間計画と展開を1週間足らずで思考し、進行表を提出した日々が懐かしい・・・^^;