忘れられない1か月
昨日は人生の大きなターニングポイントとなった【恩師との出会い】について綴りましたが、今日はそんな先生への憧れもあったのでしょう。
今に続く【忘れられない1か月】です。
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私の大学生活を、この1カ月を抜きに語ることはできません。「教育実習」での日々です。まだまだ珍しい「電動車椅子の先生」として、大変貴重な経験をさせていただきました。
私が教育学科に進学した理由は、「子どもと関わる仕事がしたかった」からです。そして教員免許の取得を目指した理由は、「(47都道府県の幼稚園・公立小学校教員採用試験の中で)東京都の小学校だけピアノとプール(=25mクロール)の実技試験がなかったからに他なりません。何とも単純で恥ずかしい限りですが、要するに勉強さえ頑張れば何とかなると思い、『確かに教育を学んだという証を残したい!』という一心で、やれるだけやってみようと決意したのでした。
「教育実習は母校で行う」という大学の原則に習い、私は出身校の『筑波大学附属桐が丘特別支援学校』(2007年度より校名が特別支援学校に改称)の小学部で実習をさせていただくことになりました。
大学4年生の10月、行事が最も多い2学期に”先生"として母校に戻ってきたわけですが、私が配属されたのは2年生の児童6名のクラスでした。そして指導教官を引き受けて下さったのはなんと、私が小学校2年生の時に(足の手術のために)同校の入院部に転校した際、隣のクラスの担任をしていた先生だったのです。つまり、「小学校2年生の私を知る先生が担任を務める、小学2年生のクラスに14年経って戻ってきた」ことになります。
この“偶然”は指導教官自らの志願によって実現したと、後から聞きました(つまり必然だったのです)。そして何より、特別支援学校免許を取得するわけではない私の実習を快く受け入れて下さった学校関係者の皆さんに、本当に感謝しています。
話を本題に戻しましょう。実習を円滑に進めるにあたり、私は「ヘルパーの同伴」と「板書のサポート」の2点をお願いしました。しかしいずれも答えはNo。理由は「できないことをどのように工夫するかも含めて、児童・生徒に手本を見せてほしい」というものでした。在学中から1人で通学できていたこともあり、ヘルパーの同伴もすべては認められず、最終的には実習初日と2日目の運動会、1週間後の校外学習のみ許可をしていただきました。当時は「学生とは立場が違うのに」と、この決定を正直不服に思っていましたが、今では厳しく接していただいて本当に良かったと、心から思っています。
実習で私が最初に指摘されたのは、「自分が何かをしようと思わず、まずは見守る姿勢をもつ」ということでした。すなわちそれは、子どもたちのことを知らなければ何も始まらないという、先生からのメッセージでした。次いで、限られたスペースで自分なりの指導法を模索すること、自分だからこそできる接し方、伝え方を工夫することも大きな課題でした。
特別支援学校の教室内は通常級に比べ、人数こそ少ないものの、各々の障害特性に応じた机や椅子、歩行器、そして車椅子等が置かれているため、電動車椅子の私が動けるスペースは自然と限られます。しかし、私はできるだけ子どもに近づかなければ、彼らが何を書いていて、どんな問題につまずいているのかを見ることができません。教師といえば「机間巡視」(児童・生徒の机の間を巡りながら指導すること)という思いが強く、それができない自分に強いジレンマを感じていました。
加えて、小学2年生という彼らの体格を考慮する必要もありました。「近づきすぎると子どもたちはあなたの顔しか見えないんだよ」と言われた時は、目から鱗でした。
こうした様々な葛藤を抱えながらも、見守る姿勢を徹底したことで子どもたち1人ひとりの特徴も徐々に見えてきました。メイン教科として担当させていただいた国語の説明文で文章を一斉に音読させようとした際、「丸読み」の指示が通じなかったことは、特に印象に残っています。これにはさすがに【世代間ギャップ】を感じざるを得ませんでした。しかし、子どもたちだけでの音読では一向に揃う気配が見られません。
今はその理由もしっかり説明することができますが、当時はまったく分かりませんでした。また、同じ「文章を読み飛ばしてしまう」という結果でも、児童には各々異なる障害特性があるため、プロセスはそれぞれ違うわけです。例えば、姿勢保持が困難なために文章全体を見ることが難しい場合もあれば、視覚的な困難さから縦書きの文章を追い続けることが難しいといったケースもあり、結果だけを見て一喜一憂してはダメだ、と学びました。
一単元を丸々行った国語の授業はどうだったかいえば、とても先生と呼べるレベルではありませんでした(当然ですよね・・・)。学習指導案に縛られて先に進めようと焦る未熟な私に、それでも子どもたちは必死についていこうと頑張ってくれました。毎日恒例の帰りのホームルームで発表する「楽しかったこと」では、いつも「長野先生の授業」と言ってくれた子どもたち。後から聞いた話ですが、保護者の方も一緒に音読の練習までしてくれていたといいます。クラス全体で私を受け入れて下さったことに、心から感謝しています。今でも最高の思い出です。
6名の児童に対して、メインとサブの教師2人体制。それぞれの役割に応じた働きかけがあることはもちろん、緊密な連携の大切さも学ぶことができました。担当の国語以外にも算数、生活科、自立活動(※自身の心身機能の調和と改善を目的とした特別支援級特有のカリキュラム)の指導を経験させていただき、子どもたちの豊かな発想やユニークな発言にもたくさん触れることができました。また、実習生でありながら他学年の道徳の授業でお話しする機会をいただいたり、筑波大学から来た他の教育実習生に「自立活動」についての説明を任されたり、高等部の後輩に見守られながら研究授業を行ったりと、中学・高校時代に在籍した母校だからこそ与えて下さった先輩としての経験も印象的です。
(最後になりますが)私にとって本当に驚かされることが多かった忘れられない1カ月でした。実習も最終盤に差しかかった頃、同じく車椅子に乗った児童に「先生、いつもここ通るよね」と言われ、道を譲られた時には驚きました。2年生と侮るなかれ。子どもたちは皆、本当に私のことをよく見ていました。
もうすぐ高校生となる彼らに私が今伝えたいことはただ1つ。
「皆が私の先生だったよ!」
大人になった彼らとの再会が今からとても楽しみです。
*写真は10年前の教育実習日誌より・・・実習前に書いた目標。
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この記事は今から3年前、私が夢を追いかけて会社を辞め、当時を思い出しながら熱意とエネルギーだけで書いたものに、若干の加筆・修正を加えたものです。
文中に出てくる彼ら・彼女たちは今、高校3年生になっています。そして今、自分の創った場でこうして”共演”できていること、本当に嬉しく思っています。
それぞれの未来でどんな夢を掴むのか、陰ながら見守っていきたいと思います。